<ヒラリーの「メール問題」再捜査のニュースは、最終盤の激戦州を大きく揺さぶった。FBIは結局、あらためて「訴追しない」ことを明らかにしたが、すでにヒラリーが被ったダメージは大きい>(写真:週末にニューハンプシャー州で遊説するヒラリー)
今回の大統領選では国務長官時代のヒラリー・クリントンが私用メールサーバーを使ったことが継続的に問題になっていた。しかし、本選が始まってからFBIのコミー長官が一旦「訴追に値する証拠はない」と発表し、スキャンダルが静まりつつあった。
その後、トランプの側に過去の女性蔑視発言など「オクトーバー・サプライズ」と呼ばれるスキャンダルが続出した。その結果、10月中旬の世論調査では、ヒラリーが地滑り的勝利を狙えるほどリードしていた。
ところが、投票日の11日前になって今度はヒラリーへの「オクトーバー・サプライズ」が飛び出した。「FBIがヒラリーのメール問題で捜査を再開した」という報道だ。
メディアの見出しだけを見た人は、ヒラリーが法を犯した新たな証拠が出てきたと考えただろう。
【参考記事】トランプに熱狂する白人労働階級「ヒルビリー」の真実
しかし、捜査の対象になったのは、ヒラリー本人が送受信したメールではない。彼女の右腕として長年働いているフーマ・アベディンの夫で元下院議員のアンソニー・ウィーナーのコンピューターと、そこから送受信されたメールだ。妻のアベディンがこのコンピューターを使ってヒラリーにメールを送った可能性があり、その中に、ヒラリーが機密情報を個人メールサーバーで送った証拠があるかもしれない、というものだ。「かもしれない」というだけで、FBIはまだ内容をチェックしていなかった。
前途有望な若手政治家だったウィーナーは、ソーシャルメディアで性的な写真を女性に送ったスキャンダルで下院議員を辞任し、カムバックを図ったときにも新たなスキャンダルが露呈して政治生命を失った人物だ。クリントン夫妻とも親交がある。
問題は、FBIのコミー長官が議会のリーダーに手紙を書いたタイミングと内容だ。
ヒラリーに直接関係がない証拠で、しかもFBIはまだ内容を調べてもいない。その段階で、しかも選挙直前に発表した。ジョージ・W・ブッシュ政権で司法長官だったアルベルト・ゴンザレスなど、共和党サイドからもコミー長官の行動を批判する専門家が出ている。
アメリカには1939年に制定された「ハッチ法」という法律がある。政府職員が選挙の結果を左右するような言動をすることを禁じているが、コミーがこのハッチ法に抵触するのではないかという見方もある。
しかし、国民は詳細にまでは気を配らない。報道の見出しだけで「ヒラリーは犯罪者」という印象を受け、ソーシャルメディアでも話題となり、一気に世論調査はトランプ有利に傾いた。
選挙ボランティアを鼓舞する民主党のウォーレン議員(筆者撮影)
問題は全米の世論調査より、「スイング・ステート」と呼ばれる激戦州だ。ヒラリーは、これらの激戦州のほとんどで大幅にリードしていたが、FBIの発表後にそのリードの大部分を失った。
ニューハンプシャー州は、他のスイング・ステートを失ってもこれが勝利の防御壁になるという「ファイアーウォール」とみなされていたが、FBIの発表の影響で再びスイング・ステートに戻ってしまった。
ニューハンプシャーのモットーは、「Live Free or Die(自由に生きる。さもなくば、死を)」。住民は権威を嫌い、自分の意見を貫くことに誇りを抱く。有権者の40%が自称「無所属」で、民主党員のほうが共和党員よりも多いが、民主党支持者でも共和党候補に投票するし、その逆もある。投票当日まで投票する候補を決めない有権者が多いことでも知られている。
