<「国境なき医師団」(MSF)の取材をはじめた いとうせいこうさんは、まずハイチを訪ね、今度はギリシャの難民キャンプで活動するMSFをおとずれた。「暴力や拷問を受けた人びとを対象としたプロジェクト」を取材し、そして、MSFギリシャの理事会後の食事会で、熱く語り合うメンバーに囲まれた...>
これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 」
前回の記事:ヨーロッパの自己免疫疾患─ギリシャを歩いて感じたこと
晩餐に招かれる
同じ7月16日、土曜の午後8時に宿舎の呼び鈴が鳴った。
先に部屋を出て玄関に向かったのは『国境なき医師団』ジャパン広報の谷口さんで、そこで明るい声を出しているのが聞こえた。
あわてて部屋を出てみると、高い背を丸めた同い年くらいの男性がいて、ギリシャ訛りの英語でさかんに話をしていた。
握手をして自己紹介しあえば、彼こそMSFギリシャのエリアス・パブロプロスさんで、俺に心の底からという感じで「ようこそギリシャへ!」と言った。白髪頭を短く刈り、早口で長身で目をきょろきょろ動かしてよく笑う、手振りの大きな顎の少ししゃくれた人物だった。
彼と谷口さんはスワジランドで一緒のミッションに関わったことがあったそうで、いわば顔なじみの一人だった。そのおかげでMSFギリシャの理事会後の食事会に、我々も参加出来ることになっていた。
「じゃ、歩いていこう」
エリアスさんは濃い眉毛の下の目を丸くしてそう言った。やはり歩くのだと思った俺はうなずきながらあとに従った。
数本の道路を渡って移動する十数分の間、エリアスさんはまず自分の境遇について話した。世界各国で活動を続けてきた彼は、まさかEU内にある自国の国内スタッフになると思っていなかったと言った。
「刺激的で不思議だよ」
と笑うエリアスさんだったが、心に混乱のある様子はなかった。ただただ本当に刺激的な毎日を過ごしているようにしか見えないのは、エリアスさんがタフなミッションを幾つも経てきたからだろうと思った。笑顔を絶やさないことには一定の効力があるのに違いない。
あれこれしゃべって、というか主にエリアスさんと谷口さんの会話を聞きながら歩いて、やがていかにも地元のレストランという感じの店へ来た。入り口から中を覗くと、英語の面影がどこにもなかった。ビールの瓶にもメニューにもギリシャ語ばかりがある。
促されて奥に入れば半野外の場所に長いテーブルがあり、そこにすでに8人のメンバーが一枚の壁を背にしていてそれぞれに誰かとしゃべっていた。紹介されて軽く会釈をして椅子に座ると、テーブルの端にMSFギリシャ事務局長のマリエッタがいるのが見えた。
明るく騒がしい夕べ
パンが出て来た。イカのフリッターが出て来た。小魚を揚げたものもうまかった。まさに地元の名店なのだろう、出てくるものはすべて素朴だが味わいが深かった。俺はすぐにウゾという現地の強い酒を追加注文した。軽いおかずによく合うと思ったのだ。テーブルの向こうから「いいチョイスだ!」と親指を上げてくれる男性がいた。
小さなグラスに入った透明の酒は、水で割ると途端に白濁した。ぐいっとあおるとアルコール度の強い酒が口腔をしびれさせ、胃を握った。鼻から香りが抜けて出ていった。
さらに何人かが加わり、会は盛大になった。聞けばMSFギリシャの主要スタッフがほぼ全員参加しているらしかった。
目の前の席に来たジョージ・ダニエルはストライプのシャツの前をはだけ、小さな眼鏡をかけた医師だった。彼は俺が日本から来たと聞いて、すぐに福島の現状を質問してきた。特に放射能被害について、それは本当に大きな災厄だと表現しながら幾つかの医師的な意見を述べた。
そのあとダニエルは、医師としてミッションに行くのはもうやめたのだと話してくれた。「何時だろうが携帯で呼び出されるのはこりごりだ。あれは医療という名の売春だったよ」
きついジョークを言う彼はしかしMSFから離れることはせず、ミッションが必要とするはずの医療機器を販売する仕事に転身しながら、現在もMSFギリシャの理事として組織に関わっているのだそうだった。
