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難民キャンプで暮らす人々への敬意について

ニューズウィーク日本版 2016年10月25日 17時0分

<「国境なき医師団」(MSF)の取材をはじめた いとうせいこうさんは、まずハイチを訪ね、今度はギリシャの難民キャンプで活動するMSFをおとずれた。そして、アテネ市内で最大規模の難民キャンプがあるピレウス港へ向かった>

これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 」
前回の記事:世界の困難と闘う人々の晩餐─ギリシャの「国境なき医師団」にて

ピレウス港へ行く

 翌7月17日の朝には、トルコの東隣アルメニアで武装グループが警察施設を占拠したというニュースがあった。日々きな臭くなっていく世界の中で、俺と谷口さんは宿舎のリビングで前日買ったパンを食べ、ヨーグルトを食べ、コーヒーを飲んだ。

 その日はアテネ南西部にあるピレウス港へ出かけることになっていた。そこに市内では最大規模の難民キャンプがあるからだった。

 宿舎を出て、なじみ始めたガタガタ道を歩き、アンベロピキ駅まで行った。途中の気温表示モニターに30度と出ていた。まだ昼前だった。

 4つ行った先のモナスティラキ駅で、緑のラインに乗り換えた。車内は意外に混んでいてた。地下鉄はやがて地上に出て、強い日差しを浴びた。途中、前日に梶村智子さんから話を聞きながら歩いた古代遺跡を突っ切ったりもした。土を掘り下げて線路を通しているのだった。

 前の車両から狂人が何か叫びながら移動してきた。その男がいなくなるとギター、タンバリン、アコーディオン、クラリネット二本という編成の楽隊が乗ってきて、一曲を陽気に演奏した。じきタンバリン担当の若い男が楽器をひっくり返して乗客の前に突き出して回った。誰も金を入れなかった。

 楽隊が後ろの車両へ去ると、次の駅でボールペン売りの壮年が乗り込んできた。何か口上を述べたり、小さなコピー用紙を見せたりするのだが、もちろん俺には何の意味かさっぱりわからなかった。さらにわからないことには、ボールペン売りは車内にいたアフリカ系の家族のうちの小さな男の子に一本ボールペンをプレゼントして去っていくのだった。

 ピレウス港の駅は終点にあった。

 立派な駅構内のプラットフォームはいかにもリゾート風で、そこにかなりの人数が降りた。ほとんどが港からどこかの島へ遊びに行く人らしく、短パンだったりサマーワンピースだったりした。

リゾート地以外の何物でもない駅に、まさか難民キャンプが。

 町へ出てみると、屋台が並んでみやげを広げていた。中には蚤の市のように、家にあった小間物をすべて持ってきてシートの上に乗せているような店も見受けられた。激しい人波は、どの店にも興味を示さなかった。それはそうだ。これからリゾートへ出かけようという人が、なぜ他人の家の物を買うだろうか。

 すぐにカフェが続く地帯になり、少し太い道路に出た。俺たちはタクシーを拾い、指定されているというE1のゲートを目指した。港には巨大な船が幾つも停泊していた。駅に最も近い船舶が駅で降車した人々をどんどん吸い込むのが見えた。車ものろのろと船の腹に入っていった。

 他にも大量の食料をコンテナで輸送する船、おそらく石油を積んでいるだろう船などがあった。それぞれにEなんとかと番号を振られたエリアに、ビルのような高さの船舶が止まっていた。



陽光が隠してしまうもの

 さて、そのどこに難民キャンプがあるのか、想像もつかなかった。船の着いたコンクリートの埠頭はどれも太陽に向かってむき出しになっている。

 陽光は困る、と思った。いつものようにありとあらゆる問題を簡単に隠してしまうからだ。その明るい場所に世界の困難があると思えなくなるのは、俺が暗い日本海沿いの町などを知っている日本人だからなのだろうか。

 太陽と同じく明るい中年ドライバーは、ラジオから流れるライミュージックのような民謡調の歌を聴き、E1はこっちなんだが何をしに行くんだと聞いた。

 「難民キャンプへ行きます。私たちはMSFです」

 谷口さんがそう言うと、ドライバーは一瞬とまどったように見えた。それから彼は、

「あそこにはたくさんいるよ」

 とだけ答えた。

 車が真反対に向かっているとわかったのは、ドライバーがすまなそうな顔でUターンし始めたからだった。まったくのんきなもので右に行くべきところを、左へと車を走らせていたのだ。他の車からクラクションを鳴らされながら、ドライバーはあっちだ、あっちと言い、すまんねと俺たちに謝った。

建物の向こうにびっしりとテントが這いつくばっているとは......

