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ロシアとトルコの主導で、シリアは和平に向かうのか?(前編)

ニューズウィーク日本版 2017年2月6日 17時30分

<アメリカのクルド勢力まかせの介入が、シリア情勢をさらなる混乱に陥れた。ロシアとトルコが鍵を握る和平の今後を、中東専門家の内藤正典氏が考察する。その前編>(写真:アレッポの街はアサド政府軍とロシア軍の空爆で破壊し尽くされた)

アメリカは主役ではない和平会議

先月23日、カザフスタンの首都アスタナで、シリア戦争の和平会議が開催された。会議を主導したのは、昨年末に包括的な停戦合意を実現したロシアとトルコである。ロシアはシリアのアサド政権側、トルコは自由シリア軍といくつかのジハード組織から成る反政府勢力側の代理人となっているが、実際には、当事者ではなく、この二国が和平の鍵をにぎっている。

ここでまず、アメリカが和平の主役として登場していないことに注目する必要がある。シリア戦争が内戦と呼ばれていたころから、アメリカとロシアの代理戦争がシリアで展開されているという見方があった。だが、アメリカは2011年に始まる紛争から内戦、そして事実上の戦争に発展していく中で一度も積極的な軍事介入をしていない。アメリカが介入の主役となったのは、2014年に「イスラム国」がシリア東部から北部を支配していったことに対して、これをアメリカのみならず世界の脅威として有志連合軍を率いて戦闘を行った局面に限られる。そもそも、アメリカはシリアを巡って代理戦争などするつもりはなかった。

その根拠の一つは、イスラエルがシリアをどう見ていたかにある。イスラエルは現在のバッシャール・アサド政権より前の父ハーフィズ・アサドの代から、アサド政権の存続を望んでいる。口を開けばイスラエル打倒、シオニズム反対を叫んできたシリアだが、決してイスラエルを攻撃することはなかった。1973年、最後の第四次中東戦争でアラブ側(シリアも含まれる)とイスラエルが直接交戦して以来、アラブの連帯、アラブのナショナリズムなどというものは影を潜めていく。エジプトはパレスチナ問題でパレスチナを裏切ってイスラエルと単独和平を結んだ。そのころソ連の軍事援助を受けていたシリアは、口先でイスラエルを非難するものの、イスラエルと戦火を交えれば即座に国を破壊されることを熟知していた。背後にいるソ連も、もちろんイスラエルとの交戦には否定的だった。こうしてシリアはイスラエルからは最も信頼できる「敵国」となったのである。

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今回のシリア戦争で、アサド政権に対抗する反政府組織にアメリカは武器供与の形で貢献したものの、戦闘の前面に出ることを避け続けた。イスラエルにとっては、反政府側の無数のスンナ派ジハード組織が力を付けていくことなど悪夢以外の何物でもなかった。アサド政権側もシーア派のイスラム組織であるヒズブッラーの支援を受けている。イスラエルにとってヒズブッラーは共存を拒否する敵であるから、アサド政権側にヒズブッラーの陰がちらついていくと即座に攻撃している。イスラエルにとって、スンナ派であれシーア派であれイスラム主義を前面に掲げている組織が隣国シリアに台頭することを決して認めない。アサド政権は世俗的な政権であるがゆえに、イスラエルにとって好ましいのである。

したがって、アメリカがイスラエルの期待に反して反政府側のジハード組織を支援し、アサド政権打倒に動くことなどあり得なかった。アメリカが武力行使に出る気配を見せたのは2013年の8月、アサド政権軍による化学兵器の使用で反政府側に1300人近い犠牲者を出したときだった。人道主義を重視したオバマ政権は、アサド政権の人道の罪に対して軍事介入も辞さずという姿勢を示した。その前からアサド政権が化学兵器を保有していたことをつかんでいたアメリカは、化学兵器の使用が最後の「一線」であることを通告していた。実際、オバマ政権はあと一歩で攻撃というところまでいったが、英国議会がアサド政権攻撃への協力を否決したため実現しなかった。英国にとっては、イラク戦争の轍を踏みたくないという消極論が強かったのである。

だが、ここでロシアが動き始める。ラヴロフ外相はシリアのムアッリム外相から化学兵器全廃の約束をとりつけ、それをもってアメリカ政府を説得した。全廃というのだから、少なくとも「保有していた」ことが前提となる。その年のノーベル平和賞に化学兵器禁止機関OPCWが選ばれたことを覚えている読者も多いだろう。この国際機関がアサド政権側の化学兵器を無力化したことの功績であった。



ロシアとシリア、どちらか主人だったか?

