去る10月31日、東京・大手町のニューズウィーク日本版創刊30周年記念イベントで行われた、藤原帰一・東京大学大学院法学政治学研究科教授による講演「混迷のアメリカ政治を映画で読み解く」。アメリカ政治の歴史と大統領選混迷の深層を、映画を縦軸に分かりやすく解説した。映画通としても知られる藤原教授の「青空講義」再録、後編。
●特別講義・前編:この映画を観ればアメリカ政治の「なぜ」が解ける
◇ ◇ ◇
(3)大衆政治とトランプ型「独裁者」の前例
今回の大統領選挙、申し上げるまでもなくヒラリー・クリントン氏とドナルド・トランプ氏が争っている選挙です。言うまでもなく、クリントン氏は実績もある既成の政治家。一方のトランプ氏は公職に就いたことが1回もない。テレビのスターだけども、政治家として支えるものがない。この人が大変な人気を博している。まだ選挙の結果は分かりませんが、トランプ氏を40%を超えるアメリカの国民が支持している、というのは大きなポイントだと思います。これをどう考えたらいいのか。実はこのような政治家には前例があります。それを捉えた作品をご紹介します。
『オール・ザ・キングスメン』
1949年、監督/ロバート・ロッセン
1つが『オール・ザ・キングスメン』。ロバート・ロッセンという監督が撮った非常に優れた作品です。社会正義を実現したいと思っているけど、政治家としての実績がないおじさんが奥さんと一緒に頑張るが、固いことを言うので誰にも相手にしてもらえない。途中からやり方を変え、有権者に向かって「おまえは田舎っぺだろう。俺も田舎っぺだ。政治は田舎っぺの言うことを聞いてくれないんだ」と叫び始めるんです。「田舎っぺ」は英語で「hicks」ですが、普通の人たちが使っている言葉を使って政治を取り戻そうとする。言ってみれば方言で政治をするんです。これが大成功して州知事になり、州知事になった後は選挙に勝ったからといってやりたい放題をする。
これにはモデルがあり、(1928~32年にかけて)ルイジアナ州知事だったヒューイ・ロングという人です。アメリカでファシズムに一番近寄ったのがヒューイ・ロングだったと当時言われた人です。大恐慌の時代にルイジアナのほとんど独裁者のような存在だった。独裁者という言葉を使いましたが、選挙で選ばれた訳です。選挙で選ばれたんだから、俺は何をやってもいい、という方針で政治を貫く。「法の支配はエリートのためのものだ」という視点は、現在のトランプに至るアメリカ政治の流れの1つです。トランプが候補に立った時、だれしもが「これは『オール・ザ・キングスメン』だ」と言う。それぐらい、アメリカの政治の中では信用ができないことになっている。
『群衆の中の一つの顔』
1957年、監督/エリア・カザン
ただ、このヒューイ・ロングはマスメディアを多用した、というところまではいっていません。ラジオの時代であり、ラジオを州知事が独占するということは簡単にはできなかったんです。それが変わってきたのはマスメディア、テレビの力が強まったからです。これを捉えた早い時期の作品が『群衆の中の一つの顔』。エリア・カザンという監督は『エデンの東』で知られた人だと思いますが、本人は赤狩りで仲間を売った毀誉褒貶(きよほうへん)の「貶」が強い、嫌われる人です。
彼がここで描いているのは、ごく普通のどうってことのない人がテレビで取り上げられ、普通の人の言葉を話すということで一気にスターになる。そしてテレビに使われることで有名になった人が、今度はテレビを操作し始める。テレビがモンスターを作ってしまった。テレビが一般の人をスターにするが、今度はテレビがスターなしでは立ち行かなくなる......。マスメディアがポピュリストというモンスターをつくり出してしまう。この作品もトランプが登場するとすぐに引用されることになりました。アメリカ映画に描かれた通りに政治が動く、という困った現実だろうと思います。
【参考記事】トランプに熱狂する白人労働階級「ヒルビリー」の真実
