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スー・チー氏と面会果たしたコシノジュンコさん

ニューズウィーク日本版 2016年11月24日 11時44分

 ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相(71)が11月1日から5日まで日本を公式訪問した。日本はミャンマーとの政治、経済関係強化を念頭に、スー・チー氏を事実上の元首として遇し、2日に行われた安倍晋三首相との会談、それに続く歓迎夕食会も首相官邸ではなく東京・元赤坂の迎賓館が充てられた。

【参考記事】スー・チー氏の全方位外交と中国の戦略

 歓迎夕食会には日本側から約30人の民間人が招かれた。企業のトップ、保健・医療、教育研究関係者に混じって、文化関係者の中にファッションデザイナーのコシノジュンコさんの名前を目にした時は、「やはり」と思った。彼女はミャンマーが民主化する前から、ファッションで文化交流を行ってきた第一人者でもあるからだ。

ミャンマー文化への貢献

 夕食会の冒頭、歓迎スピーチに立った安倍首相はスー・チー氏を「民主化の不屈の指導者」とたたえ、「日本は信頼できるパートナーで、最大のサポーターであり続けたいと思います」と語った。

 また、両国の共通点に「相手を思いやる国民性」を、自分とスー・チー氏の共通点に「火曜日生まれ」を挙げた。「ミャンマーの曜日占いでは、火曜日生まれはライオンのように情熱的とされます。ミャンマーの国づくりに対して、思いやりの心はそのままに、情熱的に取り組む真の友人同士でありたいと思います」と語り、笑いを誘った。

 この夜の食事は、最初はお弁当のように、小皿に懐石料理が幾つも盛られた〈旬菜〉。内容は落花生豆腐、秋色白和え、柔穴子細巻き、地鶏香り焼串刺し、子持ちアユ煮浸し、クルマエビ茶巾ずし、ギンナン松葉刺し。

 2皿目は〈蒸し物〉で、魚介とろろナスのスープ蒸し。魚介にはアマダイ、ホタテガイ、ズワイガニを使っている。

 3皿目は〈造り〉で、内容はマコガレイ、サーモン、本マグロ、イカ。

 4皿目はアイガモ甲州煮の〈煮物〉。

 5皿目は〈焼き物〉で、伊勢エビをチーズとみそで焼いた一品。スー・チー氏が大好きな焼きぐりが添えられた。

 6皿目の〈御飯〉はうなぎせいろ。香の物と赤だしが一緒に出された。

 最後の〈デザート〉は、日本各地の旬の果物だった。

男性が強い? ミャンマー

 デザートが出された時、コシノジュンコさんは近くの席を立って、安倍首相とスー・チー氏のメーンテーブルに向かった。

「私はスー・チーさんと会ったことはありませんので、ミャンマーでいろいろやってきて、このままごあいさつできずじまいになるのは何だと思い、思い切って自分から立って来ました」

 気が付いた安倍首相は「ちゃんとご紹介しましょう」と、スー・チー氏に英語で「この方は日本の有名なファッションデザイナーです」と言った。

 これを引き取ったコシノさんは、ミャンマー語の通訳を介して、これまで2度ミャンマーでファッションショーを開いたこと、2013年に同国で東南アジア競技大会(SEAゲーム)が開かれた時は、ミャンマーチームのユニホームをデザインしたことなどを話した。

 スー・チー氏は「ああ、そうだったのですか」と思い出したようにうなずき、「ミャンマーの女性のファッションはまだまだですから、ぜひお手伝いしてください」と言った。コシノさんは自分がデザインしたハンカチに名刺を添えてプレゼントした。スー・チー氏は「ありがとう」を受け取った。



「気さくで、偉ぶってないチャーミングな方でした」とコシノさんは印象を語る。

 もう一つ、コシノさんがスー・チー氏で感心したのはそのスピーチだった。安倍首相の後、答礼の辞に立った同氏は、温かいもてなしに感謝を表明した後、「きょうのお客さまには女性が少ないようです」と言った。確かに日本側招待者の中に女性は数えるほどしかいなかった。

 スー・チー氏が「ミャンマーの女性は強く、男性は弱く日本と逆です。わが国の若い男性が強くなるよう日本から教えていいただきたい」と続けると、どっと座がはじけた。スー・チー氏一流のユーモアだった。

「あのスピーチは素晴らしかったです。確かに女性が少なかった。稲田朋美防衛相など政府関係者は別にして、招待された女性は私以外にあと2、3人くらいでした」(コシノさん)。

ヤンゴンで世界最高レベルを

 コシノさんがミャンマーの最大都市ヤンゴンで初めてのファッションショーを開いたのは09年8月だった。この年は日本とメコン地域諸国の交流年で、その一環で日本の外務省と国際交流基金が企画した。コシノさんが開催を任されたのは、中国やベトナムなどの社会主義国でショーを開き、ファッションを通して日本文化を紹介してきた実績があったからだ。

