知能を含む人間の能力は、遺伝の大きな影響を受ける......。行動遺伝学のショッキングな研究結果は大きな反響を呼びました。そこで、第一人者である安藤寿康教授に、遺伝にまつわる疑問に答えていただきました。
•安藤寿康著『日本人の9割が知らない遺伝の真実』(SB新書)
誤解されやすい「遺伝」という言葉
――1月に掲載された「「知能が遺伝する」という事実に、私たちはどう向き合うべきか?」という記事には大きな反響がありました。ただ、Twitterやはてなブックマークなどを見ると、親の能力がそのまま子どもに受け継がれると思っている人も多いようです。
安藤:「子どもたち、すまん」と謝っている方もいらっしゃいますね。そういう話じゃないと言っているんですけど(笑)。
――「遺伝」という言葉には「遺し伝える」、親から子どもに伝わるというイメージが強くありますからね。
安藤:遺伝子は英語で"gene"と言いますが、これは"generate"(生み出す)や"generation"(世代)と同じ語源で、新しく生成されていくことに重きを置いた言葉なんです。
ちなみに、中国語で「遺伝」に当たる言葉は、遺伝子の"gene"を音訳した「基因」だそうですよ。ただ、中国人の研究者に尋ねたところ、中国語の「基因」も親から受け継ぐものと受け止められることが多いそうですが。
中学校や高校の生物で「メンデルの法則」を習ったと思いますが、単純な形質(遺伝的な性質)でも親と同じにはなりません。たくさんの遺伝子が関わる形質に関して、子どもの表現型(外見に現れた性質)はもっとばらけますから親と同じようになるわけではない、というより、ならないことの方が多いと受け止めた方がいいでしょう。
――コメントで多かったのが、遺伝の影響という概念がわかりにくいということでした。例えば、肥満に関して遺伝率は88%、知能に関しては50%強ということですが、この数字はどう考えたらよいのでしょう?
安藤:遺伝率は、定義としては「表現型の全分散(ばらつき)に占める遺伝分散(遺伝で説明できるばらつき)の割合」ということなんですが、直感的には、「ある集団の中で相対的に、ある性質が後天的にどのくらい変わりやすい」かを表していると考えてください。つまり、遺伝率が50%の形質より、遺伝率80%の形質の方が、ある特定の社会の中で、環境によって相対的順位を変えにくいということを表しています。
例えば、肥満傾向の強い遺伝子セットを持って生まれた人が痩せようと思ったら、そうでない人に比べて相当頑張らないといけないということです。
誤解されがちなんですが、持って生まれた性質は絶対に変わらないということではありません。あくまでも今のある社会における相対的な位置が、その社会で取りうる環境資源のバリエーションのもとで、どの程度変わりやすいかということ。
仮に身長の遺伝率が100%だとしても、社会全体が飢餓状態から飽食の時代に変わるなど、集団が全体として変われば、身長は伸びます。だけど今のその集団の中にある栄養の取り方のちがいやダイエット法の選び方くらいでは身長の順位は変わらない。一卵性双生児はそれぞれ同じ順位のまま、身長が高くなるという意味なんです。
子どもは、どの程度親に似るのか?
――ただ、子どもがどういう遺伝子セットを持って生まれるかということに関して、親の遺伝子セットの影響もあるわけですよね?
安藤:はい、先ほど述べた遺伝率は、同世代の子どもにおいてどの程度遺伝子セットのバリエーションが現れてくるかを示しています。
一方、親の世代から子どもの世代へどうやって遺伝子セットが伝達されるかという話もあります。IQの場合、子どものIQは両親の中間値より平均寄りの値を取る確率が高くなります。例えば、両親ともにIQが120同士だった場合、その子どものIQは120ではなく、もうちょっと低くなる確率が高くなるわけです。同様に、両親のIQが80だったなら子どものIQはそれよりもよくなる確率が高くなり、こうした現象を「平均への回帰」と言います。
遺伝率の高い形質ほど子ども世代の分散は小さくなる、つまり親に似る可能性は高くなるとは言えます。ただ、これはあくまで確率の話ですし、そこに環境の影響も加わってきますから、子どもが実際にどんな形質になるのか事前に予測できるわけではありません。親に才能があるからといって子どもに才能があるとは限りませんし、親に才能がないからといって子どもに才能がないとは限らないんです。
――一口に人間の形質といっても、いろいろありますよね。知能や運動能力もあれば、性格もありますし、顔の美醜だってそうでしょう。どれも同じように親から子どもに伝達されるものなのでしょうか?