ニューズウィーク日本版創刊30周年記念イベントでの講演の様子
『ネットワーク』
1976年、監督/シドニー・ルメット
次はとても優れた『ネットワーク』という作品。私の世代では観た人が多く、テレビ局にお勤めの方は身につまされる作品じゃないかと思います。何と言ってもテレビではニュースの時間は視聴率が取れない。架空のテレビ局UBSは3大ネットワークに視聴率に負けてばかり。その中で、長年ニュースキャスターを務めてきたまじめな男が、人員整理でクビになってしまう。男がそれにショックを受けて、番組の中で自殺予告をする。「僕のやることはなくなった。死ぬぞ」と言ったら、とたんに視聴率が上がった。
彼は自殺をする代わりに頭がおかしくなって、テレビのニュース放送でテレビ業界の欺瞞を告発します。「俺たちは頭にきた。こんなことはもう我慢できない。立ち上がれ!」と、叫ぶ。ニュースキャスターとしてありえないことをやるわけですが、彼がそうすると、街中の人たちが窓を開けて「こんなことは我慢できない!」と叫ぶ。「我慢できないぞ!」という声が街中に響き渡る。それに目を付けたのがフェイ・ダナウェイ演じるプロデューサー。「ニュースなんかいらない」といっていたその人が、「これは話のタネになる」と考えて、言ってみれば「狂える預言者」を主人公にしたニュースというバラエティ番組を始めます。
ここでのポイントは、事実の報道などどうでもいい、ということ。「狂える預言者」が「俺たちはこんなこと我慢できない!」と絶叫したあと、発作のように倒れてしまう。それを毎回の売り物にするわけですね。おかしな人がおかしなことを言うことに、みんなが目を付ける......どこかで見たことがありますよね。ドナルド・トランプそのものでしょう? トランプ氏はアメリカの政治ではありえないことを言い続けてきました。女性を誹謗中傷し、ラテン系の有権者を誹謗中傷し、アフリカ系の有権者を誹謗中傷する。このような言葉はアメリカの政治ではありえないんですね。
アメリカの政治は言っていいことと悪いことの区別が非常にはっきりしている。その中で、トランプ氏はごく普通に使われる言葉を使いながら、例えば自分に厳しいことを言った女性のニュースキャスターについて、ここで紹介するのがはばかられるような発言をする。そのような言葉をテレビで放送してはいけないのですが、それによって支持が集まってしまう。表では言えない悪口を堂々と言う。それが結果的に、これまでにない支持を集める候補をつくり出す。トランプ氏が立候補した段階で、アメリカではすぐに「『ネットワーク』みたいだ」と言われました。私はトランプ氏の原稿を書く時、ときどき『ネットワーク』のさわりを見るんですが、「本当にそうだなあ」と思いながら、「いや映画よりトランプの方がずっとひどい」と感じながら見ています。
【参考記事】対談(前編):冷泉彰彦×渡辺由佳里 トランプ現象を煽ったメディアの罪とアメリカの未来
『市民ケーン』
1941年、監督/オーソン・ウェルズ
ここでご紹介したいのですが、トランプ氏が好きだという映画が1本あります。それは『市民ケーン』。トランプ氏にしてはずいぶん教養のある選択だと思いますが、市民ケーンはオーソン・ウェルズの傑作です。主人公ケーンは親から相続したカネを潰れかかった新聞に注ぎ込む。そして新聞で世論をあおりたてる報道をして、さらに政治家に立候補して落選する。ケーンは人に愛されたいと願いながら、人を愛することができない人物。だから最後は孤独の中で死ぬことになる。言うまでもなくトランプ氏は、人に愛されることばかり考えているけれど、人を愛するということができない。チャールズ・フォスター・ケーンとトランプ氏のどこに違いがあるか、というとケーンには哀愁がある。一方のトランプに哀愁などありません。
(4)多くの映画がクリントン夫妻を描いた
トランプ氏はアメリカ国民の60%から嫌われている、これまでの歴史にない大統領候補ですが、クリントン氏も58%のアメリカ国民が彼女を嫌いなんです。アメリカ国民が嫌いな候補2人が争うという奇怪な構図が今回の選挙戦です。