その横にいるのは副会長のエレーニ・カカブ。ギリシャ語と英語のちゃんぽんで(なぜなら一人だけオランダのスタッフ、短い髪の男性ビム・デ・グラートがいたから)、彼女はHIVの実例を語っていた。なんでもタイだけがゲイのHIVを見事にコントロール出来ており、薬の投与のタイミングなど含め世界に類を見ないケースになっているらしかった。
「このタイの問題は今、ほんとに話題なの」
彼女はそう言ってギリシャ風の大きなフェタチーズの乗ったサラダを食べ、ズッキーニのコロッケを食べ、その間に俺たちが2日後にレスボス島の難民キャンプに行くと聞いて、
「泳ぐといいわ」
と明るく言い、またタイの話に戻った。エレーニが考えるに、まず第一にタイ保健省がゲイをよく理解しており、感染者を疎外せずに積極的に受け入れたことが大きかった。第二に、家庭にも同じことが言えると彼女は医療関係者でない俺の目までのぞき込んで言った。
「ゲイに対しても家族のサポートが厚いんです、タイは」
そんな調子で、MSFギリシャのメンバーは長いテーブルを囲んで実によく議論し、質問しあっていた。谷口さんいわく、それはイタリアとギリシャでよく見る光景なのだそうだった。ギリシャ・ローマ文明と言えば大げさだけれど、薄暗さも気にせずアルコールを飲みながらひたすら語り合っている大人の姿を見ていると、文化の筋力が違う気がした。
「MSFの総会でも、エリアスはよく手を上げるんです」
エネルギッシュな男、エリアス
谷口さんは面白がってそう教えてくれた。その向こうでエリアス自身は当然別な議論に参加していた。彼は若い頃に医学を数年学びかけ(手術の見学中に貧血で倒れ、自分には無理と医学部を中退した、と言っていた)、ロンドン大学で公衆衛生の修士課程を取り、保健政策と医療のバランスをより大きな見地からとらえるのに長けていた。いずれはMSFの活動から大学で教える側に行くはずの人物だった。
そのエリアスはいまや英国の資本主義の方がきつい、と話していた。アメリカがまだしもだと思えるほどだ、と。その後ろでカーティス・メイフィールドのソウルフルな演奏がかかっていた。店の選曲は七十年代米国R&Bの渋いところを攻めてくれていた。
会長から話を聞く
じき、ウゾを頼んだ俺を誉めてくれたヒゲ面の、ちょっとヒュー・ジャックマンみたいな風貌の男性が話しかけてきてくれた。彼こそがMSFギリシャの会長、クリストス・クリストウ氏だった。にこやかでありながら、時に目の奥に鋭い眼光がきらめくクリストス氏は、そのあと面白い話を色々教えてくれた。
MSFギリシャ理事会会長クリストス氏
まず、MSFと国際環境NGOグリーンピースが組み、エーゲ海や地中海に3隻の船を出しているとのことだった。その協力には多くの議論があったが、しかし海上にひっきりなしに現れる移民ボートを救助し、海岸で待ち受ける医師によって適切な病院に運ぶには、両者の力の連係が必要だった(その活動に関する映像はこちら)。
また、彼らMSFギリシャの活動は、そもそも市民レベルで培われてきた難民・移民サポートなしにはあり得ないのだ、と自身もウゾを飲み干しながらクリストス氏は言った。
「元々災害があれば駆けつけたし、資金も送る組織がずっとギリシャにはあったんです。誰かが困っていたらそこにおもむくというのは、人間性そのものの発露に過ぎません。珍しいことじゃない。そうやってギリシャの市民はボランティアを続けてきたんです」
ここにもまた熱い人間がいたのに気づき、俺はクリストス氏のいうことすべてを聞き取り、メモろうと姿勢を前傾させた。その集中力は酒のせいでもあったかもしれない。
「さらに僕らの国には経済危機がありました。社会が崩壊するような危険が訪れた。しかし、だからといって難民・移民への心遣いが消えることがなかった。これは奇跡ですよ。草の根運動は継続したんです」
その事実には学ぶことが多かった。特に草の根運動にも、他国民の困窮に手を差し伸べることにも疎くなっている今の日本人には。