 そのコシノさんは当時、私の取材にこう語っている。「(ファッションショー開催の)話が持ち込まれた時、先入観を捨てようと思いました。ミャンマーはこのレベルだからこの程度でいいではなく、パリ、ニューヨークでやるのと同じ最高のものを見せる。それは必ず伝わると思いました」

 コシノさんはまずその年の3月に現地入りし、オーディションでモデル130人の中から17人を選んだ。そして本番の8月、日本人モデル4人を含め、音響、照明、メーク、ヘアー、ディレクターなど総勢17人と共に、ヤンゴンに乗り込んだ。

 会場は、英植民地時代の1901年に建てられたビクトリア様式の白亜のストランドホテル。初日はエントランスのロビーを使い、現地高官や外交団、企業関係者を招いたショーとディナーで盛り上げ、2日目は午後2回のショーを持った。招待者以外の観客は一般から公募。観客は2日間で延べ1000人に上った。

 ショーでは58点の新作が披露された。ミャンマーにゴールドのイメージを重ねるコシノさんは、衣装に金色を多用。またミャンマー文字をデザインにしたTシャツや、日本の着物やミャンマーの民族衣装ロンジーに想を得たドレスも登場。ホテルの荘重な雰囲気に溶け込んで、観客は盛り上がった。

 2日目、ショーの最中に突然停電が発生した。音楽も、照明も落ち、カメラのフラッシュだけが光る中を、モデルが歩く。その時、観客から自然と音楽の代わりの手拍子が起きた。コシノさんは「あの会場の一体感には涙が出るほど感動しました」と語った。

 事前に5回のリハーサルを行った。人前で着替えることに慣れていないミャンマーのモデルは、初めは服を持ってどこかに行ってしまう。「時間がかかって、困ってしまいました」(コシノさん)。それが最後は他人の目の前で平気で着替えるまでになった。



軍政下での国際社会への橋渡し

 当時、ミャンマーはまだ軍事政権で、スー・チー氏も自宅軟禁下にあった。軍事政権は米欧文化の浸透に神経をとがらせていたが、コシノさんのファッションショーの開催は認めた。米欧諸国がミャンマーに厳しい姿勢を取る中で、同国と国際社会の橋渡し役に務めていた日本を評価していたことと無縁ではないだろう。

 ショーには観光省の副大臣夫妻、前外務副大臣の夫人と娘さんなど、政府高官やその関係者も招待に応じて顔を見せた。野川保晶大使(当時)は「出席してくれただけで意義があります」と述べ、軍事政権とのチャンネルづくりの上でその意味合いは決して小さくないとの見方を示した。

 一般の人々へのインパクトについて、野川大使は「民主化の先にあるものを見せたのではないでしょうか」と指摘した。国が開かれれば、このように豊かな文化が花開く、とのメッセージだ。

 コシノさんも現地でさまざまに勇気づけられる反応を得た。ミャンマーのモデルたちは日本人モデルの所作の一挙手一投足を学ぼうと目を凝らした。ミャンマーの美容師たちも、楽屋で日本美容部員の化粧やヘアスタイルの技術を真剣に見つめた。ソフト面の技術交流でもあった。ファッションはデザイン、生地、縫製に加え、美容など波及効果が大きい。単に舞台で30分間、観客に服を見せて終わりではなかった。

「ミャンマーのメークさんが『今までにないすごいものを見ました』と感動してくれました。見た人がそれぞれの分野で、将来に対する何らかのビジョンを持ってくれたらうれしいです」とコシノさんは言った。ミャンマーが民主化へと歩みだすのはこれから約1年7カ月後の11年3月、テイン・セイン首相が大統領に就任してからだ。

 安倍首相は夕食会の歓迎スピーチで「両国のかけがえのない友好関係を、さまざまな分野で支えていただいているリーダーの方々をご招待させていただきました」と述べたが、コシノさんも間違いなくその1人である。

[執筆者]
西川 恵(にしかわ・めぐみ)
毎日新聞社客員編集委員
1971年毎日新聞社入社。テヘラン、パリ、ローマの各支局勤務。外信部長、論説委員を経て2002年から専門編集委員。14年4月から現職。著書に『エリゼ宮の食卓』(新潮社、サントリー学芸賞)、『国際政治のキーワード』(講談社)、『ワインと外交』(新潮新書)、『国際政治のゼロ年代』(毎日新聞社)、『饗宴外交』(世界文化社)など。共訳書に『超大国アメリカの文化力』(岩波書店)。フランス国家功労賞。


※当記事は時事通信社発行の電子書籍「e-World Premium」からの転載記事です。




西川 恵(毎日新聞社客員編集委員)※時事通信社発行の電子書籍「e-World Premium」より転載

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