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我慢は限界、シンガポール「親中外交」の終焉

ニューズウィーク日本版 2017年2月3日 11時22分

<香港での装甲車押収事件で露呈した中国とシンガポールの対立。中台双方と建国以来の親交を重ねてきた華僑国家でさえ、習政権の覇権主義に堪忍袋の緒が切れた> (写真は香港で押収されたシンガポール軍の装甲車、2016年11月24日撮影)

昨年11月下旬、シンガポール軍が台湾で軍事演習を終えた後、民間輸送船で返送中の軍用車両9台を帰路の香港で税関当局に押収されてから2カ月。「武器密輸の疑い」のためとしていたが先週、香港当局から返還するとの連絡を受けたとシンガポール外務省が発表した。他国軍の装甲車押収という異例の事態に対立を深めたシンガポールと中国の姿は、両国の関係悪化を印象付けた。

歴史的背景を振り返ろう。もともと、シンガポールと中国は緊密な関係にあった。両国が国交を樹立したのは90年と遅かったものの、国民の約4分の3を中国系(華人)が占めるこの国の指導者層は、独自の地政学的立場を意識して国家を運営してきた。華人は東アジアと中東を結ぶシーレーンを押さえるマラッカ海峡の利点に注目。独自の生存戦略を立て、東南アジア屈指の独裁型開発国家を建設した。

「建国の父」リー・クアンユーは毛沢東から鄧小平に至るまで、自身と同じく独裁的な中国共産党指導者らと公私共に親しく付き合ってきた。89年6月に天安門事件が勃発した後も、リーは鄧の強権的な手法を擁護して西側陣営内で物議を醸した。

その一方で、リーは台湾の蒋経国、李登輝の各総統とも親交を重ねた。蒋と鄧の間を仲介し、中国人同士は戦わないとの約束を双方から取り付けたほどだ。リーら華人は祖先のルーツが中国大陸にあるとの信念を持っており、その対中外交も「近しい親戚同士の付き合い」の域を超えなかった。

鄧の死後、シンガポールはその功績をたたえる記念碑を建立。属国のような振る舞いは中国を喜ばせた。記念碑の除幕式が11年11月に行われた際、中国を代表して参列したのは習近平(シー・チンピン)国家副主席(当時)だった。

リーは15年3月に他界。後継者の座に就いた息子リー・シェンロンも、中台間の政治的な仲介に力を入れた。同年11月、当時の馬英九(マー・インチウ)総統と習国家主席の両首脳が国共内戦後に初めて手を握り合った舞台もシンガポールだった。「東南アジア随一の親中国」と揶揄されるなか、習は国立シンガポール大学で講演を披露し、例によって日本のアジア侵略を声高に批判した。

【参考記事】変化の風に揺れる強権国家シンガポール

だが習政権が覇権主義を強めるにつれて、シンガポールの態度も次第に変化してきた。スプラトリー(南沙)諸島など南シナ海のほとんどの領有権を強硬に主張する中国の尊大な態度に、シンガポールは初めからついていけなかった。ここに至って堪忍袋の緒もついに切れた感じだ。



今回の香港での軍用車両押収に対しても、シンガポールは強く反発した。それに対して、中国外務省は「『一つの中国』原則を固く守るよう求める」と、強気の姿勢を崩さない。

狭い国内に演習場を確保できないシンガポールは70年代から台湾で軍事訓練を展開してきた。これもリー・クアンユーと蒋経国が交わした約束の1つだ。シンガポール軍には中国を意識した作戦計画も、台湾にくみする戦略もない。演習で装甲車が使われたのも初めてではない。

「建国の父」の娘も批判

以前は中国も演習に理解を示し、「海南島を演習場として提供してもいいし、人民解放軍との合同演習も歓迎する」と、エールを送っていたほどだ。

だが昨年、習の盟友だった馬は総統の座から降り、蔡英文(ツァイ・インウェン)総統は「一つの中国」原則の受け入れを拒否している。台湾に対する習の敵意は、台湾との友好関係を重視するシンガポールにも向かっている。

1月初め、リー・クアンユーの娘リー・ウェイリンは「習の反腐敗闘争は政治的な報復にすぎない」と、公然と北京の最高指導者を批判。祖国の軍用車両が「抑留」されたことへのいら立ちだろうが、改めて両国の対立の根深さが露呈した。

差し押さえは中国の独善的な海洋進出に他国が批判的な態度を取ったことへの報復でしかない。華僑国家シンガポールの人心さえ得られない中国に国際社会で友人はいない。

【参考記事】何もなかった建設予定地、中国-ラオス鉄道が描く不透明な未来

楊海英(YANG HAIYING)
静岡大学教授。モンゴル名オーノス・チョクト(日本名は大野旭)。南モンゴル(中国内モンゴル自治区)出身。編著に『フロンティアと国際社会の中国文化大革命』等


楊海英(本誌コラムニスト)

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