安藤:遺伝は大まかに、相加的遺伝と非相加的遺伝に分けられます。
相加的遺伝というのは、1つ1つの遺伝子の影響は小さいけれど、それらが累積すると効果が大きくなる、そういう遺伝パターンのことです。一方の非相加的遺伝は、相加的遺伝では説明のできない遺伝パターンを指します。
どんな形質にも相加的遺伝と非相加的遺伝両方の影響がありうるのですが、僕は特に「量」で測られる形質は相加的遺伝の影響を受けていると考えています。身長や体重もそうですし、知識量や体力などの能力も「量」として存在します。
これに対して、非相加的遺伝の影響が強い形質は、「質」的な違いとして現れるものだと思うんですね。「AさんはBさんに比べて語彙が2倍」ということなら量的に測定できるでしょうが、「Aさんの明るさはBさんの2倍」とは、まあ言えないことはないけど、ちょっと違和感を感じますよね。これはもう「質」的な違いです。白砂糖と黒砂糖とどっちが甘い? って、比較できないわけではないけど、舌に乗せたときの触感や風味が違う世界じゃないですか。それが「質」的な違いというもので、人間の性格なんかはそっちの方に入る形質だと思います。そういう形質には、相加的遺伝だけじゃなく非相加的遺伝の影響も表れやすいんです。
顔の美醜もそういうものだと考えられます。両親は2人とも平凡な顔立ちをしているけど、子どもがとてもきれい、あるいはその逆ということはあるじゃないですか。鼻の高さだとか眼の形だとか個々の要素は両親によく似ているんだけど、組み合わせによってその子ども独特の形質が現れてくるわけです。
行動遺伝学では、一卵性双生児と二卵性双生児を比較して遺伝率を調べます。相加的遺伝に関していえば、おおむね二卵性双生児は一卵性双生児の「半分程度似る」わけですが、非相加的遺伝が強い形質ならば「半分ほども似ない」ことになります。
親から子への伝達に関しても、相加的遺伝の強い形質であれば「子どもの形質は、両親の中間値からさらに平均の方向に寄る」可能性が高いわけですが、非相加的な要素が強いほどパターンはもっと複雑になり、子どもの形質が両親とはほとんど無関係になる可能性が高くなります。
大学の無償化に意味はあるか?
――最近、親の収入格差や文化的な違いが子どもの教育機会の不平等をもたらしているという議論が盛んになってきています。「大学の無償化」を主張する人がいる一方で、大学に行くことに価値を見出さない「意欲格差」の問題を指摘する人もいますが、行動遺伝学の立場から教育格差の問題をどう見ますか?