クリストス氏はレスボス島の3人の住民がノーベル賞候補に上がったことを例に挙げた。2人はおばあさん、1人は漁師、どちらも普通の島民だった。昨年のシリア難民の漂流に関して彼らは徹底的に力を尽くし、たくさんの人の命を救った。赤ん坊にミルクを飲ませているおばあさんの写真は、世界に配信された。
それは観光産業で生計を立てる島の普通の人々だった。難民・移民のおかげで訪問者が減っている場所でも、市民運動のネットワークは途絶えることがなかった。それが奇跡なのだ、とクリストス氏は再び強調した。
「この一連の苦難は、これまでのMSFとは違う大きなチャレンジを我々全世界のメンバーに与えていると思います。単にMSFだけが活動するのではなく、市民と共に救助を行う、継続する、発展させる。そこに新しい道が拓ける」
うんうんとうなずく俺に、目の澄んだ、そして微笑むと目が細くなってなくなってしまうヒゲ面のMSFギリシャ会長は、また真面目な表情になって言った。
「2000年に戻りましょう」
その年のどんな話になるのかと思うと、クリストス氏は続けた。
「つまりHIVの問題です。エイズが蔓延し、全世界で対応せざるを得なくなった。すると患者とその周囲の人々が自主的に組織化を始め、法的に闘い出したんです。その市民的ネットワークは南アフリカからまさにドミノのように世界へと連鎖しました。そしてARV治療、すなわち抗レトロウィルス薬治療が国際標準となり、コストは一割、時には100分の1にまで下がることさえあった。私はね、現在の難民・移民の問題もこれとよく似ていると思うんです」
地球的な変化、それもポジティブな流れをクリストス・クリストウ氏は感じていた。あるいは強くアピールしようとしていた。
この歴史のどん詰まりの前で、彼は決して諦めようとしていなかった。それどころかMSFの活動を市民運動との連帯で拡大させ、自主的で人間主義的な動きへと導いているのだ、と思った。
MSFギリシャ会長は給料のない地位であることを、俺は谷口さんから聞いた。それでも会議の度に、クリストス氏は現在の住居のあるロンドンからアテネに来ていた。
残った男たちと彼が二次会へ繰り出す前に俺に伝えた言葉を、是非ここに再現したい。MSFギリシャの会議、その理事会を終えたばかりのクリストス・クリストウ氏はこう言った。
「理事会でこそ、私のような会長や事務局長は夢を語らなくちゃいけません。誰もが現実的になってしまうから」
この「夢」という言葉も、前々回の「尊厳」と同じく小馬鹿にされて嘲笑されていいものではない。特に本当に困難に直面し、日々悲惨な事実と向き合っている人々が口にするその言葉、その概念は。
黙り込む俺に、さらに会長は言った。
「議論は常に他者を尊敬しているから出来ることです。けれど私たちも西洋的に考えるとついマッチョになり、攻撃して議論に勝とうとしてしまう。そういう理事会の多くによって、我々は大切なものを失ってきました。これこそ反省すべき点です」
いやはや、なんと深い言葉であったことか。それはギリシャが西洋と東洋のはざまにあるという長い時の向こうに埋もれた真実を、俺の目の前で掘り出してみせるようなものだった。
すでにギリシャ側の女性は全員三々五々帰ってしまっていた。残ったMSFの男のうちの何人かは肩を並べてレストランを出た。
俺はあとについてしばらく歩き、自分はこの国で起きていることから目をそむけられないと思った。遠い西洋で起きている無関係な事象ではなかった。それは人類の政治史の問題でもあり、戦争史のひと幕でもあり、哲学と行動の倫理を問う機会でもあり、何よりまず人間がどこまで人間的であり得るかの正念場でもあった。
やがて彼らの次の店は見つかり、俺たちはエリアスにもダニエルにもビムにもクリストス氏にも固い握手をし、別れを告げた。
俺としては、正念場の真ん前にいて屈することのない陽気な連中に後方からエールを送るような気持ちだった。
そして街路樹のスズカケの木の下を宿舎の方へと歩き出しながら、彼らの存在のありようをわずかなりとも書き残さなければたまたま今自分が生きていることの意味がない、とやにわに理解したのだった。
