<1965年~1986年までフィリピンの長期政権を率いたマルコス元大統領。経済を発展させた反面、反政府派を弾圧し、最後は民主化勢力に国を追われた独裁者を、英雄墓地に埋葬するか否かで国を二分する騒ぎが起きている。その背景には、マルコスを敬い、自らも独裁者から英雄になりたいと願うドゥテルテの願望があるというのだが>
11月8日、フィリピン最高裁判所が一つの決定を下した。一時凍結していたフィリピンの第10代大統領、フェルディナンド・マルコス氏(1917年~1989年)の遺体をマニラ首都圏にある英雄墓地に埋葬することを許可するという決定だった。
決定に至る最高裁裁判官の投票は「賛成9票反対5票」と賛成多数による決定だった。しかし、5票が「反対」を示したことにこの「マルコス埋葬問題」の根深さが象徴されている。
この問題の発端は6月30日に国民の圧倒的多数を得て大統領に就任し、その後も不規則発言や暴言などで今や国際社会で有名となっているドゥテルテ大統領だった。
現在、北イロコス州バタックにあるマルコス元大統領の実家敷地内に特設された霊廟に冷凍保存されている遺体についてドゥテルテ大統領が「英雄墓地への埋葬」を容認したのだ。この容認を契機に9月28日のマルコス元大統領の命日に間に合うようにと埋葬計画が動き出そうとした。このため8月14日、9月22日にマニラ市だけではなくバギオ、ダバオ、セブなどフィリピン各地で「マルコスは英雄ではない」「独裁者は英雄墓地に相応しくない」という反対デモや集会が起きた。そして市民連合「バヤン」が最高裁に「英雄墓地埋葬の一時差し止め」を訴え、最高裁がこれを認めたことから「一時凍結」されていたのだ。
マルコス支持者、家族の悲願
マルコス元大統領は言わずとしれたフィリピン現代史に大きな役割を果たした指導者で、1965年から約20年間もの長期にわたり大統領を務め、目覚ましい経済発展の推進役となりフィリピンを東南アジアの優等生に育て上げた。
一方でマルコス元大統領は強権的な政治手腕により人権活動家や学生運動家、反政府組織メンバーなどには武力による弾圧で徹底的に抑え込むという独裁的手法を駆使し、次第に国民の反発を招くようになった。
その結果1986年の民主化を求めるピープルズパワー(エドサ革命)で大統領の座を追われ、亡命先の米ハワイで1989年に死亡。遺体はその後故郷への帰還が認められたが、熱烈なマルコス信者や長女、北イロコス州のアイミー州知事、長男のフェルディナンド・マルコス・ジュニア(愛称ボンボン)上院議員、妻のイメルダ下院議員ら家族にとって英雄墓地への埋葬はぜひ叶えたい悲願となっていた。
マニラ国際空港近くの緑豊かな広大な敷地にあるフィリピン英雄墓地には独立戦争や太平洋戦争などで祖国に殉じた約4万1500人の兵士が英雄として眠る。兵士以外にもガルシア大統領、マカパガル大統領など国家英雄も埋葬され、今年1月にはフィリピンを公式訪問した天皇皇后両陛下も慰霊のために訪れている。
「英雄か独裁者か」の議論
フィリピン歴代大統領は大統領に就任する度にこの「マルコス埋葬問題」に直面したが、反対派の根強い抵抗などから決断に踏み切れなかった。ただ一人、エストラーダ元大統領が前向きの姿勢を公にしたが、予想通りの激しい抵抗に遭い最終的に断念した経緯がある。
ピープルズパワーで大統領の座を追われた経緯や弾圧で殺害され、行方不明となった人権活動家などの家族、支援団体にしてみれば、どんなに経済成長、米国との同盟関係強化などの「功績」を勘案しても、やはり「英雄として埋葬するには抵抗がある」というのだ。言葉を変えればそれは「独立を守るために戦場に倒れた兵士などの英雄と同じ墓地に(マルコス元大統領を)埋葬することには心理的抵抗が根強く残っている」(地元紙記者)というフィリピン人の複雑な心の背景がある。
なぜ今マルコス埋葬問題なのか
最高裁の決定を受けて、フィリピン・カトリック・ビショップ会議は11月9日に「(最高裁の決定は)エドサ革命の精神を侮辱するもので、非常に悲しい。民主主義復興を掲げた国民の闘いを無にするものだ」という声明を出して反対を公にした。
長女アイミー州知事が「フィリピンは前進しなければならず、前進には平和と許しが必要だ」と述べ、父親の英雄墓地埋葬に理解と支持を訴えたことに対しても、キリスト教関係者は「平和は正義の上にこそ成り立つ」と反論。さらに「二度と再びあのような強権的圧制がフィリピンに訪れることがないように我々はあの時代を記憶し、若い世代に正しく伝えていかなくてはならない」との立場を明らかにして反対を訴えている。