【参考記事】写真特集 究極の選択をするアメリカの本音
『アメリカン・プレジデント』
1995年、監督/ロブ・ライナー
クリントン夫妻ですが、私はもしヒラリー・クリントン氏が当選したら、ビル・クリントン氏は「ファースト・ハズバンド」としてそれからの4年間をどう過ごすのだろうか、ヒラリーさん以外の女性との関係をなしに過ごすことができるだろうか、という懸念をもっております(笑)。ビル・クリントンは言うまでもなく、女性関係で有名になった大統領です。トランプ氏はその点をずっと批判していますが、ビル・クリントン氏は女性関係が大統領候補になる前から有名だった人です。これを持ち上げるのが『アメリカン・プレジデント』。お薦めしない映画です(笑)。
ここではマイケル・ダグラスが演じている......「演じている」という言葉を使いたいんですが、マイケル・ダグラスは何を演じてもマイケル・ダグラス。それがいいところでもあるのですが、どう見ても演じているように見えない。いつ見てもマイケル・ダグラス(笑)。このマイケル・ダグラスが、妻が死んだ大統領が新たなガールフレンドを見つけるという設定で、徹底的に美化された話です。
『パーフェクト・カップル』
1998年、監督/マイク・ニコルズ
これがビル・クリントンを思い切り飾ったイメージだとすれば、飾っていなくてリアリティがあるのが『パーフェクト・カップル』。これはご覧になった方が少ない映画だと思いますが、本当によくできた映画です。クリントンの最初の選挙戦に関わった人が匿名で内情を暴露した本がベースになっています。ビル・クリントンの最初の選挙戦を追い掛けるのですが、ポイントはビル・クリントンがいかに人をだますか、という(笑)。『オール・ザ・キングスメン』のヒューイ・ロングのような存在とは違い、自分のために人を騙すのではなく、ただ騙す人間なんです。誰かを見るとすぐ嘘をついてしまう。嘘に引き寄せられた女性がいると、妻がいるのにその女性を口説かずにはいられない。嘘をついて、騙して、たらしこむことが自分の個性といった人物。
ビル・クリントン役は『サタデー・ナイト・フィーバー』のジョン・トラボルタです。これはあまりよくなかった。クリントンそっくりにしようとして、無理をしてそのため芝居に幅がない。ところが妻役のエマ・トンプソンが名演でした。夫が好きで好きでしょうがない、この人を大統領にするために何でもする。しかし、この夫には女性がたくさんいる。事もあろうに子供まで生んだ人もいる。そんなふうに自分に傷ついて、これで終わりだろうと思うのだけど、もちろん終わりじゃない......。ヒラリー・クリントンをここまで正確にとらえた映画は観たことがありません。
エマ・トンプソンが、女性関係があることが分かったジョン・トラボルタをパシッと叩くところがあります。これほど見事なはたき方をなかなか見ることはできないんですが、ヒラリー・クリントンってこれなんです。ヒラリーがビルの女性関係を知らなかったはずはない、というトランプの指摘はその通りだと思います。
同時に、その女性関係をできるだけ小さく、あるいは見ようとしないという態度をヒラリーが取ってきたこともおそらく事実でしょう。ただ、ビル・クリントンの任期の最中にだんだんヒラリーも固くなっていく。「この男のために私は人生を捧げてきた。そんなことをする甲斐のある人じゃない。女の子を追い掛けること以外、この人の頭の中には何もない」と。そうすると、私の人生は何だったんだろう、となる。断片的な証拠があるだけですが、1人娘のチェルシーはお父さんに苦しめられたヒラリーに向かって「お母さんが政治家になったらいいじゃない」と言ったといいます。ヒラリーが上院議員に立候補する前か後か分かりませんが。チェルシーにしたがって、彼女は夫を応援する人生をやめて自分が政治家になる人生を選ぶことになります。
【参考記事】最強の味方のはずのビルがヒラリーの足手まとい
『デーヴ』
