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未来が見えないんですーーギリシャの難民キャンプにて

ニューズウィーク日本版 2016年12月13日 16時20分

<「国境なき医師団」(MSF)の取材をはじめた いとうせいこうさんは、まずハイチを訪ね、今度はギリシャの難民キャンプで活動するMSFをおとずれた。まずアテネ市内で最大規模の難民キャンプがあるピレウス港で取材し、トルコに近いレスボス島に移動した...>

これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 」
前回の記事:「リゾート地の難民キャンプに至るまで──ギリシャ、レスボス島」

消えてゆく青年を身代わりにして

 メモ帳に書かれた俺は、レスボス島東南部ミティリーニにある『国境なき医師団(MSF)』オフィスに戻っている。遅い昼食を港のケバブ屋でとり、コーラを飲んで喉はうるおっている。

 ただ、実際の俺は相変わらずカタール航空ドーハ発羽田行きQR812で東京に向かっている。機体はすでにインド上空やタイ付近を過ぎ、日本海に入ってきているところだ。そしてじっと隣に座っていた中東、もしくは西アジア出身らしき体の大きな青年は、いまや半透明の存在になりつつある。

 飛行機の中でメモ帳を開き、ギリシャで見てきたことを思い出すにつれ、彼は空気のように軽くなってゆき、向こう側まで透け、実体を失っていくのだ。俺はその奇妙な事実にとまどいながら、しかし一方では直感的に受け入れているのでもある。

 思い出すほど事実は遠のく。俺は帰国してから書き残したいことをメモ帳から選んでいくのだけれど、選ばれなかったささいな出来事がむしろ重要なのではないかと俺は感じている。けれど何かを削がなければ書くことにはならず、その度に削がれたなんでもない日常、出会った人々のちょっとした癖や空の色、鳩の飛び方などなどは、より強く世界から消されていく。まるで隣の青年のように。

 小説家の俺は彼をこそ消さずに現世に居残らせたいはずであるのに。

 だからといって俺は書くことをやめない。

 思い出すことを。

 消えゆく隣の青年への全面的な罪を背負ってガタガタ揺れながら。

取材へと向かうギリシャの俺

 OCB(MSFのオペレーションセンター・ブリュッセル)の借りた一軒家の2階でアダム・ラッフェルと再び会い、彼が運転するヒュンダイの小型車でカラ・テペへ向かった。

 方角としては東南部から海岸に沿って少し北上する形で、右側に延びる海の透明度は高かった。その日も日差しが強かったから、地元の家族が海水浴をしているのが見えた。そして海のすぐ向こうにトルコがあった。

 難民のボートが今出現してもいいのだ、と俺は思った。実際にそれは日々、次々に現れた。つまり海水浴の家族の目の前に。時には見ている間に沈み、死体となって浮いて打ち寄せる姿もあったろう。見てしまった者の心に、その悲惨な体験はこびりついているに違いなかった。

 数分行くと、車は右折した。

 そこがカラ・テペ難民キャンプだった。

 細い金網で出来たフェンスがいきなり左右にあった。車はその中央に作られた目の粗いアスファルトの坂をあがった。右にある空き地に車を止め、少しだけ緊張しているらしきアダムの後ろをついていった。

 すぐに左奥にコンテナが見えた。外側に色とりどりの魚やサンゴ、タコの絵が描かれていた。前に4つの小さなベンチがあり、一部はオリーブの樹の影の中に入っており、そこに4人の人が座っていた。彼らが順番を待っているのは、コンテナの中にいる現地ギリシャの管理者に話があるからだった。それは俺たちも同じだった。

 近づいていき、なんの気なしにコンテナの絵をスマホで写真に撮ろうとすると、アダムがそれを手で制した。難民の姿を撮影するわけでもないのにと思ったが、アダムは目で「頼む」と言っていた。おそらくコンテナの中の人物の機嫌を損ねるわけにいかなかったのだ。

 先にマリアという熟練の秘書らしき女性が出てきて、アダムにこう言った。

 「お返事遅れてごめんなさい。とても忙しいものだから」

 確かにコンテナの奥からは強いアラブ訛りで口々に何かを訴える者たちの声がしていた。俺たち極東からの取材者に許可を与える暇などないだろうことは推察された。だが、それをおしてアダムは俺たちをカラ・テペ難民キャンプへ導き、取材を実現させようと力を尽くしてくれているのだとわかった。写真撮影はつまり強引な取材の開始になってしまう。そこには微妙な交渉の機微があった。