 E1ゲートは端っこにあった。船がまず止まっていて、その横をタクシーはすり抜けた。がらんとした埠頭を行く車内から、やがて左右に地味な色のテントが幾つも見えた。灰色、銀色、深い緑、統一性なくそのテントはびっしり続いたが、それはいかにも静かに隠れているかのようで目立たなかったし、じき途切れて何ひとつなくなってしまった。

 「おいくらですか?」

 止まった車の中で谷口さんが聞くと、ドライバーは不思議な返事をした。

「いくらでもいい」

 逆の道を行ったからなのか、俺たちが難民キャンプを訪ねる者だからかがわからなかった。5ユーロを谷口さんが渡している間に、俺は先に外に出た。

 車は突堤の部分まで来ていて、再び目の前に大型船が停泊していた。細長い埠頭の脇の海水の表面は白くきらめいて美しかった。

 そこまで来る間に、身を低くするかのようにテントが集まっていたことなど、まるで嘘のようだった。



活動者たちのもとへ

 待ち合わせのクリスティーナ・パパゲオルジオさんは、智子さんも所属しているOCP(オペレーションセンター・パリ)のプロジェクト・コーディネーターだった。

 谷口さんが携帯で連絡して数分、俺は暑い埠頭で目を細めていた。やがて小型車がやってきて、小太りでメガネの男性とやせた女性が乗っているのがわかった。女性がクリスティーナさんだった。

 すぐに俺たちも車に乗った。小型車はまたのろのろと動き出し、通り過ぎたテントの近くで右折して港の脇へ入っていった。

 そこに倉庫があり、先にプレハブの施設が建っていた。施設の入り口には白いアウトドア用の屋根が張ってあって、様々な形の椅子が置かれていた。クリスティーナさんが導くその場所には、とても若い男性ティモス・チャリアマリアスがいた。彼は看護師マネージャーだった。

 蒸した施設の中にはけっこう人がいた。それは簡易的な医院で、訪ねてくる患者さんに薬を処方したり、体温や血液を検査したりする場所だった。医師の他に、もちろん例の文化的仲介者(カルチュラル・コーディネーター)もいた。アラビア圏担当、アフガニスタン担当と分かれて、彼らは難民の方々と医師の間をつないでいた。

 クリスティーナさんの話では、今年(2016)の2月までそこはただの港だった。ところが難民の北の国々へのルートが断たれてから彼らの行き先がなくなった。アテネ周辺の難民キャンプの建設も追いつかず、一時は5000人が倉庫を中心とするエリアで生活していたという。。そして今もなお1000人が埠頭にテントを立てているというのだった。

 近くに「SOLIDARITY」と書かれた車が止まっていた。それもまた「連帯」というNGOであり、食料や水道水を難民へと提供しているのだそうだった。他に、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)がトイレを担当しているとも聞いた。そうした団体に文化的仲介者を紹介しているのはMSFだった。

 E1ゲート以外の埠頭にも難民キャンプがある、とクリスティーナさんは教えてくれた。そちらはそちらでまた別の市民団体が動いているようだった。ということはE1にはピレウス港で受け入れられた人々の何割かが暮らしているというわけだ。数百人だろう。

 前日、MSFギリシャ会長クリストス氏にまさに聞いた通り、様々なチャリティ団体がそれぞれに力を出しあって難民キャンプを支えているのが、話によってよくわかった。それはEU内で起こった難事であるがゆえのメリットでもあろうと俺は思った。もともとさかんだった市民運動がネットワークしやすかったのだ。