安藤:この問題については、さまざまなパターンがひとくくりにされてこんがらがっているように思います。大学進学をしないのが意欲の格差だというのは、分析として粗い印象を受けますね。
お金がないから意欲も学力もあるけど大学進学を諦めているケース、お金はあっても勉強が嫌いだから大学進学なんかしないケース、お金も大学に行きたい気持ちもあるけど、東大京大か早慶にしか行く価値がないと親から吹き込まれていて、それほどの学力はないから別の道を選ぼうというケース、大学に行くことで得られる将来の収入や安定といったメリットを疑問視しているケースなど、いろいろあるでしょう。たんにやる気がないのではなく、自分の適性を考えて積極的に大学進学以外の選択肢を選んでいる場合もあるわけです。
僕自身、大学人ですから、すべての人に大学レベルの知識に触れる機会を持ってほしいとは思いますよ。だって、いちおう人類知の今の到達点を万人に開いているのが大学のはずだし、やっぱりそれなりにすごいことをやっているのですから。
だけど、そもそも大学なんて、仕事して自分で食べていける年齢になっているにもかかわらず、そんなことより何かを深く知りたくてしょうがないという、かなり変な人のために作られていたわけです。歴史を勉強しているうちに、古墳にのめり込んで、もっともっと古墳のことを知りたくなったとか、細胞の核のなかでうごめいている分子の働きが知りたくなるとか。すべての人が18歳になった段階で、そういう偏った知的好奇心を持つようになるというのは非現実的でしょう。
10人に1人、100人に1人の変な人のために大学はあったわけですが、いつの間にか大衆化し、大企業に入るためのパスポートという位置づけに変化していきました。同じ人が文学部でも経済学部でも総合政策学部でもどこでも受ける。慶應ならどこでもいいからって。いや慶應でも早稲田でもどっちでもいい、MARCHならどこでもいい。大学と名がつくところならどこでもいい......。大学は「テストに合格できる程度の汎用的な能力がある」あるいは「この社会の秩序に逆らう生き方はしない」というシグナリングにすぎなくなり、そこで何を学んだのかは問われていません。
だから、大学に入ってもつまらなくなって勉強しなくなる。そうなって久しいので、こんな「そもそも論」を言っても、もはや時代遅れといわれそうですが、こんなの本人のためにもならなければ、大学のためにもならない。大学に「一般社会人能力を育成しろ」? そんなの無理に決まってるじゃないですか。むしろ「大学を頂点とする今の学校制度の中で自分の人生を設計する」という発想自体が狭すぎるのではないでしょうか。
――だとしたら、大学の無償化は無意味ですか?
安藤:僕は大学に限らず、「すべての教育」は無償でなければいけないと考えています。これは経済的な理由ではなく、生物学的な理由からです。
人間が他の動物とは大きく異なる点の1つとして、他者を教育することが挙げられます。チンパンジーも一見すると子どもを教育しているように見えますが、自分勝手な動作をしているだけであり、他者がその動作を学んだかには関心を持っていません。
では、人間はどうして時間や労力といったコストをかけてまで他者を利する教育を施すのでしょうか?
それは、他者を教えることで、自分自身が生きやすくなる、いや進化的には自分と同じ遺伝子を持つものが生き延びやすくなるというメリットを得られるからです。子どもが食物を効率的に取れるようになったり、自分を生かしてくれる文化が維持され発展して豊かに暮らせるようになったりする。僕はそれが教育の生物学的な発祥だと思っているんですよ。他者に教えるというのは、本来、自分のためであり、「自分たち」のためなんです。それは「そうあるべきである」という意味じゃなく、「事実がそうだ」という意味です。
そう考えると----論理が飛躍するように感じるかもしれませんが----大学だけを無償化することはおかしくて、すべての教育は本来無償であるべきでしょう。
――すべての教育、ですか?
安藤:つまり教育というのは、そもそもプライベートイベントではないということです。公共性がある。というかプライベートとパブリックを橋渡しするプロセスを担うのが教育なんです。「私の才能」は私だけのものではなく、人のために育てるもの、誰かの才能は、その人のためだけじゃなく、私のためにも育ってもらわなければならない。
誰かがこれをやってみたいと感じることで、なおかつ他の人もその人にそれをいっしょに、あるいは私の代わりに、やってもらいたいという何らかの恩恵を得られる知識や技能を学習してもらう場としての教育、ということになるでしょうね。
イメージとしては徒弟制に近いかもしれません。例えば、どこかの工房や厨房がやる気のある新人を雇っても、最初のうちその人は使い物にならないじゃないですか。だけど、半年か3年かはわかりませんが、見習い期間の間も、親方はその人に給料を払ったり食住をあてがったりします。絵を描く仕事なら、最初は筆を洗うといった下働きから始めて、仕事の全体像を実践で学んでもらうわけです。こういう時に、授業料はとらないでしょう? そういうコンセンサスが社会に必要だと思います。
現に、ヨーロッパは大学まで無償であるところが多い。国の教育への投資量と国民の教育負担率はきれいに負の相関があり、所得税率ともきれいに相関します。日本は先進諸国の中で、国や自治体の教育投資は最低、個人の負担率は最高レベルです。自分でお金を出さないと教育を受けられない。でもうちの学生にそのことをデータで示して教えても、それがあたりまえと思う人が多い。「私が高いお金を出して高等教育を買える」ということと、「宝石を買える」ということの区別がなされていない。これはやはり原理的におかしいと思います。慶應の学生がこれでは困るんです。
大学に関しても、自分の研究で食っていける研究者が、才能のある人、やる気のある人の面倒をタダで見てやるのが理想的です。荒唐無稽に聞こえますが、慶應義塾にしても最初はそういうところから始まったと思うんですよ。もっとも、今の日本の大学人は完全なサラリーマン、学生も教室にいるときしか学生じゃない「なんちゃって学生」「パートタイム学生」になってしまっていますが。
今の時点では、非現実的な理想を言っていることは百も承知です。しかしこの「そもそも論」を妥協してぶれてしまったら、どこで「本物」が成り立つのでしょう?