トランプとヒラリーの熱心な支持者は少々のことでは意見を変えないが、投票日まで決めない「浮動票」は、直近のスキャンダルに影響される。ニューハンプシャーの有権者は、ほかのどの州よりもメール問題に反応した。10月中旬には、世論調査でヒラリーが10ポイント以上の差を付けてリードしていたが、直近の世論調査では「引き分け」か「トランプ有利」のものが増えてきた。
ヒラリー陣営の焦りは、選挙直前のキャンペーンスケジュールにも表れている。
【参考記事】トランプが敗北しても彼があおった憎悪は消えない
5日土曜には、人気が高いマサチューセッツ州選出の上院議員エリザベス・ウォーレンがニューハンプシャーをまわり、6日の日曜にはヒラリー本人が選挙集会を開き、選挙前日の7日月曜の午後にはオバマ大統領が集会に参加するという力の入れ方だ。
ウォーレン議員は「ウォール街を占拠せよ」運動の思想的指導者と言われる人物で、民主党の選挙事務所に集まった選挙ボランティアたちに、「私たちは公平な収入を信じ、LGBTの権利を信じ、女性の賃金平等を信じ、労働者が連帯して交渉する権利を信じ、借金をしなくてすむ大学教育を信じる党。そして、憲法と民主主義を信じる党。そうですよね?」と呼びかけ、士気を鼓舞した。事務所を埋めたボランティアたちも、これに声援と拍手喝采で応えていた。
獲得できる選挙人はたったの4人なのに、なぜ民主党はニューハンプシャーにここまで力を入れるのか?(最も多いカリフォルニアは55人、スイング・ステートのペンシルバニア州は20人)
理由の一つは、大統領選の重要拠点であるだけでなく、民主党の上院議員が過半数を獲得できるかどうかを決する州でもあるからだ。現職知事のマギー・ハッサンは、今回上院議員選に立候補し、共和党現職のケリー・エイヨットと接戦を繰り広げている。ハッサンが勝てば、現在共和党が支配している議会上院の過半数を、51対49で民主党が奪取できる可能性がある。
大統領選では(以前にも書いたが)、ニューハンプシャーは2000年大統領選の勝敗を決めた州として知られている。ジョージ・W・ブッシュが7000票という僅差でアル・ゴアを破ったが、「どちらが大統領になっても変化はない」と左寄りのリベラルに呼びかけた緑の党のラルフ・ネーダーが2万2000票も獲得した。ネーダーがゴアからこれだけ多くの票を奪わなければ、ゴアが大統領になっていたはずだった。
そしてニューハンプシャーは、東海岸北部では、共和党が最大の勢力を誇る州でもある。それだけにトランプ陣営も、相当なエネルギーを注いでいる。
トランプ陣営は、ラリーに参加した支持者に次のようなアルバイト募集のメールを送っている。「選挙運動の最後の努力として、我々ニューハンプシャーチームと一緒に仕事をする報酬付きのポジションがあります。今から11月8日まで、ニューハンプシャーでドアを叩く意志がある方を探しています」
ヒラリー陣営で地上戦をするのは、すべて無償のボランティアだ。このメールは、トランプの「地上戦」を担うボランティアが足りないことも示唆している。
しかし、それでもトランプ陣営は、ここで勝てると見込んでいる。選挙前夜の最も重要なラリーを、トランプがニューハンプシャーで開催することからも、それはわかる。
【参考記事】この映画を観ればアメリカ政治の「なぜ」が解ける
いよいよ選挙まであと丸1日しかない日曜の夜、FBI長官が再び議会のリーダーに手紙で通知した。ウィーナーのメールをすべて調査した結果、訴追するような内容は何も見つからなかったという報告だった。
民主党員たちの反応は、安堵と怒りの混じったものだった。
選挙前に疑惑が晴れたのはうれしいが、ヒラリーはすでに深刻なダメージを受けている。州によってはすでに早期投票が進んでいる。直前のメール問題でヒラリーへの投票をやめた浮動票が何%かはあるはずだ。それはもう取り返すことはできない。そして、たった1日で「まったく根拠のない疑惑だった」というメッセージを有権者に浸透させるのは無理だ。
