<「国境なき医師団」(MSF)の取材をはじめた いとうせいこうさんは、まずハイチを訪ね、今度はギリシャの難民キャンプで活動するMSFをおとずれた。そして、アテネ市内で最大規模の難民キャンプがあるピレウス港で取材がつづけられた...>
これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 」
前回の記事:難民キャンプで暮らす人々への敬意について
さらにピレウスの難民キャンプにて
俺が帰国の機内でなお思い出している「俺」は、今もギリシャのピレウス港にいる。
雲ひとつないような晴れた空の下、アテネの難民キャンプは他にもうひとつオリンピック会場となったエリニコにあって、スタジアムや野球場などが利用されていることを、他でもないこの俺は医療マネージャーのティモス・チャリアマリアスから聞いているのだった。
実はそれらは正式には難民キャンプでさえなく、難民の方々が緊急にとどまっている場所に過ぎないこと、つまり政府が建設した施設ではないのだということも(ただし他に呼びようもないので以後も「難民キャンプ」と書く)。
ティモスも横にいるクリスティーナ・パパゲオルジオも日の眩しさに目を細め、不ぞろいのプラスチック椅子に腰をかけている。簡易的なプレハブの医療施設の前で。
ピレウス港には合計40人のMSFチームがおり、医師は3、4人、看護師7人、文化的仲介者がなんと14人という層の厚さになっているという話も興味深かった。それは文化の違いで齟齬が起きないようにする繊細な対応ぶりを示すと同時に、それだけ多様な地域から難民が逃れ出ていることのあかしでもあった。
彼らチームはもちろん自分たち内部で患者のカルテを共有すると同時に、別の曜日にこのコンテナ診療所を受け持つ他の医療団体ともデータを共有し、もし難民の一人が他のキャンプへ移動しても、すぐに適応出来るよう努力をしているそうだった。
短い髪を立てているティモスはいかにも若いスタッフだったが、話を聞いてみるとまずアテネ市内のホームレスへの医療を2年前から始め、南スーダンの内戦で生まれた難民の救護を行い、マラリアで苦しむ同じアフリカの別地域で活動したあと、ギリシャに戻って7ヶ月をピレウス港で過ごしていた。
もともと国立病院で普通に看護師として勤めていたが、高校時代からすでに「自分を必要としてくれる場所へ行きたい。そこで働くことが自分を満足させてくれるはずだ」と思い、人道団体のボランティアをしていたというから、彼のキャリアは十二分なのだった。
「クリスティーナさんは?」
「私は医療が専門じゃないから、ただ自分のスキルや知識を活かしてもらいたいだけ」
クールにそう答えた彼女だが、地元ギリシャからトルコ、エチオピア(ソマリア人難民援助)、インドで多くのミッションを経てきた人物だった。元々は政策系のプラン作りを専門としているが、今は戦争や貧困に苦しむ人々に手を差し伸べるMSFでマネージメントをしているわけなのだった。
つまり、どんなキャリアであれ、それを他者のために活かすことは出来る。
その中で俺だけが最も外野からわかったようなことを書いて彼らの活動を報せるだけの、いわば無責任な立場なのだった。
俺もまた日の眩しさに目を細めた。
彼らは俺だ
すると、そこに美しい長衣をまとった女性が青を基調とした派手なヒジャブを頭にかぶって、これまた身なりのきれいな子供と共にゆったり歩いてきた。どう見ても中流以上の暮らしをしてきた人だった。しかも、移動の苦難を経てもなお、身だしなみを変えずにいるプライドを彼女は持っていた。
尊厳それ自体が歩いてくるように感じた。
まさに前回書いた「敬意」を自動的に持つ以外ない、それは悠々たる姿であった。
【前回記事】難民キャンプで暮らす人々への敬意について
それで俺はさらに気づいたのだった。
彼ら難民が俺たちとなんの違いもないことに。
通常、難民と聞くと俺たちはまず経済難民を想像してしまう。貧しいがゆえに活路を他に求め、国を渡ってくる人々だ。むろん彼らも支えられるべきなのだが(ほとんどの場合、彼らの貧困には彼ら自身なんの責任もないのだから)、俺がその時目の前にしていたのは戦乱、紛争で理不尽にも家を爆撃され、街を焼かれ、銃で追い立てられた人々なのだった。