幸いにして、そんな大学でも「ホンモノの学生」との出会いはときどき、僕の場合は何年かに一度、あります。ついでに言えば、「なんちゃって学生」も人間としては魅力的ですし、「なんちゃって」が「ホンモノ」に化けることもまれにあります。だから僕も大学人をやっていける。その機会に出会わせてもらうために、学生から学費をいただき、国(国民の税金)からもお金をいただき、そこから給料を頂戴して「教えさせていただいている」わけです。でも、研究だけで食べていけるなら、そういう学生になら、お金抜きに教えたいと思うでしょう? 実際、科研費(これも税金)でそういう研究者の卵を雇って育てる仕組みはある。本物の大学教育はそこからです。
(その2)に続く。
<プロフィール>
安藤 寿康(あんどう じゅこう)
1958年 東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、同大学大学院社会学研究科博士課程修了。現在、慶應義塾大学文学部教授。教育学博士。専門は行動遺伝学、教育心理学。主に双生児法による研究により、遺伝と環境が認知能力やパーソナリティに及ぼす研究を行っている。著書に『遺伝子の不都合な真実』(ちくま新書)、『遺伝マインド』(有斐閣)、『心はどのように遺伝するか』(講談社ブルーバックス)など。
山路達也
•安藤寿康著『日本人の9割が知らない遺伝の真実』(SB新書)
誤解されやすい「遺伝」という言葉
――1月に掲載された「「知能が遺伝する」という事実に、私たちはどう向き合うべきか?」という記事には大きな反響がありました。ただ、Twitterやはてなブックマークなどを見ると、親の能力がそのまま子どもに受け継がれると思っている人も多いようです。
安藤:「子どもたち、すまん」と謝っている方もいらっしゃいますね。そういう話じゃないと言っているんですけど(笑)。
――「遺伝」という言葉には「遺し伝える」、親から子どもに伝わるというイメージが強くありますからね。
安藤:遺伝子は英語で"gene"と言いますが、これは"generate"(生み出す)や"generation"(世代)と同じ語源で、新しく生成されていくことに重きを置いた言葉なんです。
ちなみに、中国語で「遺伝」に当たる言葉は、遺伝子の"gene"を音訳した「基因」だそうですよ。ただ、中国人の研究者に尋ねたところ、中国語の「基因」も親から受け継ぐものと受け止められることが多いそうですが。
中学校や高校の生物で「メンデルの法則」を習ったと思いますが、単純な形質(遺伝的な性質)でも親と同じにはなりません。たくさんの遺伝子が関わる形質に関して、子どもの表現型(外見に現れた性質)はもっとばらけますから親と同じようになるわけではない、というより、ならないことの方が多いと受け止めた方がいいでしょう。
――コメントで多かったのが、遺伝の影響という概念がわかりにくいということでした。例えば、肥満に関して遺伝率は88%、知能に関しては50%強ということですが、この数字はどう考えたらよいのでしょう?