1993年、監督/アイヴァン・ライトマン
コメディ作品の『デーヴ』は、クリントン時代の政治を描いた映画としては『パーフェクト・カップル』と並んで優れた作品です。この映画に出てくる大統領役のケヴィン・クラインとファーストレディー役のシガニー・ウィーバーは、みんなに向かってバルコニーで手を振った後、部屋に戻ると即座に分かれてしまう。妻は夫に口もきこうとしない。相手にしない。「あんな女たらしのできそこないの尻拭いはたくさんだ」という訳です。ところが、この大統領が病気で倒れてしまう。大統領が女性との時間を作るために影武者をつくり、自分は女性とどこかに隠れていたんですが、この影武者が、たまたま大統領が病気になったので本当に大統領を務めなければならなくなった。同じケヴィン・クラインが大統領の役をします。
シガニー・ウィ―バー演じるファーストレディーは、最初は夫の言うことを聞こうとしないのですが、しかし「この人、心を入れ替えたのかもしれない」「まともな人なのかもしれない」と、次第に思い始める。大統領が夫とは思えない良い政策を打ち出す。何が起こったんだろう、と。本人と会うと、そっくりではあるが本人とは違う。夫が亡くなりかけているという真実に次第に近づくわけですが、夫にそっくりのこの男にファーストレディーが恋をする、という訳の分からない話です(笑)。コメディとして上出来なのですが、これは言ってみればヒラリー・クリントンから見たパラレル・ワールド。こうだったらいいのに、という。
ヒラリー・クリントンは人気のない政治家です。みんなを盛り上げる力が全然ない。なぜないのか。政治家としての魅力がない。頭はよほどビルよりいい。私はヒラリーがビルに会わなければ、アメリカの法律家協会の優れた会長になったと思っています。ビルに会って人生を間違ってしまった(笑)。ビルはこれに対して、喋り始めると皆さんの目がキラキラと輝く。これはさまざまな演説の映像をご覧いただければよく分かります。そして、演説を文章で読みとまるで意味をなさない。「君たち! 21世紀への架け橋に乗ってるかい⁉」「乗ってるよ!」「乗ってるかい⁉」この繰り返しなんです。人を馬鹿にした話、という気がします。
ヒラリー・クリントンという夫に力を注いだ人生の失敗を発見した人が、大統領になろうとする。だけど、大統領候補としての人を騙す力がまるで欠けている。今回の大統領選は騙すことに長けているトランプと、騙すことのできない政治家ではないクリントンとの争い、というひどい選挙です。
結び――今回の選挙で問われているもの
民主主義とは、国民の選んだ政治家によって行われるものです。そしてアメリカは民主政治の伝統が極めて長い国です。ただ民主政治という意味をはっきりしておかねばならない。三権分立とか法の支配といった概念は厳密に言えば民主主義というより、自由主義の流れを組んだものです。アメリカの政治の中にこれはあります。同時に、普通選挙。みんなが自分の代表を選ぶ仕掛け、これも民主主義です。
そして、さきほどヒューイ・ロングの話でも申し上げた通り、国民から選ばれたら何をやってもいいんだ、という人が政治家になる可能性をアメリカの政治はずっと抱えてきました。潜在的な可能性です。国民の代表として独裁者を出してしまう。これはかつて、アテナイの国政においてギリシャ人が恐れた可能性です。今回の選挙はヒラリー・クリントンが優れた政治家かどうか、ということではない。問題は民主主義によってトランプという独裁を生みだすかどうかが問われている。
それについて考える時に、どう考えてもアテナイの国政について読み直すよりは、映画を見直すほうがずっと勉強になる。こういうことで、今回の話を締めくくらせていただきたいと思います。
【参考記事】ニューストピックス 決戦2016米大統領選
藤原帰一
東京大学大学院法学政治学研究科教授。東京都出身。幼少期をNY近郊で過ごす。1979年東京大学法学部卒業、フルブライト奨学生としてイェール大学大学院に留学。映画に造詣が深い。