そして帰り着く
(つづく)
いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
いとうせいこう
これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 」
前回の記事:ヨーロッパの自己免疫疾患─ギリシャを歩いて感じたこと
晩餐に招かれる
同じ7月16日、土曜の午後8時に宿舎の呼び鈴が鳴った。
先に部屋を出て玄関に向かったのは『国境なき医師団』ジャパン広報の谷口さんで、そこで明るい声を出しているのが聞こえた。
あわてて部屋を出てみると、高い背を丸めた同い年くらいの男性がいて、ギリシャ訛りの英語でさかんに話をしていた。
握手をして自己紹介しあえば、彼こそMSFギリシャのエリアス・パブロプロスさんで、俺に心の底からという感じで「ようこそギリシャへ!」と言った。白髪頭を短く刈り、早口で長身で目をきょろきょろ動かしてよく笑う、手振りの大きな顎の少ししゃくれた人物だった。
彼と谷口さんはスワジランドで一緒のミッションに関わったことがあったそうで、いわば顔なじみの一人だった。そのおかげでMSFギリシャの理事会後の食事会に、我々も参加出来ることになっていた。
「じゃ、歩いていこう」
エリアスさんは濃い眉毛の下の目を丸くしてそう言った。やはり歩くのだと思った俺はうなずきながらあとに従った。
数本の道路を渡って移動する十数分の間、エリアスさんはまず自分の境遇について話した。世界各国で活動を続けてきた彼は、まさかEU内にある自国の国内スタッフになると思っていなかったと言った。
「刺激的で不思議だよ」
と笑うエリアスさんだったが、心に混乱のある様子はなかった。ただただ本当に刺激的な毎日を過ごしているようにしか見えないのは、エリアスさんがタフなミッションを幾つも経てきたからだろうと思った。笑顔を絶やさないことには一定の効力があるのに違いない。
あれこれしゃべって、というか主にエリアスさんと谷口さんの会話を聞きながら歩いて、やがていかにも地元のレストランという感じの店へ来た。入り口から中を覗くと、英語の面影がどこにもなかった。ビールの瓶にもメニューにもギリシャ語ばかりがある。
促されて奥に入れば半野外の場所に長いテーブルがあり、そこにすでに8人のメンバーが一枚の壁を背にしていてそれぞれに誰かとしゃべっていた。紹介されて軽く会釈をして椅子に座ると、テーブルの端にMSFギリシャ事務局長のマリエッタがいるのが見えた。
明るく騒がしい夕べ
パンが出て来た。イカのフリッターが出て来た。小魚を揚げたものもうまかった。まさに地元の名店なのだろう、出てくるものはすべて素朴だが味わいが深かった。俺はすぐにウゾという現地の強い酒を追加注文した。軽いおかずによく合うと思ったのだ。テーブルの向こうから「いいチョイスだ!」と親指を上げてくれる男性がいた。
小さなグラスに入った透明の酒は、水で割ると途端に白濁した。ぐいっとあおるとアルコール度の強い酒が口腔をしびれさせ、胃を握った。鼻から香りが抜けて出ていった。
さらに何人かが加わり、会は盛大になった。聞けばMSFギリシャの主要スタッフがほぼ全員参加しているらしかった。
目の前の席に来たジョージ・ダニエルはストライプのシャツの前をはだけ、小さな眼鏡をかけた医師だった。彼は俺が日本から来たと聞いて、すぐに福島の現状を質問してきた。特に放射能被害について、それは本当に大きな災厄だと表現しながら幾つかの医師的な意見を述べた。
そのあとダニエルは、医師としてミッションに行くのはもうやめたのだと話してくれた。「何時だろうが携帯で呼び出されるのはこりごりだ。あれは医療という名の売春だったよ」
きついジョークを言う彼はしかしMSFから離れることはせず、ミッションが必要とするはずの医療機器を販売する仕事に転身しながら、現在もMSFギリシャの理事として組織に関わっているのだそうだった。