安藤:遺伝率は、定義としては「表現型の全分散(ばらつき)に占める遺伝分散(遺伝で説明できるばらつき)の割合」ということなんですが、直感的には、「ある集団の中で相対的に、ある性質が後天的にどのくらい変わりやすい」かを表していると考えてください。つまり、遺伝率が50%の形質より、遺伝率80%の形質の方が、ある特定の社会の中で、環境によって相対的順位を変えにくいということを表しています。
例えば、肥満傾向の強い遺伝子セットを持って生まれた人が痩せようと思ったら、そうでない人に比べて相当頑張らないといけないということです。
誤解されがちなんですが、持って生まれた性質は絶対に変わらないということではありません。あくまでも今のある社会における相対的な位置が、その社会で取りうる環境資源のバリエーションのもとで、どの程度変わりやすいかということ。
仮に身長の遺伝率が100%だとしても、社会全体が飢餓状態から飽食の時代に変わるなど、集団が全体として変われば、身長は伸びます。だけど今のその集団の中にある栄養の取り方のちがいやダイエット法の選び方くらいでは身長の順位は変わらない。一卵性双生児はそれぞれ同じ順位のまま、身長が高くなるという意味なんです。
子どもは、どの程度親に似るのか?
――ただ、子どもがどういう遺伝子セットを持って生まれるかということに関して、親の遺伝子セットの影響もあるわけですよね?
安藤:はい、先ほど述べた遺伝率は、同世代の子どもにおいてどの程度遺伝子セットのバリエーションが現れてくるかを示しています。
一方、親の世代から子どもの世代へどうやって遺伝子セットが伝達されるかという話もあります。IQの場合、子どものIQは両親の中間値より平均寄りの値を取る確率が高くなります。例えば、両親ともにIQが120同士だった場合、その子どものIQは120ではなく、もうちょっと低くなる確率が高くなるわけです。同様に、両親のIQが80だったなら子どものIQはそれよりもよくなる確率が高くなり、こうした現象を「平均への回帰」と言います。
遺伝率の高い形質ほど子ども世代の分散は小さくなる、つまり親に似る可能性は高くなるとは言えます。ただ、これはあくまで確率の話ですし、そこに環境の影響も加わってきますから、子どもが実際にどんな形質になるのか事前に予測できるわけではありません。親に才能があるからといって子どもに才能があるとは限りませんし、親に才能がないからといって子どもに才能がないとは限らないんです。
――一口に人間の形質といっても、いろいろありますよね。知能や運動能力もあれば、性格もありますし、顔の美醜だってそうでしょう。どれも同じように親から子どもに伝達されるものなのでしょうか?
安藤:遺伝は大まかに、相加的遺伝と非相加的遺伝に分けられます。
相加的遺伝というのは、1つ1つの遺伝子の影響は小さいけれど、それらが累積すると効果が大きくなる、そういう遺伝パターンのことです。一方の非相加的遺伝は、相加的遺伝では説明のできない遺伝パターンを指します。
どんな形質にも相加的遺伝と非相加的遺伝両方の影響がありうるのですが、僕は特に「量」で測られる形質は相加的遺伝の影響を受けていると考えています。身長や体重もそうですし、知識量や体力などの能力も「量」として存在します。
これに対して、非相加的遺伝の影響が強い形質は、「質」的な違いとして現れるものだと思うんですね。「AさんはBさんに比べて語彙が2倍」ということなら量的に測定できるでしょうが、「Aさんの明るさはBさんの2倍」とは、まあ言えないことはないけど、ちょっと違和感を感じますよね。これはもう「質」的な違いです。白砂糖と黒砂糖とどっちが甘い? って、比較できないわけではないけど、舌に乗せたときの触感や風味が違う世界じゃないですか。それが「質」的な違いというもので、人間の性格なんかはそっちの方に入る形質だと思います。そういう形質には、相加的遺伝だけじゃなく非相加的遺伝の影響も表れやすいんです。
顔の美醜もそういうものだと考えられます。両親は2人とも平凡な顔立ちをしているけど、子どもがとてもきれい、あるいはその逆ということはあるじゃないですか。鼻の高さだとか眼の形だとか個々の要素は両親によく似ているんだけど、組み合わせによってその子ども独特の形質が現れてくるわけです。
行動遺伝学では、一卵性双生児と二卵性双生児を比較して遺伝率を調べます。相加的遺伝に関していえば、おおむね二卵性双生児は一卵性双生児の「半分程度似る」わけですが、非相加的遺伝が強い形質ならば「半分ほども似ない」ことになります。
親から子への伝達に関しても、相加的遺伝の強い形質であれば「子どもの形質は、両親の中間値からさらに平均の方向に寄る」可能性が高いわけですが、非相加的な要素が強いほどパターンはもっと複雑になり、子どもの形質が両親とはほとんど無関係になる可能性が高くなります。
大学の無償化に意味はあるか?