もし日本が国際紛争に巻き込まれ、東京が戦火に包まれれば、とすぐに想像は頭に浮かんだ。
明日、俺が彼らのようになっても不思議ではないのだ。
だからこそ、MSFのスタッフは彼らを大切にするのだとわかった気がした。スタッフの持つ深い「敬意」は「たまたま彼らだった私」の苦難へ頭(こうべ)を垂れる態度だったのである。
青い衣を風になびかせて自分の前を通りゆく女性を視界に入れた俺の脳裏に、「同情」という言葉が続いて浮かんできた。
いかにも安っぽい感情として禁じられがちな「同情」。しかしギリシャにいる俺の頭には、それは同時に「compassion」という単語にもなった。気持ちを同じくすること。思いやり。
なるほどそれは「たまたま彼らだった私」への想像なのだった。上から下へ与えるようなものではない。きわめて水平的に、まるで他者を自己として見るような態度だ。
それは心の自己免疫疾患かもしれなかった。他人を自分としてとらえ、自分を他人としてしまうのだから。
けれどその思考は病いではないはずだった。
むしろ「たまたま彼らだった私」と「たまたま私であった彼ら」という観点こそが、人間という集団をここまで生かしてきたのだ、と俺は思った。あるいは「彼ら」を植物や動物や鉱物や水と置き換えれば、それはインドでは輪廻転生になる。私は前世鹿やコケであったかもしれないという考えが、「たまたま私だった彼ら」「たまたま彼らだった私」という倫理を生む。また、自分のエゴで自然を脅かすべきではないと考えるエコロジーも、こうして俺たちの心の自己免疫疾患から生じているのに違いなかった。
偉大なる「compassion」から。
女性と子供がプレハブに入ってしまうと、あたりはまた静けさに支配された。俺は変わらず椅子に座り、気づきを言語化するのに混乱しながらしばらく時間を過ごした。
時間と空間さえずれていれば、難民は俺であり、俺は難民なのだった。
テントの方へ
「テントの方へ行ってみますか? 彼らに話は聞けませんが。ただ、診療所に来る患者さんに同意を得てあとでインタビューを受けてもらうことは可能ですし」
クリスティーナさんがそう言った。
施設の裏に倉庫があり、そこを回り込むと暗い色調のテントが連なっていた。
遊ぶ子供たち
もともと俺たちが車で通った時の道路があり、その向こうの高架の下にもテントは並んでいた。
低いテントの群れの横にトイレらしきプレハブが並び、またしばらくテントが続くと今度はシャワーを浴びるためのボックスのようなものが建てられていた。
暑いさかりでもあり、生活している人々はほとんど外にいなかった。いるとしたら子供たちにホースで水をかけている母親と、黙ってバスケットボールをついている男の子たちくらいのものだった。
高架の壁にスプレーで大きくこう書かれていた。
NO BORDERS
ダイレクトなグラフィティ
その言葉は受け入れる側の歓迎、あるいは難民側からの強いメッセージにも見えた。
俺たちは常に境界を作っている。国境を、心理の境を、宗教や人種の壁を。
それが誰かの苦境を生み出しているのだ。
バグダッドの紳士
道路沿いにテントを見ながら黙って歩いていると、ある中東の壮年男性がふらっと近づいてきた。手にビニール袋を持っていて、中がパンなのが見えた。配給を受けてきたのだろうと思った。彼が微笑みを送ってくるので、俺も会釈をし、微笑んでみせた。
「どこから来ましたか?」
訛りの濃い英語で彼は言った。
「日本からです。MSFの者です」
俺はわかりやすくそう言った。
あなたは?と聞く前に、ヒゲを鼻の下にたくわえ、白い布の上下を着てサンダルを履いている彼は話し出していた。
「私はフセインと言います。イラクのバグダッドから来ました」
歩きながらフセインさんは国のIDカードらしきものを出して俺に見せた。それは別のカードフォルダーに並べて入れられていて、次のページには見開きに2枚、かわいらしい男の子の写真が入っていた。雨にでも打たれたのだろうか、写真は少し褪色していた。