藤原帰一(東京大学大学院法学政治学研究科教授)
●特別講義・前編:この映画を観ればアメリカ政治の「なぜ」が解ける
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(3)大衆政治とトランプ型「独裁者」の前例
今回の大統領選挙、申し上げるまでもなくヒラリー・クリントン氏とドナルド・トランプ氏が争っている選挙です。言うまでもなく、クリントン氏は実績もある既成の政治家。一方のトランプ氏は公職に就いたことが1回もない。テレビのスターだけども、政治家として支えるものがない。この人が大変な人気を博している。まだ選挙の結果は分かりませんが、トランプ氏を40%を超えるアメリカの国民が支持している、というのは大きなポイントだと思います。これをどう考えたらいいのか。実はこのような政治家には前例があります。それを捉えた作品をご紹介します。
『オール・ザ・キングスメン』
1949年、監督/ロバート・ロッセン
1つが『オール・ザ・キングスメン』。ロバート・ロッセンという監督が撮った非常に優れた作品です。社会正義を実現したいと思っているけど、政治家としての実績がないおじさんが奥さんと一緒に頑張るが、固いことを言うので誰にも相手にしてもらえない。途中からやり方を変え、有権者に向かって「おまえは田舎っぺだろう。俺も田舎っぺだ。政治は田舎っぺの言うことを聞いてくれないんだ」と叫び始めるんです。「田舎っぺ」は英語で「hicks」ですが、普通の人たちが使っている言葉を使って政治を取り戻そうとする。言ってみれば方言で政治をするんです。これが大成功して州知事になり、州知事になった後は選挙に勝ったからといってやりたい放題をする。
これにはモデルがあり、(1928~32年にかけて)ルイジアナ州知事だったヒューイ・ロングという人です。アメリカでファシズムに一番近寄ったのがヒューイ・ロングだったと当時言われた人です。大恐慌の時代にルイジアナのほとんど独裁者のような存在だった。独裁者という言葉を使いましたが、選挙で選ばれた訳です。選挙で選ばれたんだから、俺は何をやってもいい、という方針で政治を貫く。「法の支配はエリートのためのものだ」という視点は、現在のトランプに至るアメリカ政治の流れの1つです。トランプが候補に立った時、だれしもが「これは『オール・ザ・キングスメン』だ」と言う。それぐらい、アメリカの政治の中では信用ができないことになっている。
『群衆の中の一つの顔』
1957年、監督/エリア・カザン
ただ、このヒューイ・ロングはマスメディアを多用した、というところまではいっていません。ラジオの時代であり、ラジオを州知事が独占するということは簡単にはできなかったんです。それが変わってきたのはマスメディア、テレビの力が強まったからです。これを捉えた早い時期の作品が『群衆の中の一つの顔』。エリア・カザンという監督は『エデンの東』で知られた人だと思いますが、本人は赤狩りで仲間を売った毀誉褒貶(きよほうへん)の「貶」が強い、嫌われる人です。
彼がここで描いているのは、ごく普通のどうってことのない人がテレビで取り上げられ、普通の人の言葉を話すということで一気にスターになる。そしてテレビに使われることで有名になった人が、今度はテレビを操作し始める。テレビがモンスターを作ってしまった。テレビが一般の人をスターにするが、今度はテレビがスターなしでは立ち行かなくなる......。マスメディアがポピュリストというモンスターをつくり出してしまう。この作品もトランプが登場するとすぐに引用されることになりました。アメリカ映画に描かれた通りに政治が動く、という困った現実だろうと思います。
【参考記事】トランプに熱狂する白人労働階級「ヒルビリー」の真実
ニューズウィーク日本版創刊30周年記念イベントでの講演の様子
『ネットワーク』
1976年、監督/シドニー・ルメット