ニューハンプシャーの結果が大統領選の勝敗を左右するかどうかは別として、選挙のプロでもまったく結果が読めないスイング・ステートになってしまったことは確かだ。
渡辺由佳里(エッセイスト)
今回の大統領選では国務長官時代のヒラリー・クリントンが私用メールサーバーを使ったことが継続的に問題になっていた。しかし、本選が始まってからFBIのコミー長官が一旦「訴追に値する証拠はない」と発表し、スキャンダルが静まりつつあった。
その後、トランプの側に過去の女性蔑視発言など「オクトーバー・サプライズ」と呼ばれるスキャンダルが続出した。その結果、10月中旬の世論調査では、ヒラリーが地滑り的勝利を狙えるほどリードしていた。
ところが、投票日の11日前になって今度はヒラリーへの「オクトーバー・サプライズ」が飛び出した。「FBIがヒラリーのメール問題で捜査を再開した」という報道だ。
メディアの見出しだけを見た人は、ヒラリーが法を犯した新たな証拠が出てきたと考えただろう。
【参考記事】トランプに熱狂する白人労働階級「ヒルビリー」の真実
しかし、捜査の対象になったのは、ヒラリー本人が送受信したメールではない。彼女の右腕として長年働いているフーマ・アベディンの夫で元下院議員のアンソニー・ウィーナーのコンピューターと、そこから送受信されたメールだ。妻のアベディンがこのコンピューターを使ってヒラリーにメールを送った可能性があり、その中に、ヒラリーが機密情報を個人メールサーバーで送った証拠があるかもしれない、というものだ。「かもしれない」というだけで、FBIはまだ内容をチェックしていなかった。
前途有望な若手政治家だったウィーナーは、ソーシャルメディアで性的な写真を女性に送ったスキャンダルで下院議員を辞任し、カムバックを図ったときにも新たなスキャンダルが露呈して政治生命を失った人物だ。クリントン夫妻とも親交がある。
問題は、FBIのコミー長官が議会のリーダーに手紙を書いたタイミングと内容だ。
ヒラリーに直接関係がない証拠で、しかもFBIはまだ内容を調べてもいない。その段階で、しかも選挙直前に発表した。ジョージ・W・ブッシュ政権で司法長官だったアルベルト・ゴンザレスなど、共和党サイドからもコミー長官の行動を批判する専門家が出ている。
アメリカには1939年に制定された「ハッチ法」という法律がある。政府職員が選挙の結果を左右するような言動をすることを禁じているが、コミーがこのハッチ法に抵触するのではないかという見方もある。
しかし、国民は詳細にまでは気を配らない。報道の見出しだけで「ヒラリーは犯罪者」という印象を受け、ソーシャルメディアでも話題となり、一気に世論調査はトランプ有利に傾いた。
選挙ボランティアを鼓舞する民主党のウォーレン議員(筆者撮影)
問題は全米の世論調査より、「スイング・ステート」と呼ばれる激戦州だ。ヒラリーは、これらの激戦州のほとんどで大幅にリードしていたが、FBIの発表後にそのリードの大部分を失った。
ニューハンプシャー州は、他のスイング・ステートを失ってもこれが勝利の防御壁になるという「ファイアーウォール」とみなされていたが、FBIの発表の影響で再びスイング・ステートに戻ってしまった。
ニューハンプシャーのモットーは、「Live Free or Die(自由に生きる。さもなくば、死を)」。住民は権威を嫌い、自分の意見を貫くことに誇りを抱く。有権者の40%が自称「無所属」で、民主党員のほうが共和党員よりも多いが、民主党支持者でも共和党候補に投票するし、その逆もある。投票当日まで投票する候補を決めない有権者が多いことでも知られている。
トランプとヒラリーの熱心な支持者は少々のことでは意見を変えないが、投票日まで決めない「浮動票」は、直近のスキャンダルに影響される。ニューハンプシャーの有権者は、ほかのどの州よりもメール問題に反応した。10月中旬には、世論調査でヒラリーが10ポイント以上の差を付けてリードしていたが、直近の世論調査では「引き分け」か「トランプ有利」のものが増えてきた。