――最近、親の収入格差や文化的な違いが子どもの教育機会の不平等をもたらしているという議論が盛んになってきています。「大学の無償化」を主張する人がいる一方で、大学に行くことに価値を見出さない「意欲格差」の問題を指摘する人もいますが、行動遺伝学の立場から教育格差の問題をどう見ますか?
安藤:この問題については、さまざまなパターンがひとくくりにされてこんがらがっているように思います。大学進学をしないのが意欲の格差だというのは、分析として粗い印象を受けますね。
お金がないから意欲も学力もあるけど大学進学を諦めているケース、お金はあっても勉強が嫌いだから大学進学なんかしないケース、お金も大学に行きたい気持ちもあるけど、東大京大か早慶にしか行く価値がないと親から吹き込まれていて、それほどの学力はないから別の道を選ぼうというケース、大学に行くことで得られる将来の収入や安定といったメリットを疑問視しているケースなど、いろいろあるでしょう。たんにやる気がないのではなく、自分の適性を考えて積極的に大学進学以外の選択肢を選んでいる場合もあるわけです。
僕自身、大学人ですから、すべての人に大学レベルの知識に触れる機会を持ってほしいとは思いますよ。だって、いちおう人類知の今の到達点を万人に開いているのが大学のはずだし、やっぱりそれなりにすごいことをやっているのですから。
だけど、そもそも大学なんて、仕事して自分で食べていける年齢になっているにもかかわらず、そんなことより何かを深く知りたくてしょうがないという、かなり変な人のために作られていたわけです。歴史を勉強しているうちに、古墳にのめり込んで、もっともっと古墳のことを知りたくなったとか、細胞の核のなかでうごめいている分子の働きが知りたくなるとか。すべての人が18歳になった段階で、そういう偏った知的好奇心を持つようになるというのは非現実的でしょう。
10人に1人、100人に1人の変な人のために大学はあったわけですが、いつの間にか大衆化し、大企業に入るためのパスポートという位置づけに変化していきました。同じ人が文学部でも経済学部でも総合政策学部でもどこでも受ける。慶應ならどこでもいいからって。いや慶應でも早稲田でもどっちでもいい、MARCHならどこでもいい。大学と名がつくところならどこでもいい......。大学は「テストに合格できる程度の汎用的な能力がある」あるいは「この社会の秩序に逆らう生き方はしない」というシグナリングにすぎなくなり、そこで何を学んだのかは問われていません。
だから、大学に入ってもつまらなくなって勉強しなくなる。そうなって久しいので、こんな「そもそも論」を言っても、もはや時代遅れといわれそうですが、こんなの本人のためにもならなければ、大学のためにもならない。大学に「一般社会人能力を育成しろ」? そんなの無理に決まってるじゃないですか。むしろ「大学を頂点とする今の学校制度の中で自分の人生を設計する」という発想自体が狭すぎるのではないでしょうか。
――だとしたら、大学の無償化は無意味ですか?
安藤:僕は大学に限らず、「すべての教育」は無償でなければいけないと考えています。これは経済的な理由ではなく、生物学的な理由からです。
人間が他の動物とは大きく異なる点の1つとして、他者を教育することが挙げられます。チンパンジーも一見すると子どもを教育しているように見えますが、自分勝手な動作をしているだけであり、他者がその動作を学んだかには関心を持っていません。
では、人間はどうして時間や労力といったコストをかけてまで他者を利する教育を施すのでしょうか?