次はとても優れた『ネットワーク』という作品。私の世代では観た人が多く、テレビ局にお勤めの方は身につまされる作品じゃないかと思います。何と言ってもテレビではニュースの時間は視聴率が取れない。架空のテレビ局UBSは3大ネットワークに視聴率に負けてばかり。その中で、長年ニュースキャスターを務めてきたまじめな男が、人員整理でクビになってしまう。男がそれにショックを受けて、番組の中で自殺予告をする。「僕のやることはなくなった。死ぬぞ」と言ったら、とたんに視聴率が上がった。
彼は自殺をする代わりに頭がおかしくなって、テレビのニュース放送でテレビ業界の欺瞞を告発します。「俺たちは頭にきた。こんなことはもう我慢できない。立ち上がれ!」と、叫ぶ。ニュースキャスターとしてありえないことをやるわけですが、彼がそうすると、街中の人たちが窓を開けて「こんなことは我慢できない!」と叫ぶ。「我慢できないぞ!」という声が街中に響き渡る。それに目を付けたのがフェイ・ダナウェイ演じるプロデューサー。「ニュースなんかいらない」といっていたその人が、「これは話のタネになる」と考えて、言ってみれば「狂える預言者」を主人公にしたニュースというバラエティ番組を始めます。
ここでのポイントは、事実の報道などどうでもいい、ということ。「狂える預言者」が「俺たちはこんなこと我慢できない!」と絶叫したあと、発作のように倒れてしまう。それを毎回の売り物にするわけですね。おかしな人がおかしなことを言うことに、みんなが目を付ける......どこかで見たことがありますよね。ドナルド・トランプそのものでしょう? トランプ氏はアメリカの政治ではありえないことを言い続けてきました。女性を誹謗中傷し、ラテン系の有権者を誹謗中傷し、アフリカ系の有権者を誹謗中傷する。このような言葉はアメリカの政治ではありえないんですね。
アメリカの政治は言っていいことと悪いことの区別が非常にはっきりしている。その中で、トランプ氏はごく普通に使われる言葉を使いながら、例えば自分に厳しいことを言った女性のニュースキャスターについて、ここで紹介するのがはばかられるような発言をする。そのような言葉をテレビで放送してはいけないのですが、それによって支持が集まってしまう。表では言えない悪口を堂々と言う。それが結果的に、これまでにない支持を集める候補をつくり出す。トランプ氏が立候補した段階で、アメリカではすぐに「『ネットワーク』みたいだ」と言われました。私はトランプ氏の原稿を書く時、ときどき『ネットワーク』のさわりを見るんですが、「本当にそうだなあ」と思いながら、「いや映画よりトランプの方がずっとひどい」と感じながら見ています。
【参考記事】対談(前編):冷泉彰彦×渡辺由佳里 トランプ現象を煽ったメディアの罪とアメリカの未来
『市民ケーン』
1941年、監督/オーソン・ウェルズ
ここでご紹介したいのですが、トランプ氏が好きだという映画が1本あります。それは『市民ケーン』。トランプ氏にしてはずいぶん教養のある選択だと思いますが、市民ケーンはオーソン・ウェルズの傑作です。主人公ケーンは親から相続したカネを潰れかかった新聞に注ぎ込む。そして新聞で世論をあおりたてる報道をして、さらに政治家に立候補して落選する。ケーンは人に愛されたいと願いながら、人を愛することができない人物。だから最後は孤独の中で死ぬことになる。言うまでもなくトランプ氏は、人に愛されることばかり考えているけれど、人を愛するということができない。チャールズ・フォスター・ケーンとトランプ氏のどこに違いがあるか、というとケーンには哀愁がある。一方のトランプに哀愁などありません。
(4)多くの映画がクリントン夫妻を描いた
トランプ氏はアメリカ国民の60%から嫌われている、これまでの歴史にない大統領候補ですが、クリントン氏も58%のアメリカ国民が彼女を嫌いなんです。アメリカ国民が嫌いな候補2人が争うという奇怪な構図が今回の選挙戦です。
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『アメリカン・プレジデント』
