<ドキュメンタリー映画『湾生回家』の黄銘正監督に聞く、戦後日本に引き揚げた台湾出身の日本人「湾生」に共感する台湾の人々の心情>(写真:戦後に台湾から日本本土へ帰還した日本人は約50万人と言われる)
1895~1945年の50年間、日本が台湾を統治していたことはよく知られている。では、その間に台湾で生まれ育った「湾生(わんせい)」と呼ばれる日本人についてはどうだろうか。
当時、公務員や駐在員、軍人のほか、開墾のために移民として多くの日本人が台湾に渡った。日本の敗戦後、日本本土へ帰還したのは約50万人。うち20万人が、台湾で生まれ育った湾生だとされる。湾生にとっての故郷は台湾であり、わずかな荷物だけを持って未知の国・日本へと連れ戻されたときの混乱と苦労は計り知れないものがあっただろう。そんな彼らの台湾への思いを丁寧にすくい上げたのがドキュメンタリー映画「湾生回家(わんせいかいか)」だ(日本公開中)。
40人近い取材対象者の中から6人の湾生の声を中心に構成しているが、単なる老人たちの郷愁の物語ではない。彼らの人生はもちろん、日台の歴史と関係について改めて知ることも多い。昨年公開された台湾では、若者を中心に異例の大ヒットとなったという。
監督は台湾人の黄銘正(ホアン・ミンチェン)。プロデューサーと同郷だったことから監督として声を掛けられ、「そのときに初めて湾生という言葉を知った」という黄に話を聞いた。
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* * *
――「湾生」という言葉を知らなかったそうだが、なぜ題材として追ってみようと思った?
以前から日本は親しみやすい国だと思っていたし、日本人に対してもそういう感情があった。台湾の中には今も日本文化の跡がたくさん残っていて、生活の中にも生きている。建築もそうだし、食べ物もそうだ。例えば台湾のオーレン(黒輪)は、日本のおでんからきている。台南地方では日本料理がとても好まれる。
私の祖父母は日本語を話す世代で、2人が内緒話をするときは日本語でしゃべっていたのを覚えている。一方で、私たちの世代は歴史をちゃんと教えてもらっていなくて、台湾にはなぜこんなに日本文化が残っていて日本語を話す人がたくさんいるのか、よく理解できていなかった。この映画を撮ることは、自分自身の「なぜ」という謎を解くという意味もあった。
――台湾で若い観客が多かったのは、あなたのそうした思いと通じるものがあったからだろうか。
確かにそれはあったと思う。今の台湾の若者と日本の接点といえばマンガやアニメがほとんど。ゲームで日本語を覚えたりしているが、かつて日本が台湾にどんな影響を与えたかは本当には理解していない。だから僕と同じような好奇心があったと思う。
かつての友人たちを訪ねて、何度も台湾を訪れている冨永勝(左から2番目)。中学生だった46年に台湾から引き揚げた ©田澤文化有限公司
――台湾では日本に対する国民感情がいいと言われる。占領したことには変わりないが......。
50年間の日本による統治があり、台湾の人たちはその後も日本に対して懐かしい思い、親日的な思いを抱いていた。政治的、歴史的に言えば台湾人は被害者で、日本人は加害者なので不思議なことでもあるが。その背景には日本が引き揚げた後にやってきた中国の国民党が非常に高圧的な政治をしいたことがある。それと比較して日本の方が良かったということだろう。
「日本を好きでいてくれるアジアの国があったと知って嬉しい」という家族の方の言葉が映画に出てくるが、撮影中に聞いたときには「そんな風に思うのか」と驚いた。日本は歴史の重荷を背負っている。たとえ昔の人がしたことであっても、現代のわれわれが背負っていることなんですね。
――湾生の1人である、片山清子(在台湾)の母親のお墓をめぐる話が感動的だった。撮影する側もかなり尽力したのではないか。
清子さんは(離ればなれになった)母・千歳さんの写真も持っていないし、どういう人かまったく分からなかった。日本にあるお墓を清子さんの家族が探したが見つからなくて......。映画の中での出来事は、本当に不思議な縁があったと思う。僕はこの映画を撮影しているとき、なんとなく誰かが見守ってくれているような気がしていた。映画がうまく撮れるように、と。それはおそらく千歳さんだったのではないかと思うんですよ。
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――映画の中では「異邦人」というキーワードが出てくる。アイデンティティーについては台湾の人々も問題意識があるのだろうか?