それは、他者を教えることで、自分自身が生きやすくなる、いや進化的には自分と同じ遺伝子を持つものが生き延びやすくなるというメリットを得られるからです。子どもが食物を効率的に取れるようになったり、自分を生かしてくれる文化が維持され発展して豊かに暮らせるようになったりする。僕はそれが教育の生物学的な発祥だと思っているんですよ。他者に教えるというのは、本来、自分のためであり、「自分たち」のためなんです。それは「そうあるべきである」という意味じゃなく、「事実がそうだ」という意味です。
そう考えると----論理が飛躍するように感じるかもしれませんが----大学だけを無償化することはおかしくて、すべての教育は本来無償であるべきでしょう。
――すべての教育、ですか?
安藤:つまり教育というのは、そもそもプライベートイベントではないということです。公共性がある。というかプライベートとパブリックを橋渡しするプロセスを担うのが教育なんです。「私の才能」は私だけのものではなく、人のために育てるもの、誰かの才能は、その人のためだけじゃなく、私のためにも育ってもらわなければならない。
誰かがこれをやってみたいと感じることで、なおかつ他の人もその人にそれをいっしょに、あるいは私の代わりに、やってもらいたいという何らかの恩恵を得られる知識や技能を学習してもらう場としての教育、ということになるでしょうね。
イメージとしては徒弟制に近いかもしれません。例えば、どこかの工房や厨房がやる気のある新人を雇っても、最初のうちその人は使い物にならないじゃないですか。だけど、半年か3年かはわかりませんが、見習い期間の間も、親方はその人に給料を払ったり食住をあてがったりします。絵を描く仕事なら、最初は筆を洗うといった下働きから始めて、仕事の全体像を実践で学んでもらうわけです。こういう時に、授業料はとらないでしょう? そういうコンセンサスが社会に必要だと思います。
現に、ヨーロッパは大学まで無償であるところが多い。国の教育への投資量と国民の教育負担率はきれいに負の相関があり、所得税率ともきれいに相関します。日本は先進諸国の中で、国や自治体の教育投資は最低、個人の負担率は最高レベルです。自分でお金を出さないと教育を受けられない。でもうちの学生にそのことをデータで示して教えても、それがあたりまえと思う人が多い。「私が高いお金を出して高等教育を買える」ということと、「宝石を買える」ということの区別がなされていない。これはやはり原理的におかしいと思います。慶應の学生がこれでは困るんです。
大学に関しても、自分の研究で食っていける研究者が、才能のある人、やる気のある人の面倒をタダで見てやるのが理想的です。荒唐無稽に聞こえますが、慶應義塾にしても最初はそういうところから始まったと思うんですよ。もっとも、今の日本の大学人は完全なサラリーマン、学生も教室にいるときしか学生じゃない「なんちゃって学生」「パートタイム学生」になってしまっていますが。
今の時点では、非現実的な理想を言っていることは百も承知です。しかしこの「そもそも論」を妥協してぶれてしまったら、どこで「本物」が成り立つのでしょう?
幸いにして、そんな大学でも「ホンモノの学生」との出会いはときどき、僕の場合は何年かに一度、あります。ついでに言えば、「なんちゃって学生」も人間としては魅力的ですし、「なんちゃって」が「ホンモノ」に化けることもまれにあります。だから僕も大学人をやっていける。その機会に出会わせてもらうために、学生から学費をいただき、国(国民の税金)からもお金をいただき、そこから給料を頂戴して「教えさせていただいている」わけです。でも、研究だけで食べていけるなら、そういう学生になら、お金抜きに教えたいと思うでしょう? 実際、科研費(これも税金)でそういう研究者の卵を雇って育てる仕組みはある。本物の大学教育はそこからです。
(その2)に続く。
<プロフィール>
安藤 寿康(あんどう じゅこう)
1958年 東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、同大学大学院社会学研究科博士課程修了。現在、慶應義塾大学文学部教授。教育学博士。専門は行動遺伝学、教育心理学。主に双生児法による研究により、遺伝と環境が認知能力やパーソナリティに及ぼす研究を行っている。著書に『遺伝子の不都合な真実』(ちくま新書)、『遺伝マインド』(有斐閣)、『心はどのように遺伝するか』(講談社ブルーバックス)など。
山路達也