これまでの「バヤン」のような民間組織に加えてフィリピン社会に大きな影響力をもつキリスト教組織が「反対声明」を出したことで、今後反対運動が盛り上がるのは確実だ。
なぜ今そこまで、マルコス元大統領の埋葬が社会問題化しようとしているのか。ドゥテルテ大統領の強い思い入れがその背景にある。ドゥテルテ大統領の父親はマルコス内閣で閣僚を務めたことがあり、大きな恩義を感じていることがその理由とされている。さらに「ドゥテルテが目指す理想の大統領がマルコスであり、マルコスに追いつき、最終的には追い越し、自らが英雄として国民の記憶に残りたいという希望を抱いている」とドゥテルテ側近に近いマスコミ関係者は解説する。
「火中の栗」を拾う
賛否両論が渦巻くマルコス元大統領の英雄墓地埋葬実現で、ドゥテルテ大統領は政界になお一定の影響力と一部国民の根強い人気を残すマルコス一族との関係を強化し、自らもいずれは「英雄」と呼ばれることを夢見ている、というのだ。
国民の支持率が依然として80%以上と高いこの時期に歴代政権がなしえなかった「マルコスの英雄墓地埋葬」という「火中の栗」を拾おうとしているドゥテルテ大統領。今後激しくなることが予想される反対派の抵抗運動がどこまで国民的運動に広がるかも注目となる。
さらにデモや対抗運動をドゥテルテ大統領が武力で弾圧したりすれば、それこそ自らが密かに目指すマルコス像に一歩近づくことなるが、それは「英雄」ではなく「独裁者」への道となる。
これまでの失言、暴言で常套手段となった「修正や撤回」のように反対運動の盛り上がりを見て「やはり埋葬は止めた」となることも十分考えられる。それはドゥテルテ大統領がその選択が「英雄への道」と判断した結果といえるだろう。
[執筆者]
大塚智彦(ジャーナリスト)
PanAsiaNews所属 1957年東京生まれ。国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞社入社、長野支局、東京外信部防衛庁担当などを経てジャカルタ支局長。2000年産経新聞社入社、シンガポール支局長、社会部防衛省担当などを歴任。2014年からPan Asia News所属のフリーランス記者として東南アジアをフィールドに取材活動を続ける。著書に「アジアの中の自衛隊」(東洋経済新報社)、「民主国家への道、ジャカルタ報道2000日」(小学館)など
大塚智彦(PanAsiaNews)
11月8日、フィリピン最高裁判所が一つの決定を下した。一時凍結していたフィリピンの第10代大統領、フェルディナンド・マルコス氏(1917年~1989年)の遺体をマニラ首都圏にある英雄墓地に埋葬することを許可するという決定だった。
決定に至る最高裁裁判官の投票は「賛成9票反対5票」と賛成多数による決定だった。しかし、5票が「反対」を示したことにこの「マルコス埋葬問題」の根深さが象徴されている。
この問題の発端は6月30日に国民の圧倒的多数を得て大統領に就任し、その後も不規則発言や暴言などで今や国際社会で有名となっているドゥテルテ大統領だった。
現在、北イロコス州バタックにあるマルコス元大統領の実家敷地内に特設された霊廟に冷凍保存されている遺体についてドゥテルテ大統領が「英雄墓地への埋葬」を容認したのだ。この容認を契機に9月28日のマルコス元大統領の命日に間に合うようにと埋葬計画が動き出そうとした。このため8月14日、9月22日にマニラ市だけではなくバギオ、ダバオ、セブなどフィリピン各地で「マルコスは英雄ではない」「独裁者は英雄墓地に相応しくない」という反対デモや集会が起きた。そして市民連合「バヤン」が最高裁に「英雄墓地埋葬の一時差し止め」を訴え、最高裁がこれを認めたことから「一時凍結」されていたのだ。
マルコス支持者、家族の悲願
マルコス元大統領は言わずとしれたフィリピン現代史に大きな役割を果たした指導者で、1965年から約20年間もの長期にわたり大統領を務め、目覚ましい経済発展の推進役となりフィリピンを東南アジアの優等生に育て上げた。
一方でマルコス元大統領は強権的な政治手腕により人権活動家や学生運動家、反政府組織メンバーなどには武力による弾圧で徹底的に抑え込むという独裁的手法を駆使し、次第に国民の反発を招くようになった。
その結果1986年の民主化を求めるピープルズパワー(エドサ革命)で大統領の座を追われ、亡命先の米ハワイで1989年に死亡。遺体はその後故郷への帰還が認められたが、熱烈なマルコス信者や長女、北イロコス州のアイミー州知事、長男のフェルディナンド・マルコス・ジュニア(愛称ボンボン)上院議員、妻のイメルダ下院議員ら家族にとって英雄墓地への埋葬はぜひ叶えたい悲願となっていた。