 スタブロス・ミロギアニスさんという、立派なヒゲの生えたいかにも地方の偉い官吏といった感じの責任者に会えるまで、俺たちはコンテナの外で待った。白い砂利だらけの敷地にはUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のコンテナ、世界の医療団のコンテナもあった。様々な援助団体が乗り入れているのだった。

 しばらく待つと、がたいのいいスタブロスさんが笑顔で出て来て、厚い手のひらでみんなと握手をし、「緊急会議があってすぐに出なければなりませんが、ようこそカラ・テペへ。どうぞ取材をなさって下さい」と大きな声で言った。

 そこでようやく俺たちは正式に受け入れられたのだった。



ついに仮設住宅へ

 いったんコンテナのエリアから坂を下り、フェンスの中を歩いた。右側にRHU(レフュジー・ハウジング・ユニット)、つまりは仮設住宅が並んでいた。もともと全体はゴーカート場だったそうで、左側には名残として子供用サッカー場やすべり台があった。難民の子供たちにはうれしい施設だろう。

 オックスファムという団体の青年男女が各仮設住宅に飲み物を配っているのも見えた。アダムによると、気温が高いため、難民の方々を配給の列に並ばせるわけにいかないからだそうだった。気配りは左奥にある屋台にも見て取れた。そこはごく普通のカフェになっていて、集った子供が冷たいコーヒーをストローから飲んでいるのがわかった。

 どんつきを左に折れると、医療サービスのエリアがあり、MSFのマークの付いたキャンピングカー型の車両が幾つか止まっていた。スタッフたちが立って輪になり、ミーティングをしているらしいタイミングだった。

医療チームのキャンピングカー

 彼らに話しかけて聞いてみると、チームは全部で6人の医療・非医療スタッフと3人の文化的仲介者(カルチュラル・メディエーター)で構成されているそうだった。中にいた医者は中東系の若い女性であり、心理療法士の女性は唇にピアスをしていた。とても自由な気がした。

 まず医療用の車の中を見せてもらった。救急車の2倍以上の広さはあったろうか。前の活動責任者がアレンジしたもので、ベッドがふたつ入ることもあるそうだった。元来は沿岸に出動して、着いた難民をすぐに診療出来るようになっていた。あちらに点滴、こちらに包帯、様々な薬もコンパクトに収納されていた。

 車の外に出ると、例のピアスの女性が待っていてくれた。今度は心理ケア用の車の中を取材させてくれるとのことだった。ありがたくついていって車の中に乗り込んだ。小さなベンチシートみたいなものがあって、目の前にテーブルがしつらえられていた。いわゆるキャビン仕様で、彼らはそこで難民たちの心の苦しみに耳を傾けるのだった。

心理ケアのタフで明るいスタッフ

 カラ・テペがまだ一時滞在の場所だった頃は、救助した人々にグループ・セッションを行っていた。しかし、彼らがヨーロッパを北上出来なくなり、そこが現在のような難民キャンプになってからは個別の心理ケアが中心になっているらしかった。子供がストレスで不眠になったり、家族の中でのいさかいが絶えなくなっていたり、自分たちがどこに安らぎの場所を求めればいいかわからなくなっている状況のままに、全体の不安は募っていた。

 「今は何人くらいが来るんですか?」

 「1日、5、6人になりました。忙しかった時は100人という日もあったんだけど」

 「1日100人!」

 「そう」

 聞けば、彼女はギリシャで心理療法士として働き、学校にカウンセリングに出たりなどしていたそうだった。それがいまやMSFに参加し、自国の中に出来た難民キャンプで働いていた。やっていることは同じであるように見えて、それはずいぶんハードな変化に違いなかった。