台湾の歴史の背景というのは非常に複雑で、オランダ、スペイン、日本の植民地になり、さまざまな文化が混ざり合っている。私の妻は、髪が少し赤っぽいので「オランダ系」と言われる。本当にオランダ人の血を引いているかどうかは、昔は戸籍などもないので分からないが、そういうことがあると人々は認識している。例えば、淡水という街にはオランダ人が築いた砦「紅毛城」が残っているし、外国と関わりのある地名も各地にある。植民地だった歴史が台湾の文化を豊かにしている側面もある。
一方で、自分がいったい何者なのか分からない、「異邦人」のような状態も生まれ得る。日本の植民地時代は「日本人」とされていて、49年に国民党が台湾に来ると「中国人」になったように。台湾にはもう1つの異邦人もいる。それは中国大陸から蒋介石とともに台湾に渡ってきた外省の人々で、彼らは大陸に二度と帰れなくなってしまった。彼らもまた湾生と同じように、戦争が生んだ異邦人だろう。
大橋 希(本誌記者)
1895~1945年の50年間、日本が台湾を統治していたことはよく知られている。では、その間に台湾で生まれ育った「湾生(わんせい)」と呼ばれる日本人についてはどうだろうか。
当時、公務員や駐在員、軍人のほか、開墾のために移民として多くの日本人が台湾に渡った。日本の敗戦後、日本本土へ帰還したのは約50万人。うち20万人が、台湾で生まれ育った湾生だとされる。湾生にとっての故郷は台湾であり、わずかな荷物だけを持って未知の国・日本へと連れ戻されたときの混乱と苦労は計り知れないものがあっただろう。そんな彼らの台湾への思いを丁寧にすくい上げたのがドキュメンタリー映画「湾生回家(わんせいかいか)」だ(日本公開中)。
40人近い取材対象者の中から6人の湾生の声を中心に構成しているが、単なる老人たちの郷愁の物語ではない。彼らの人生はもちろん、日台の歴史と関係について改めて知ることも多い。昨年公開された台湾では、若者を中心に異例の大ヒットとなったという。
監督は台湾人の黄銘正(ホアン・ミンチェン)。プロデューサーと同郷だったことから監督として声を掛けられ、「そのときに初めて湾生という言葉を知った」という黄に話を聞いた。
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――「湾生」という言葉を知らなかったそうだが、なぜ題材として追ってみようと思った?
以前から日本は親しみやすい国だと思っていたし、日本人に対してもそういう感情があった。台湾の中には今も日本文化の跡がたくさん残っていて、生活の中にも生きている。建築もそうだし、食べ物もそうだ。例えば台湾のオーレン(黒輪)は、日本のおでんからきている。台南地方では日本料理がとても好まれる。
私の祖父母は日本語を話す世代で、2人が内緒話をするときは日本語でしゃべっていたのを覚えている。一方で、私たちの世代は歴史をちゃんと教えてもらっていなくて、台湾にはなぜこんなに日本文化が残っていて日本語を話す人がたくさんいるのか、よく理解できていなかった。この映画を撮ることは、自分自身の「なぜ」という謎を解くという意味もあった。
――台湾で若い観客が多かったのは、あなたのそうした思いと通じるものがあったからだろうか。
確かにそれはあったと思う。今の台湾の若者と日本の接点といえばマンガやアニメがほとんど。ゲームで日本語を覚えたりしているが、かつて日本が台湾にどんな影響を与えたかは本当には理解していない。だから僕と同じような好奇心があったと思う。
かつての友人たちを訪ねて、何度も台湾を訪れている冨永勝(左から2番目)。中学生だった46年に台湾から引き揚げた ©田澤文化有限公司
――台湾では日本に対する国民感情がいいと言われる。占領したことには変わりないが......。
50年間の日本による統治があり、台湾の人たちはその後も日本に対して懐かしい思い、親日的な思いを抱いていた。政治的、歴史的に言えば台湾人は被害者で、日本人は加害者なので不思議なことでもあるが。その背景には日本が引き揚げた後にやってきた中国の国民党が非常に高圧的な政治をしいたことがある。それと比較して日本の方が良かったということだろう。
「日本を好きでいてくれるアジアの国があったと知って嬉しい」という家族の方の言葉が映画に出てくるが、撮影中に聞いたときには「そんな風に思うのか」と驚いた。日本は歴史の重荷を背負っている。たとえ昔の人がしたことであっても、現代のわれわれが背負っていることなんですね。
――湾生の1人である、片山清子(在台湾)の母親のお墓をめぐる話が感動的だった。撮影する側もかなり尽力したのではないか。
清子さんは(離ればなれになった)母・千歳さんの写真も持っていないし、どういう人かまったく分からなかった。日本にあるお墓を清子さんの家族が探したが見つからなくて......。映画の中での出来事は、本当に不思議な縁があったと思う。僕はこの映画を撮影しているとき、なんとなく誰かが見守ってくれているような気がしていた。映画がうまく撮れるように、と。それはおそらく千歳さんだったのではないかと思うんですよ。
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――映画の中では「異邦人」というキーワードが出てくる。アイデンティティーについては台湾の人々も問題意識があるのだろうか?
台湾の歴史の背景というのは非常に複雑で、オランダ、スペイン、日本の植民地になり、さまざまな文化が混ざり合っている。私の妻は、髪が少し赤っぽいので「オランダ系」と言われる。本当にオランダ人の血を引いているかどうかは、昔は戸籍などもないので分からないが、そういうことがあると人々は認識している。例えば、淡水という街にはオランダ人が築いた砦「紅毛城」が残っているし、外国と関わりのある地名も各地にある。植民地だった歴史が台湾の文化を豊かにしている側面もある。
一方で、自分がいったい何者なのか分からない、「異邦人」のような状態も生まれ得る。日本の植民地時代は「日本人」とされていて、49年に国民党が台湾に来ると「中国人」になったように。台湾にはもう1つの異邦人もいる。それは中国大陸から蒋介石とともに台湾に渡ってきた外省の人々で、彼らは大陸に二度と帰れなくなってしまった。彼らもまた湾生と同じように、戦争が生んだ異邦人だろう。
大橋 希(本誌記者)