マニラ国際空港近くの緑豊かな広大な敷地にあるフィリピン英雄墓地には独立戦争や太平洋戦争などで祖国に殉じた約4万1500人の兵士が英雄として眠る。兵士以外にもガルシア大統領、マカパガル大統領など国家英雄も埋葬され、今年1月にはフィリピンを公式訪問した天皇皇后両陛下も慰霊のために訪れている。
「英雄か独裁者か」の議論
フィリピン歴代大統領は大統領に就任する度にこの「マルコス埋葬問題」に直面したが、反対派の根強い抵抗などから決断に踏み切れなかった。ただ一人、エストラーダ元大統領が前向きの姿勢を公にしたが、予想通りの激しい抵抗に遭い最終的に断念した経緯がある。
ピープルズパワーで大統領の座を追われた経緯や弾圧で殺害され、行方不明となった人権活動家などの家族、支援団体にしてみれば、どんなに経済成長、米国との同盟関係強化などの「功績」を勘案しても、やはり「英雄として埋葬するには抵抗がある」というのだ。言葉を変えればそれは「独立を守るために戦場に倒れた兵士などの英雄と同じ墓地に(マルコス元大統領を)埋葬することには心理的抵抗が根強く残っている」(地元紙記者)というフィリピン人の複雑な心の背景がある。
なぜ今マルコス埋葬問題なのか
最高裁の決定を受けて、フィリピン・カトリック・ビショップ会議は11月9日に「(最高裁の決定は)エドサ革命の精神を侮辱するもので、非常に悲しい。民主主義復興を掲げた国民の闘いを無にするものだ」という声明を出して反対を公にした。
長女アイミー州知事が「フィリピンは前進しなければならず、前進には平和と許しが必要だ」と述べ、父親の英雄墓地埋葬に理解と支持を訴えたことに対しても、キリスト教関係者は「平和は正義の上にこそ成り立つ」と反論。さらに「二度と再びあのような強権的圧制がフィリピンに訪れることがないように我々はあの時代を記憶し、若い世代に正しく伝えていかなくてはならない」との立場を明らかにして反対を訴えている。
これまでの「バヤン」のような民間組織に加えてフィリピン社会に大きな影響力をもつキリスト教組織が「反対声明」を出したことで、今後反対運動が盛り上がるのは確実だ。
なぜ今そこまで、マルコス元大統領の埋葬が社会問題化しようとしているのか。ドゥテルテ大統領の強い思い入れがその背景にある。ドゥテルテ大統領の父親はマルコス内閣で閣僚を務めたことがあり、大きな恩義を感じていることがその理由とされている。さらに「ドゥテルテが目指す理想の大統領がマルコスであり、マルコスに追いつき、最終的には追い越し、自らが英雄として国民の記憶に残りたいという希望を抱いている」とドゥテルテ側近に近いマスコミ関係者は解説する。
「火中の栗」を拾う
賛否両論が渦巻くマルコス元大統領の英雄墓地埋葬実現で、ドゥテルテ大統領は政界になお一定の影響力と一部国民の根強い人気を残すマルコス一族との関係を強化し、自らもいずれは「英雄」と呼ばれることを夢見ている、というのだ。
国民の支持率が依然として80%以上と高いこの時期に歴代政権がなしえなかった「マルコスの英雄墓地埋葬」という「火中の栗」を拾おうとしているドゥテルテ大統領。今後激しくなることが予想される反対派の抵抗運動がどこまで国民的運動に広がるかも注目となる。
さらにデモや対抗運動をドゥテルテ大統領が武力で弾圧したりすれば、それこそ自らが密かに目指すマルコス像に一歩近づくことなるが、それは「英雄」ではなく「独裁者」への道となる。
これまでの失言、暴言で常套手段となった「修正や撤回」のように反対運動の盛り上がりを見て「やはり埋葬は止めた」となることも十分考えられる。それはドゥテルテ大統領がその選択が「英雄への道」と判断した結果といえるだろう。
[執筆者]
大塚智彦(ジャーナリスト)
PanAsiaNews所属 1957年東京生まれ。国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞社入社、長野支局、東京外信部防衛庁担当などを経てジャカルタ支局長。2000年産経新聞社入社、シンガポール支局長、社会部防衛省担当などを歴任。2014年からPan Asia News所属のフリーランス記者として東南アジアをフィールドに取材活動を続ける。著書に「アジアの中の自衛隊」(東洋経済新報社)、「民主国家への道、ジャカルタ報道2000日」(小学館)など
大塚智彦(PanAsiaNews)