その横にいるのは副会長のエレーニ・カカブ。ギリシャ語と英語のちゃんぽんで(なぜなら一人だけオランダのスタッフ、短い髪の男性ビム・デ・グラートがいたから)、彼女はHIVの実例を語っていた。なんでもタイだけがゲイのHIVを見事にコントロール出来ており、薬の投与のタイミングなど含め世界に類を見ないケースになっているらしかった。
「このタイの問題は今、ほんとに話題なの」
彼女はそう言ってギリシャ風の大きなフェタチーズの乗ったサラダを食べ、ズッキーニのコロッケを食べ、その間に俺たちが2日後にレスボス島の難民キャンプに行くと聞いて、
「泳ぐといいわ」
と明るく言い、またタイの話に戻った。エレーニが考えるに、まず第一にタイ保健省がゲイをよく理解しており、感染者を疎外せずに積極的に受け入れたことが大きかった。第二に、家庭にも同じことが言えると彼女は医療関係者でない俺の目までのぞき込んで言った。
「ゲイに対しても家族のサポートが厚いんです、タイは」
そんな調子で、MSFギリシャのメンバーは長いテーブルを囲んで実によく議論し、質問しあっていた。谷口さんいわく、それはイタリアとギリシャでよく見る光景なのだそうだった。ギリシャ・ローマ文明と言えば大げさだけれど、薄暗さも気にせずアルコールを飲みながらひたすら語り合っている大人の姿を見ていると、文化の筋力が違う気がした。
「MSFの総会でも、エリアスはよく手を上げるんです」
エネルギッシュな男、エリアス
谷口さんは面白がってそう教えてくれた。その向こうでエリアス自身は当然別な議論に参加していた。彼は若い頃に医学を数年学びかけ(手術の見学中に貧血で倒れ、自分には無理と医学部を中退した、と言っていた)、ロンドン大学で公衆衛生の修士課程を取り、保健政策と医療のバランスをより大きな見地からとらえるのに長けていた。いずれはMSFの活動から大学で教える側に行くはずの人物だった。
そのエリアスはいまや英国の資本主義の方がきつい、と話していた。アメリカがまだしもだと思えるほどだ、と。その後ろでカーティス・メイフィールドのソウルフルな演奏がかかっていた。店の選曲は七十年代米国R&Bの渋いところを攻めてくれていた。
会長から話を聞く
じき、ウゾを頼んだ俺を誉めてくれたヒゲ面の、ちょっとヒュー・ジャックマンみたいな風貌の男性が話しかけてきてくれた。彼こそがMSFギリシャの会長、クリストス・クリストウ氏だった。にこやかでありながら、時に目の奥に鋭い眼光がきらめくクリストス氏は、そのあと面白い話を色々教えてくれた。
MSFギリシャ理事会会長クリストス氏
まず、MSFと国際環境NGOグリーンピースが組み、エーゲ海や地中海に3隻の船を出しているとのことだった。その協力には多くの議論があったが、しかし海上にひっきりなしに現れる移民ボートを救助し、海岸で待ち受ける医師によって適切な病院に運ぶには、両者の力の連係が必要だった(その活動に関する映像はこちら)。
また、彼らMSFギリシャの活動は、そもそも市民レベルで培われてきた難民・移民サポートなしにはあり得ないのだ、と自身もウゾを飲み干しながらクリストス氏は言った。
「元々災害があれば駆けつけたし、資金も送る組織がずっとギリシャにはあったんです。誰かが困っていたらそこにおもむくというのは、人間性そのものの発露に過ぎません。珍しいことじゃない。そうやってギリシャの市民はボランティアを続けてきたんです」
ここにもまた熱い人間がいたのに気づき、俺はクリストス氏のいうことすべてを聞き取り、メモろうと姿勢を前傾させた。その集中力は酒のせいでもあったかもしれない。
「さらに僕らの国には経済危機がありました。社会が崩壊するような危険が訪れた。しかし、だからといって難民・移民への心遣いが消えることがなかった。これは奇跡ですよ。草の根運動は継続したんです」
その事実には学ぶことが多かった。特に草の根運動にも、他国民の困窮に手を差し伸べることにも疎くなっている今の日本人には。
クリストス氏はレスボス島の3人の住民がノーベル賞候補に上がったことを例に挙げた。2人はおばあさん、1人は漁師、どちらも普通の島民だった。昨年のシリア難民の漂流に関して彼らは徹底的に力を尽くし、たくさんの人の命を救った。赤ん坊にミルクを飲ませているおばあさんの写真は、世界に配信された。