「これは私の息子たちです」
「あ、かわいいですね」
「でも、もういません」
俺は黙った。
フセインさんは右手の指で銃らしき形を作り、自分の斜め前を撃つ真似をした。
「チュク、チュク」
それが銃弾の発射される音だった。
彼の目の前で二人の子供は撃たれたのだった。情勢自体は安定していると言われるバグダッドで何が起きたというのだろうか。
俺は首を振って、同情の意を精いっぱい示した。自分が子供を殺されたらどうだろう。そして国にいられなくなったら。
「私の妻も......」
フセインさんは申し訳なさそうに言った。俺にショックを与えたくはないが、しゃべらずにはいられないのだというように。
そしてまたあの銃の音を出した。
俺はスマホを取り出し、フセインさんが再び開いて見せるページの、彼の子供たちの写真を撮った。レポートとして使用するつもりはまるでなかった。フセインさんが他人の記憶にもとどめて欲しいと思っている素敵な男の子たちの姿を、俺も忘れるつもりがないという決意を伝えたかったのだった。
そこにも、あり得べき心の自己免疫疾患が起きたのだった。
「どなたか他にご家族は?」
俺はシャッターを切ったあと、わざと軽い調子で聞いてみた。
するとさっきまで銃の形になっていたフセインさんの右手の指が、ずっと続く金網のフェンスをさした。髪の毛がくしゃくしゃと巻いている小さな子供が、フェンスの向こうにいて金網につかまったままこちらを見上げていた。
「ハロー」
と俺はその子に手を振った。
けれども巻き毛のかわいい子は俺に心を許さなかった。
父親がきちんと自分を抱き上げるまで、子供がかすかな緊張を続けていることがわかった。
俺がその子であってもよかったし、その父親であってもよかった。
そして、これを読んでいるあなたが銃弾を撃ち込まれる小さな男の子であってもよかったし、あなたのかわりに彼らが命を失った世界もあり得た。
たったひとりの息子を先に行かせ、去ってゆくフセインさんの背中
(つづく)
いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
いとうせいこう
これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 」
前回の記事:難民キャンプで暮らす人々への敬意について
さらにピレウスの難民キャンプにて
俺が帰国の機内でなお思い出している「俺」は、今もギリシャのピレウス港にいる。
雲ひとつないような晴れた空の下、アテネの難民キャンプは他にもうひとつオリンピック会場となったエリニコにあって、スタジアムや野球場などが利用されていることを、他でもないこの俺は医療マネージャーのティモス・チャリアマリアスから聞いているのだった。
実はそれらは正式には難民キャンプでさえなく、難民の方々が緊急にとどまっている場所に過ぎないこと、つまり政府が建設した施設ではないのだということも(ただし他に呼びようもないので以後も「難民キャンプ」と書く)。
ティモスも横にいるクリスティーナ・パパゲオルジオも日の眩しさに目を細め、不ぞろいのプラスチック椅子に腰をかけている。簡易的なプレハブの医療施設の前で。
ピレウス港には合計40人のMSFチームがおり、医師は3、4人、看護師7人、文化的仲介者がなんと14人という層の厚さになっているという話も興味深かった。それは文化の違いで齟齬が起きないようにする繊細な対応ぶりを示すと同時に、それだけ多様な地域から難民が逃れ出ていることのあかしでもあった。
彼らチームはもちろん自分たち内部で患者のカルテを共有すると同時に、別の曜日にこのコンテナ診療所を受け持つ他の医療団体ともデータを共有し、もし難民の一人が他のキャンプへ移動しても、すぐに適応出来るよう努力をしているそうだった。
短い髪を立てているティモスはいかにも若いスタッフだったが、話を聞いてみるとまずアテネ市内のホームレスへの医療を2年前から始め、南スーダンの内戦で生まれた難民の救護を行い、マラリアで苦しむ同じアフリカの別地域で活動したあと、ギリシャに戻って7ヶ月をピレウス港で過ごしていた。