ヒラリー陣営の焦りは、選挙直前のキャンペーンスケジュールにも表れている。
【参考記事】トランプが敗北しても彼があおった憎悪は消えない
5日土曜には、人気が高いマサチューセッツ州選出の上院議員エリザベス・ウォーレンがニューハンプシャーをまわり、6日の日曜にはヒラリー本人が選挙集会を開き、選挙前日の7日月曜の午後にはオバマ大統領が集会に参加するという力の入れ方だ。
ウォーレン議員は「ウォール街を占拠せよ」運動の思想的指導者と言われる人物で、民主党の選挙事務所に集まった選挙ボランティアたちに、「私たちは公平な収入を信じ、LGBTの権利を信じ、女性の賃金平等を信じ、労働者が連帯して交渉する権利を信じ、借金をしなくてすむ大学教育を信じる党。そして、憲法と民主主義を信じる党。そうですよね?」と呼びかけ、士気を鼓舞した。事務所を埋めたボランティアたちも、これに声援と拍手喝采で応えていた。
獲得できる選挙人はたったの4人なのに、なぜ民主党はニューハンプシャーにここまで力を入れるのか?(最も多いカリフォルニアは55人、スイング・ステートのペンシルバニア州は20人)
理由の一つは、大統領選の重要拠点であるだけでなく、民主党の上院議員が過半数を獲得できるかどうかを決する州でもあるからだ。現職知事のマギー・ハッサンは、今回上院議員選に立候補し、共和党現職のケリー・エイヨットと接戦を繰り広げている。ハッサンが勝てば、現在共和党が支配している議会上院の過半数を、51対49で民主党が奪取できる可能性がある。
大統領選では(以前にも書いたが)、ニューハンプシャーは2000年大統領選の勝敗を決めた州として知られている。ジョージ・W・ブッシュが7000票という僅差でアル・ゴアを破ったが、「どちらが大統領になっても変化はない」と左寄りのリベラルに呼びかけた緑の党のラルフ・ネーダーが2万2000票も獲得した。ネーダーがゴアからこれだけ多くの票を奪わなければ、ゴアが大統領になっていたはずだった。
そしてニューハンプシャーは、東海岸北部では、共和党が最大の勢力を誇る州でもある。それだけにトランプ陣営も、相当なエネルギーを注いでいる。
トランプ陣営は、ラリーに参加した支持者に次のようなアルバイト募集のメールを送っている。「選挙運動の最後の努力として、我々ニューハンプシャーチームと一緒に仕事をする報酬付きのポジションがあります。今から11月8日まで、ニューハンプシャーでドアを叩く意志がある方を探しています」
ヒラリー陣営で地上戦をするのは、すべて無償のボランティアだ。このメールは、トランプの「地上戦」を担うボランティアが足りないことも示唆している。
しかし、それでもトランプ陣営は、ここで勝てると見込んでいる。選挙前夜の最も重要なラリーを、トランプがニューハンプシャーで開催することからも、それはわかる。
【参考記事】この映画を観ればアメリカ政治の「なぜ」が解ける
いよいよ選挙まであと丸1日しかない日曜の夜、FBI長官が再び議会のリーダーに手紙で通知した。ウィーナーのメールをすべて調査した結果、訴追するような内容は何も見つからなかったという報告だった。
民主党員たちの反応は、安堵と怒りの混じったものだった。
選挙前に疑惑が晴れたのはうれしいが、ヒラリーはすでに深刻なダメージを受けている。州によってはすでに早期投票が進んでいる。直前のメール問題でヒラリーへの投票をやめた浮動票が何%かはあるはずだ。それはもう取り返すことはできない。そして、たった1日で「まったく根拠のない疑惑だった」というメッセージを有権者に浸透させるのは無理だ。
ニューハンプシャーの結果が大統領選の勝敗を左右するかどうかは別として、選挙のプロでもまったく結果が読めないスイング・ステートになってしまったことは確かだ。
渡辺由佳里(エッセイスト)