1995年、監督/ロブ・ライナー
クリントン夫妻ですが、私はもしヒラリー・クリントン氏が当選したら、ビル・クリントン氏は「ファースト・ハズバンド」としてそれからの4年間をどう過ごすのだろうか、ヒラリーさん以外の女性との関係をなしに過ごすことができるだろうか、という懸念をもっております(笑)。ビル・クリントンは言うまでもなく、女性関係で有名になった大統領です。トランプ氏はその点をずっと批判していますが、ビル・クリントン氏は女性関係が大統領候補になる前から有名だった人です。これを持ち上げるのが『アメリカン・プレジデント』。お薦めしない映画です(笑)。
ここではマイケル・ダグラスが演じている......「演じている」という言葉を使いたいんですが、マイケル・ダグラスは何を演じてもマイケル・ダグラス。それがいいところでもあるのですが、どう見ても演じているように見えない。いつ見てもマイケル・ダグラス(笑)。このマイケル・ダグラスが、妻が死んだ大統領が新たなガールフレンドを見つけるという設定で、徹底的に美化された話です。
『パーフェクト・カップル』
1998年、監督/マイク・ニコルズ
これがビル・クリントンを思い切り飾ったイメージだとすれば、飾っていなくてリアリティがあるのが『パーフェクト・カップル』。これはご覧になった方が少ない映画だと思いますが、本当によくできた映画です。クリントンの最初の選挙戦に関わった人が匿名で内情を暴露した本がベースになっています。ビル・クリントンの最初の選挙戦を追い掛けるのですが、ポイントはビル・クリントンがいかに人をだますか、という(笑)。『オール・ザ・キングスメン』のヒューイ・ロングのような存在とは違い、自分のために人を騙すのではなく、ただ騙す人間なんです。誰かを見るとすぐ嘘をついてしまう。嘘に引き寄せられた女性がいると、妻がいるのにその女性を口説かずにはいられない。嘘をついて、騙して、たらしこむことが自分の個性といった人物。
ビル・クリントン役は『サタデー・ナイト・フィーバー』のジョン・トラボルタです。これはあまりよくなかった。クリントンそっくりにしようとして、無理をしてそのため芝居に幅がない。ところが妻役のエマ・トンプソンが名演でした。夫が好きで好きでしょうがない、この人を大統領にするために何でもする。しかし、この夫には女性がたくさんいる。事もあろうに子供まで生んだ人もいる。そんなふうに自分に傷ついて、これで終わりだろうと思うのだけど、もちろん終わりじゃない......。ヒラリー・クリントンをここまで正確にとらえた映画は観たことがありません。
エマ・トンプソンが、女性関係があることが分かったジョン・トラボルタをパシッと叩くところがあります。これほど見事なはたき方をなかなか見ることはできないんですが、ヒラリー・クリントンってこれなんです。ヒラリーがビルの女性関係を知らなかったはずはない、というトランプの指摘はその通りだと思います。
同時に、その女性関係をできるだけ小さく、あるいは見ようとしないという態度をヒラリーが取ってきたこともおそらく事実でしょう。ただ、ビル・クリントンの任期の最中にだんだんヒラリーも固くなっていく。「この男のために私は人生を捧げてきた。そんなことをする甲斐のある人じゃない。女の子を追い掛けること以外、この人の頭の中には何もない」と。そうすると、私の人生は何だったんだろう、となる。断片的な証拠があるだけですが、1人娘のチェルシーはお父さんに苦しめられたヒラリーに向かって「お母さんが政治家になったらいいじゃない」と言ったといいます。ヒラリーが上院議員に立候補する前か後か分かりませんが。チェルシーにしたがって、彼女は夫を応援する人生をやめて自分が政治家になる人生を選ぶことになります。
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『デーヴ』
1993年、監督/アイヴァン・ライトマン