もともと国立病院で普通に看護師として勤めていたが、高校時代からすでに「自分を必要としてくれる場所へ行きたい。そこで働くことが自分を満足させてくれるはずだ」と思い、人道団体のボランティアをしていたというから、彼のキャリアは十二分なのだった。
「クリスティーナさんは?」
「私は医療が専門じゃないから、ただ自分のスキルや知識を活かしてもらいたいだけ」
クールにそう答えた彼女だが、地元ギリシャからトルコ、エチオピア(ソマリア人難民援助)、インドで多くのミッションを経てきた人物だった。元々は政策系のプラン作りを専門としているが、今は戦争や貧困に苦しむ人々に手を差し伸べるMSFでマネージメントをしているわけなのだった。
つまり、どんなキャリアであれ、それを他者のために活かすことは出来る。
その中で俺だけが最も外野からわかったようなことを書いて彼らの活動を報せるだけの、いわば無責任な立場なのだった。
俺もまた日の眩しさに目を細めた。
彼らは俺だ
すると、そこに美しい長衣をまとった女性が青を基調とした派手なヒジャブを頭にかぶって、これまた身なりのきれいな子供と共にゆったり歩いてきた。どう見ても中流以上の暮らしをしてきた人だった。しかも、移動の苦難を経てもなお、身だしなみを変えずにいるプライドを彼女は持っていた。
尊厳それ自体が歩いてくるように感じた。
まさに前回書いた「敬意」を自動的に持つ以外ない、それは悠々たる姿であった。
【前回記事】難民キャンプで暮らす人々への敬意について
それで俺はさらに気づいたのだった。
彼ら難民が俺たちとなんの違いもないことに。
通常、難民と聞くと俺たちはまず経済難民を想像してしまう。貧しいがゆえに活路を他に求め、国を渡ってくる人々だ。むろん彼らも支えられるべきなのだが(ほとんどの場合、彼らの貧困には彼ら自身なんの責任もないのだから)、俺がその時目の前にしていたのは戦乱、紛争で理不尽にも家を爆撃され、街を焼かれ、銃で追い立てられた人々なのだった。
もし日本が国際紛争に巻き込まれ、東京が戦火に包まれれば、とすぐに想像は頭に浮かんだ。
明日、俺が彼らのようになっても不思議ではないのだ。
だからこそ、MSFのスタッフは彼らを大切にするのだとわかった気がした。スタッフの持つ深い「敬意」は「たまたま彼らだった私」の苦難へ頭(こうべ)を垂れる態度だったのである。
青い衣を風になびかせて自分の前を通りゆく女性を視界に入れた俺の脳裏に、「同情」という言葉が続いて浮かんできた。
いかにも安っぽい感情として禁じられがちな「同情」。しかしギリシャにいる俺の頭には、それは同時に「compassion」という単語にもなった。気持ちを同じくすること。思いやり。
なるほどそれは「たまたま彼らだった私」への想像なのだった。上から下へ与えるようなものではない。きわめて水平的に、まるで他者を自己として見るような態度だ。
それは心の自己免疫疾患かもしれなかった。他人を自分としてとらえ、自分を他人としてしまうのだから。
けれどその思考は病いではないはずだった。
むしろ「たまたま彼らだった私」と「たまたま私であった彼ら」という観点こそが、人間という集団をここまで生かしてきたのだ、と俺は思った。あるいは「彼ら」を植物や動物や鉱物や水と置き換えれば、それはインドでは輪廻転生になる。私は前世鹿やコケであったかもしれないという考えが、「たまたま私だった彼ら」「たまたま彼らだった私」という倫理を生む。また、自分のエゴで自然を脅かすべきではないと考えるエコロジーも、こうして俺たちの心の自己免疫疾患から生じているのに違いなかった。
偉大なる「compassion」から。
女性と子供がプレハブに入ってしまうと、あたりはまた静けさに支配された。俺は変わらず椅子に座り、気づきを言語化するのに混乱しながらしばらく時間を過ごした。
時間と空間さえずれていれば、難民は俺であり、俺は難民なのだった。
テントの方へ
「テントの方へ行ってみますか? 彼らに話は聞けませんが。ただ、診療所に来る患者さんに同意を得てあとでインタビューを受けてもらうことは可能ですし」