 けれど、彼女は車内に貼られた子供の絵、彼女を描いてくれた絵を見て言った。

 「ここで働くのは素晴らしいことよ。もうすぐアテネに戻らなきゃならないんだけど、すぐまた来たい」

 生き甲斐、という言葉をしばらく忘れていたなと俺は思った。

この絵に彼らはどれだけ励まされていることだろう



難民となったジャマールさんに話を聞く

 アダムに連れられてとうとう仮設住宅エリアに足を踏み入れた。日本で見知っている仮設より頑丈なタイプのものが整然と並んでいた。しかし、実に小さな窓しかなく、電気もないという住宅は夏ともなれば暑くて中にはいられず、人々はたいていマットやクッションを外に置き、その上でくつろいでいた。

 文化的仲介者のイハブ・アバシというお洒落なアラブ人がいつの間にかそばにいて、通訳をかって出てくれた。彼とアダムは少し小声で話し合い、誰にインタビューすべきかを決めた。

 近くの仮設住宅に近づくのでついていくと、間に出来た狭い通路の上に日差しをやわらげる布が張ってあって、少し過ごしやすくなっていた。角の仮設の前に置いたウレタンマットの上に、中東系の長衣を着た男性がいた。イハブが話しかけると、男性は立って挨拶しようとした。非常に礼儀正しい人だった。

 けれど、足もとがぐらついていた。アダムと俺は彼の肘を持ち、どうか座ってくれと言った。しかしおじさんは首を横に振った。「じゃ僕がこうして......」とマットの上に座ったのを見て、彼も腰をおろすことにしてくれた。アダムとイハブ、そして谷口さんもその場で膝を折った。

 おじさんはジャマール・サラメという名前でパレスティナ人だった。母国を出たジャマールさんは、レバノン、シリア、トルコまで移動してきたのだと言った。途中で4日間を砂漠で過ごしもした。そして最終的にその年の3月24日、ゴムボートに乗ってギリシャにたどり着いた。共に国を出た家族は、今も移動途中のシリアで動けずにいるとのことだった。

 現在、ジャマールさんは腰の痛みと呼吸困難に苦しめられていた。3日間の入院も経ていた。モリヤの難民登録センターにいたが、カラ・テペ難民キャンプに移って体を診てもらうようになり、本当に助かったとジャマルさんは言った。

 70代だろうと思ってくわしい年齢を聞いた。

 ジャマールさんは答えた。

 「49歳です」

 驚いて返す言葉がなかった。

 彼は俺よりずっと年下なのだった。

 なのに彼は足腰を弱くし、気管を傷め、皺だらけになっていた。それほど暮らしが、そして難民としての旅、生活がつらかったのだった。

 同じマットの上では他にも隣に住んでいる、西アジアの人らしき小太りのおじさんが豆スープとパンを食べていた。反対側の仮設住宅の前には幼い中東系の女の子たちが遊んでいた。さらにその向こうのオリーブの太い樹にアフリカ人女性が背をつけて座り、携帯電話でしゃべっていた。

 あらゆる地域から難民は来ていた。

 そしてかつてと異なり、母国や旅の途中で残してきた人たちと日々、援助団体から支給された携帯電話を使ってスカイプで話し、画像を送りあっていた。けれどその便利さは逆に新しい切なさを生んでいるのではないか、と思った。彼らは家族を一時も忘れることが出来ない。急かれるような思いだろう。

 「今の望みはなんでしょうか?」

 気づくと谷口さんがジャマールさんに質問をしていた。ジャマールさんはすぐに答えた。

 「未来が見えないんです。私はこんな状態を早くやめて子供に会いたい」

 うなずくことしか出来ない俺たちに、ジャマールさんは続けて何か言った。

 けれど翻訳をしてくれるはずのイハブは、黙ってジャマルの頭を胸に抱きしめてそこをなで、キスをするばかりだった。

しばらくそうしてから、イハブは遠くを見やりながら口を開いた。

 「彼はこう言いました」

 イハブはひとつ間を置いて言った。

 「私が死ぬ前に問題が解決してくれればいいんですが、と」

 俺もジャマールさんを抱きしめたいと思った。

 背中を何度でもさすりたかった。

 年下の友人がなぜそんな目にあっているのか、俺にはまったく意味がわからなかった。

 そして、俺たちがそうしている間にも、国を出ざるを得なくなった難民たちはまだまだこうして、危険な船旅(MSF制作のこの動画を見て欲しい)に巻き込まれていた。


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(つづく)

いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

いとうせいこう

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