「ピレウス港へようこそ難民の皆さん」と書かれているトイレ

 白い屋根の下とはいえ暑かった。風は生ぬるく、汗がひっきりなしに出た。クリスティーナさん自身、インド更紗のスカートにタンクトップ、そして耳にはピアスというリゾートファッションだった。彼女の横でティモスがサングラスをかけたまま情報を加えてくれた。

 最初は医療的に赤ん坊への対処が多かったのだという。急に具合が悪くなったり、ひょっとしたら出産も多数あったはずだ。しかし今は滞在期間も長くなり、糖尿病といった生活習慣病、皮膚のケア、感染症などが医療の中心になってきているそうだった。

 そのへんまで聞いたあたりで、ヒジャブをかぶった黒い長衣の母親が訪ねてきた。彼女の夫も脇にいた。夫婦は半ズボンの子供を連れていた。母親が共に施設内に入っていくと、父と子供がその場に残った。



苦難への敬意に打たれて

 その時だ。白い屋根の下で椅子に座っていた、さっき俺たちを車でそこに連れて来てくれた小太りの男性が跳ね上がるように立上って、席を彼らに譲ったのだった。足りないもうひとつの椅子はすぐに別なスタッフによってととのえられた。父親は微笑んで頭を下げ、子供をまず座らせた。スタッフたちもほっとしたような表情で彼らを見、おそらくカタコトのアラビア語で話しかけたりし始めた。そこには簡単には推し量れないほど深い「敬意」が感じられた。

 俺はこれまで何度か"難民の方々"という言い方をしてきた。それは谷口さんが必ずそういう日本語に訳すからだったのだが、ピレウス港の小さな医療施設の前で俺は、MSFのスタッフが基本的にみな難民の方々へのぶ厚いような「敬意」を持っていることを理解した。

 ではなぜだろうとその場で考えた。そうせざるを得ないくらい、彼らの「敬意」は強く彼らを刺し貫いていたのだ。

 それは憐れみから来る態度ではなかった。むしろ上から見下ろす時には生じない、あたかも何かを崇めるかのような感じさえあった。

 スタッフたちは難民となった人々の苦難の中に、何か自分たちを動かすもの、あるいは自分たちを超えたものを見いだしているのではないかと思った。目の前で見た椅子の出し方に関して、最も納得出来る考えがそれだった。

 施設に訪れる母親は毅然としていた。すでに傷つけられたプライドを、しかし高く保ち直している立派な姿だと俺も感じていた。彼ら彼女らは凄まじい体験を経ていた。長い距離を着の身着のままで移動し、たくさんの不条理な死を目の当たりにしたはずだった。父も子もそうだった。

 彼らの存在の奥に、スタッフたちは、そして俺はどこか神々しいものを感じてはいないだろうかと思った。苦難が神秘となるのではない。それでは苦難が調子に乗ってしまう。

俺が電流に撃たれるようにしてその時考えたことは単純だった。

 彼らは死ななかったのだった。

 苦難は彼らを死に誘った。しかし彼らは生き延びた。そして何より、自死を選ばなかった。苦しくても苦しくても生きて今日へたどり着いた。

 そのことそのものへの「敬意」が自然に生じているのではないか。

 俺はそう感じたのである。

 善行を見て偽善とバカにする者は、生き延びた者の胸張り裂けそうな悲しみや苦しみを見たことがないのだ。

 むしろ苦難を経た彼らを俺たちは見上げるようにして、その経験の傷の深さ、それを心にしまっていることへの尊敬を心の底から感じる。感じてしまう。

 それが人間というものだ、と俺はいきなりな理解へたどり着いた気がした。

 イスラム圏の親子は薬をもらってすでにどこかへ消えていた。

 港の海のそば、埠頭のコンクリートの上に半裸の子供がいて、数羽の鳩を追っているのを俺は見た。鳩はわずかに逃げるが飛び立たず、子供を導くように右へ左へちょこまかと動いた。水たまりがあちこちにあった。対岸に船のドックのような大きな建物があり、日陰になった壁一面に神話的な絵が描かれていた。

 太陽は日なたと日陰をくっきり作るべく世界のすべてを照らしていて、俺は目がつぶれるように思った。



(つづく)

いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

いとうせいこう

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