それは観光産業で生計を立てる島の普通の人々だった。難民・移民のおかげで訪問者が減っている場所でも、市民運動のネットワークは途絶えることがなかった。それが奇跡なのだ、とクリストス氏は再び強調した。
「この一連の苦難は、これまでのMSFとは違う大きなチャレンジを我々全世界のメンバーに与えていると思います。単にMSFだけが活動するのではなく、市民と共に救助を行う、継続する、発展させる。そこに新しい道が拓ける」
うんうんとうなずく俺に、目の澄んだ、そして微笑むと目が細くなってなくなってしまうヒゲ面のMSFギリシャ会長は、また真面目な表情になって言った。
「2000年に戻りましょう」
その年のどんな話になるのかと思うと、クリストス氏は続けた。
「つまりHIVの問題です。エイズが蔓延し、全世界で対応せざるを得なくなった。すると患者とその周囲の人々が自主的に組織化を始め、法的に闘い出したんです。その市民的ネットワークは南アフリカからまさにドミノのように世界へと連鎖しました。そしてARV治療、すなわち抗レトロウィルス薬治療が国際標準となり、コストは一割、時には100分の1にまで下がることさえあった。私はね、現在の難民・移民の問題もこれとよく似ていると思うんです」
地球的な変化、それもポジティブな流れをクリストス・クリストウ氏は感じていた。あるいは強くアピールしようとしていた。
この歴史のどん詰まりの前で、彼は決して諦めようとしていなかった。それどころかMSFの活動を市民運動との連帯で拡大させ、自主的で人間主義的な動きへと導いているのだ、と思った。
MSFギリシャ会長は給料のない地位であることを、俺は谷口さんから聞いた。それでも会議の度に、クリストス氏は現在の住居のあるロンドンからアテネに来ていた。
残った男たちと彼が二次会へ繰り出す前に俺に伝えた言葉を、是非ここに再現したい。MSFギリシャの会議、その理事会を終えたばかりのクリストス・クリストウ氏はこう言った。
「理事会でこそ、私のような会長や事務局長は夢を語らなくちゃいけません。誰もが現実的になってしまうから」
この「夢」という言葉も、前々回の「尊厳」と同じく小馬鹿にされて嘲笑されていいものではない。特に本当に困難に直面し、日々悲惨な事実と向き合っている人々が口にするその言葉、その概念は。
黙り込む俺に、さらに会長は言った。
「議論は常に他者を尊敬しているから出来ることです。けれど私たちも西洋的に考えるとついマッチョになり、攻撃して議論に勝とうとしてしまう。そういう理事会の多くによって、我々は大切なものを失ってきました。これこそ反省すべき点です」
いやはや、なんと深い言葉であったことか。それはギリシャが西洋と東洋のはざまにあるという長い時の向こうに埋もれた真実を、俺の目の前で掘り出してみせるようなものだった。
すでにギリシャ側の女性は全員三々五々帰ってしまっていた。残ったMSFの男のうちの何人かは肩を並べてレストランを出た。
俺はあとについてしばらく歩き、自分はこの国で起きていることから目をそむけられないと思った。遠い西洋で起きている無関係な事象ではなかった。それは人類の政治史の問題でもあり、戦争史のひと幕でもあり、哲学と行動の倫理を問う機会でもあり、何よりまず人間がどこまで人間的であり得るかの正念場でもあった。
やがて彼らの次の店は見つかり、俺たちはエリアスにもダニエルにもビムにもクリストス氏にも固い握手をし、別れを告げた。
俺としては、正念場の真ん前にいて屈することのない陽気な連中に後方からエールを送るような気持ちだった。
そして街路樹のスズカケの木の下を宿舎の方へと歩き出しながら、彼らの存在のありようをわずかなりとも書き残さなければたまたま今自分が生きていることの意味がない、とやにわに理解したのだった。
そして帰り着く
(つづく)
いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
いとうせいこう