コメディ作品の『デーヴ』は、クリントン時代の政治を描いた映画としては『パーフェクト・カップル』と並んで優れた作品です。この映画に出てくる大統領役のケヴィン・クラインとファーストレディー役のシガニー・ウィーバーは、みんなに向かってバルコニーで手を振った後、部屋に戻ると即座に分かれてしまう。妻は夫に口もきこうとしない。相手にしない。「あんな女たらしのできそこないの尻拭いはたくさんだ」という訳です。ところが、この大統領が病気で倒れてしまう。大統領が女性との時間を作るために影武者をつくり、自分は女性とどこかに隠れていたんですが、この影武者が、たまたま大統領が病気になったので本当に大統領を務めなければならなくなった。同じケヴィン・クラインが大統領の役をします。
シガニー・ウィ―バー演じるファーストレディーは、最初は夫の言うことを聞こうとしないのですが、しかし「この人、心を入れ替えたのかもしれない」「まともな人なのかもしれない」と、次第に思い始める。大統領が夫とは思えない良い政策を打ち出す。何が起こったんだろう、と。本人と会うと、そっくりではあるが本人とは違う。夫が亡くなりかけているという真実に次第に近づくわけですが、夫にそっくりのこの男にファーストレディーが恋をする、という訳の分からない話です(笑)。コメディとして上出来なのですが、これは言ってみればヒラリー・クリントンから見たパラレル・ワールド。こうだったらいいのに、という。
ヒラリー・クリントンは人気のない政治家です。みんなを盛り上げる力が全然ない。なぜないのか。政治家としての魅力がない。頭はよほどビルよりいい。私はヒラリーがビルに会わなければ、アメリカの法律家協会の優れた会長になったと思っています。ビルに会って人生を間違ってしまった(笑)。ビルはこれに対して、喋り始めると皆さんの目がキラキラと輝く。これはさまざまな演説の映像をご覧いただければよく分かります。そして、演説を文章で読みとまるで意味をなさない。「君たち! 21世紀への架け橋に乗ってるかい⁉」「乗ってるよ!」「乗ってるかい⁉」この繰り返しなんです。人を馬鹿にした話、という気がします。
ヒラリー・クリントンという夫に力を注いだ人生の失敗を発見した人が、大統領になろうとする。だけど、大統領候補としての人を騙す力がまるで欠けている。今回の大統領選は騙すことに長けているトランプと、騙すことのできない政治家ではないクリントンとの争い、というひどい選挙です。
結び――今回の選挙で問われているもの
民主主義とは、国民の選んだ政治家によって行われるものです。そしてアメリカは民主政治の伝統が極めて長い国です。ただ民主政治という意味をはっきりしておかねばならない。三権分立とか法の支配といった概念は厳密に言えば民主主義というより、自由主義の流れを組んだものです。アメリカの政治の中にこれはあります。同時に、普通選挙。みんなが自分の代表を選ぶ仕掛け、これも民主主義です。
そして、さきほどヒューイ・ロングの話でも申し上げた通り、国民から選ばれたら何をやってもいいんだ、という人が政治家になる可能性をアメリカの政治はずっと抱えてきました。潜在的な可能性です。国民の代表として独裁者を出してしまう。これはかつて、アテナイの国政においてギリシャ人が恐れた可能性です。今回の選挙はヒラリー・クリントンが優れた政治家かどうか、ということではない。問題は民主主義によってトランプという独裁を生みだすかどうかが問われている。
それについて考える時に、どう考えてもアテナイの国政について読み直すよりは、映画を見直すほうがずっと勉強になる。こういうことで、今回の話を締めくくらせていただきたいと思います。
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東京大学大学院法学政治学研究科教授。東京都出身。幼少期をNY近郊で過ごす。1979年東京大学法学部卒業、フルブライト奨学生としてイェール大学大学院に留学。映画に造詣が深い。
藤原帰一(東京大学大学院法学政治学研究科教授)