ロシアとシリアの協力関係は、ロシアにとってはソ連時代、シリアにとっては現大統領の父、ハーフィズ・アサド大統領の時代にさかのぼる。ハーフィズは軍内部で実権を掌握し1971年に大統領となった。冷戦の時代から、ソ連はシリア国内に基地をもっていた。地中海岸のタルトゥースが有名だが、現在はアサド政権の基盤であるラタキアにもある。1980年代、シリア軍は対イスラエル防衛のためにミサイル基地をいくつも持っていたが、いうまでもなく、そこに配備されていたのはソ連製のミサイルであり、同時に、ソ連の軍事顧問団を置いていた。冷戦構造という図式的な理解をするなら、シリアがソ連の陣営にあり、イスラエルがアメリカの陣営にあって互いににらみ合うという構図になる。

しかし、シリアに関していえば、アサド政権がソ連を利用していた。ソ連軍を人質にとっていたと言ってもよい。ソ連軍の基地やミサイルを配備している限り、イスラエルは攻撃できなかったからである。シリア国内の軍事拠点は、中東におけるソ連のプレゼンスにとって不可欠だったが、ソ連崩壊後のロシアにとって、その意味は格段に重要となった。自らパトロンとなる社会主義国を失ったロシアには、シリアを除くと地中海からアフリカにかけての地域で軍事的プレゼンスを示す基地がない。シリアを失うと、最も近い黒海の艦隊はNATO加盟国であるトルコのイスタンブールにある狭いボスポラス海峡を通過しなくては地中海に出られない。

ソ連が崩壊し、冷戦が終焉を迎えた時にシリアが取った行動は、この国の体制がいかに実利を重視するものだったかをよく表している。1990年、サッダーム・フセインのイラクは突如クウェートを侵略し、翌年には米国を主導とする多国籍軍によるイラク攻撃、湾岸戦争が勃発した。この時、シリアは混乱の中にあったソ連(ロシア)を見限ったかのように多国籍軍に参加している。シリアとイラクは80年代以来、同じバース党政権でありながら対立関係にあったから筋は通っているのだが、あの戦争がアメリカ主導で行われたことは中東でも広く知られていたから見事に転身を図ったと言えるだろう。つまり、アサド政権のシリアは大義やイデオロギーではなく、実利をもとに動くと解釈すればいいのである。政権の正統性を批判しない限り、国民の経済活動に自由は保証されていた。スマートな独裁政権としての性格は、基本的に次男のバッシャールが政権を継いだ後も変わらなかった。

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しかし、政権を批判する者には容赦しなかった。今回、「アラブの春」と呼ばれた一連の民主化運動がシリアに波及するとは私は思っていなかった。それはシリア国民のあいだに、1982年2月にハマで起きた虐殺の記憶が残っていたからである。スンナ派イスラム主義のムスリム同胞団によるテロは1980年代初頭に頻発していた。政権側は猛反撃に出て、ついに保守的なスンナ派が多いハマを同胞団の拠点都市として包囲し激しい攻撃を加えた。人権団体が伝える犠牲者の数には数千人から数万人まで相当の幅があるが、今回のアレッポと同様、都市を徹底的に破壊する攻撃が加えられた。ひとたび反旗を翻せば、どれだけ悲惨な事態を招くか、四十代以上のシリア人は記憶していた。だが、若者たちはその記憶よりも、一連の民主化運動に突き動かされた。その結果が現在の惨状である。恐怖の統治は、バッシャール・アサド政権下で影を潜めていたかにみえたのだが、政権への反逆者に対するシステマティックな弾圧の方法と機関は健在だった。

シリアで多数を占めるのはスンナ派ムスリムである。アサド家の信仰はアラウィ派という少数宗派だが、政権は世俗的でイスラム主義を拒否していた。犠牲者の多くがスンナ派だったため、チェチェン、アフガニスタン、イラク、エジプトなどから、ありとあらゆるスンナ派ジハード組織が死に場所を求めて入り乱れて乱入した。彼らの通行を黙認したのはトルコである。反政府勢力側には、トルコ、カタール、サウジアラビア、アメリカなどが武器や資金面で支援をしていた。2015年後半あたりから、ロシア・イランはアサド政権側への軍事支援を強化したから、ここ2年の間は、内戦というよりも戦争というべき事態に陥った。アサド政権は、一貫してこの反政府勢力の攻撃を「テロ」と断じているから、いかに残虐な手段で自国民を殺害しても、それはテロとの戦いにつきものの「やむを得ざる犠牲」にすぎないとの立場をとり続けた。

<後編に続く>

≪執筆者≫
内藤正典(同志社大学大学院教授)
1956年東京都生まれ。東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科卒業。社会学博士。専門は多文化共生論、現代イスラム地域研究。一橋大学教授を経て、現在、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。著書に『イスラム――癒しの知恵』『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』(ともに集英社新書)『ヨーロッパとイスラーム』(岩波新書)『トルコ 中東情勢のカギを握る国』(集英社)など多数。

内藤正典(同志社大学大学院教授)

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