クリスティーナさんがそう言った。
施設の裏に倉庫があり、そこを回り込むと暗い色調のテントが連なっていた。
遊ぶ子供たち
もともと俺たちが車で通った時の道路があり、その向こうの高架の下にもテントは並んでいた。
低いテントの群れの横にトイレらしきプレハブが並び、またしばらくテントが続くと今度はシャワーを浴びるためのボックスのようなものが建てられていた。
暑いさかりでもあり、生活している人々はほとんど外にいなかった。いるとしたら子供たちにホースで水をかけている母親と、黙ってバスケットボールをついている男の子たちくらいのものだった。
高架の壁にスプレーで大きくこう書かれていた。
NO BORDERS
ダイレクトなグラフィティ
その言葉は受け入れる側の歓迎、あるいは難民側からの強いメッセージにも見えた。
俺たちは常に境界を作っている。国境を、心理の境を、宗教や人種の壁を。
それが誰かの苦境を生み出しているのだ。
バグダッドの紳士
道路沿いにテントを見ながら黙って歩いていると、ある中東の壮年男性がふらっと近づいてきた。手にビニール袋を持っていて、中がパンなのが見えた。配給を受けてきたのだろうと思った。彼が微笑みを送ってくるので、俺も会釈をし、微笑んでみせた。
「どこから来ましたか?」
訛りの濃い英語で彼は言った。
「日本からです。MSFの者です」
俺はわかりやすくそう言った。
あなたは?と聞く前に、ヒゲを鼻の下にたくわえ、白い布の上下を着てサンダルを履いている彼は話し出していた。
「私はフセインと言います。イラクのバグダッドから来ました」
歩きながらフセインさんは国のIDカードらしきものを出して俺に見せた。それは別のカードフォルダーに並べて入れられていて、次のページには見開きに2枚、かわいらしい男の子の写真が入っていた。雨にでも打たれたのだろうか、写真は少し褪色していた。
「これは私の息子たちです」
「あ、かわいいですね」
「でも、もういません」
俺は黙った。
フセインさんは右手の指で銃らしき形を作り、自分の斜め前を撃つ真似をした。
「チュク、チュク」
それが銃弾の発射される音だった。
彼の目の前で二人の子供は撃たれたのだった。情勢自体は安定していると言われるバグダッドで何が起きたというのだろうか。
俺は首を振って、同情の意を精いっぱい示した。自分が子供を殺されたらどうだろう。そして国にいられなくなったら。
「私の妻も......」
フセインさんは申し訳なさそうに言った。俺にショックを与えたくはないが、しゃべらずにはいられないのだというように。
そしてまたあの銃の音を出した。
俺はスマホを取り出し、フセインさんが再び開いて見せるページの、彼の子供たちの写真を撮った。レポートとして使用するつもりはまるでなかった。フセインさんが他人の記憶にもとどめて欲しいと思っている素敵な男の子たちの姿を、俺も忘れるつもりがないという決意を伝えたかったのだった。
そこにも、あり得べき心の自己免疫疾患が起きたのだった。
「どなたか他にご家族は?」
俺はシャッターを切ったあと、わざと軽い調子で聞いてみた。
するとさっきまで銃の形になっていたフセインさんの右手の指が、ずっと続く金網のフェンスをさした。髪の毛がくしゃくしゃと巻いている小さな子供が、フェンスの向こうにいて金網につかまったままこちらを見上げていた。
「ハロー」
と俺はその子に手を振った。
けれども巻き毛のかわいい子は俺に心を許さなかった。
父親がきちんと自分を抱き上げるまで、子供がかすかな緊張を続けていることがわかった。
俺がその子であってもよかったし、その父親であってもよかった。
そして、これを読んでいるあなたが銃弾を撃ち込まれる小さな男の子であってもよかったし、あなたのかわりに彼らが命を失った世界もあり得た。
たったひとりの息子を先に行かせ、去ってゆくフセインさんの背中
(つづく)
いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
いとうせいこう