<入学枠削減で名門大学はますます狭き門に。教育面で優遇されている富裕層への怒りはピークに>
中国・江蘇省の省都・南京にある田家炳(ティエンチアビン)高校。肌寒い1月の夕方、太陽が地平線に沈む頃になると、生徒たちが教室から疲れた姿で出てくる。「高考」と呼ばれる大学入学共通試験を5カ月後に控えたある女子生徒は、校門のそばで母親から激励の言葉と、プラスチック容器に入った夕食用の弁当を受け取った。
中国の高校生は大変だ。それは親たちも分かっている。
だからこそ昨年5月、田家炳やその他の高校に通う子供を持つ多くの親たちは抗議行動に訴えた。中央政府が裕福な沿海部の江蘇省にある一流大学(「国家重点大学」と呼ぶ)の入学枠のうち3万8000人分を、貧しい内陸部10省の生徒に割り当てると発表したためだ。その分、地元の生徒の枠は減らされる。
発表の翌日、1000人以上の親が南京市の省政府庁舎の教育部周辺に殺到。「公平な教育を! 高考入学枠削減反対!」と書かれたプラカードを手に大声で抗議の声を上げた。
ネット上のソーシャルメディアには、地元警察が怒る親たちを逮捕し、暴行を加え、連行する様子を撮影した動画や写真が次々に投稿された。自分の体に火を付けた親の情報も少なくとも1件あった(焼身自殺のふりは、中国では怒りの意思表示としてよくある戦術で、実際に命を落とすことはまずない)。
同様の抗議行動は江蘇省内の13都市に加え、同じく削減の対象とされた湖北省でも発生した。人口が多く裕福な湖北省は、入学枠が4万人分削減された。
田家炳高校の校門前で、ある母親が抗議に参加した理由をこう説明した。「江蘇省の受験生は毎日午後9時30分まで教室に残って勉強しているのに、政府は発展の遅れた省の生徒たちをえこひいきしている」
ただし、彼女の怒りは貧しい省の人々ではなく、大都市のエリート層に向けられていた。
上海や北京のような「一級都市」の正式な住民(都市戸籍の保有者)は、教育面で優遇されている。例えば重点大学の合格率は、江蘇省では9%だが、北京の高校生は24%だ。
この数字は制度の産物でもある。中国の大学は地元出身者を優先的に入学させるルールになっているが、清華大学、北京大学、復旦大学などの名門大学はほとんどが北京や上海にある。
【参考記事】一般市民まで脅し合う、不信に満ちた中国の脅迫社会
「上流層は国を見捨てた」
同時に、大都市のエリート層が既得権益を独占している状況の表れでもある。江蘇省の親たちは長年、こうした格差にいら立ってきた。そこへわが子が名門大学に進学できるチャンスがさらに小さくなるという発表があったのだから、怒るのも無理はない。しかも北京や上海は、大規模な入学枠削減の対象になっていない。
江蘇省の抗議活動は、地方都市の中流層の利害を代弁するものだ。彼らは過剰に守られている(と自分たちが感じる)貧しい地方に対する軽蔑と、一番おいしいところを持っていく豊かな大都市への反感の板挟みになっている。そして、共産党の重要な政治的支持基盤でありながら、最近は自分たちの利益のために大きな声を上げるようになっている。
抗議行動を研究する清華大学の呉強(ウー・チアン)講師(政治学)は、今回のような出来事が中流層の政治的連帯感を強化する方向に働いていると指摘する。「政治については長い間、中流層は発言権も力も持っていなかった。彼らのために声を上げる人間もいなかった」
だが、それも最近は変わってきたと、呉は言う。変化の大きな要因はソーシャルメディアの登場だ。大学入学枠削減問題のように中流層の経済状態や地位を脅かす「事件」が起きると、彼らはソーシャルメディアを使って不満をぶちまけたり、デモを組織できるようになった。
例えば、人気モバイルアプリ微信(ウェイシン)(WeChat)の「南京受験生の親たち」というアカウントには、江蘇省の入学枠削減を不公平だと批判する投稿が並んでいる。ある投稿主は「高考の入学枠削減、(最も苦しむのは)なぜいつも中流層なのか?」と訴えた。
入学枠の削減に最も強く反発したのが中流層だったのは、「本当の大物たち(上流層)がとっくに中国の教育を見捨てている」ことの表れだと、この人物は主張。その例として、大富豪の王健林(ワン・ジェンリン)の息子・王思聰(ワン・スーツォン)が小学校から大学まで外国で教育を受けたことを挙げた。
この投稿主によれば、上級役人の80%以上が子供を海外に留学させているという。数字の真偽は不明だが、「大物たち」が中国の教育を見捨てたという見方が広がっている事実は、自分たちは中国の教育制度の内部に閉じ込められているという意識が中流層の間で強まっていることを示している。
南京の中学校に通う娘がいる42歳の林(仮名)も、大学の入学枠削減を階級格差の問題として捉えている。彼女はアメリカのイラク戦争を例に挙げてこう説明した。「イラク戦争を始めたのはブッシュ政権だが、兵士の大部分は中流層以下の出身だった。祖国のために自分の命を犠牲にする上流層の人間はほとんどいない」
【参考記事】中国の公立病院で患者5人がHIV感染、医療器具の使い回しで
不公平な競争より海外へ
林の娘エイミーはまだ中学2年生だが、大学受験のことを考えると今から気が重い。江蘇省から重点大学に入学できる9%の枠に入れないのではないかと心配しているのだ。
だから林は、娘をアメリカの大学に留学させたいと考えている。かつて海外留学は超富裕層の特権だったが、過去10年間で上位中流層や一般の中流層の間でも珍しくなくなってきた。
入学枠削減の発表後、多くの留学斡旋会社が子供のために必死の親たちにソーシャルメディアを通じて売り込みを掛け、留学は実現不可能な夢物語ではないとアピールしている。
だが最も安価な海外留学コースでも、一部の中流層には手が届かない。中国の人口動態の変化とその影響を研究しているシカゴ大学ポールソン研究所のダミアン・マは、中流層の中には「全く余裕のない人々もいる。彼らは今後も激化する競争に身を置き続けるしかない」と指摘する。
【参考記事】日本が危ない!? 福島原発の放射能フェイクニュースが拡散中
中流層の留学ブームがさらに拡大し、中国の教育制度を変えるきっかけになる可能性は低いと、マは言う。確かに、大学入学枠削減の影響を受ける親たちが大挙して子供を留学させようとするかは分からない。それでも今回の出来事が、自分たちは教育制度の犠牲者だという中流層の意識を強め、不公平な扱いを受けているという自覚を芽生えさせることは確かだろう。
林もその1人だ。娘の教育について考えるとき、政府が江蘇省の親たちに受け入れを求める犠牲は、北京に対する甘い措置に比べてあまりに大き過ぎると感じている。
「私たちは外国の大学に子供を避難させようとしているわけではない。それでも、留学が娘により多くのチャンスを与えてくれるのは確かだと思う」
[2017年3月7日号掲載]
From Foreign Policy Magazine
ローレンス・ティシェイラ
中国・江蘇省の省都・南京にある田家炳(ティエンチアビン)高校。肌寒い1月の夕方、太陽が地平線に沈む頃になると、生徒たちが教室から疲れた姿で出てくる。「高考」と呼ばれる大学入学共通試験を5カ月後に控えたある女子生徒は、校門のそばで母親から激励の言葉と、プラスチック容器に入った夕食用の弁当を受け取った。
中国の高校生は大変だ。それは親たちも分かっている。
だからこそ昨年5月、田家炳やその他の高校に通う子供を持つ多くの親たちは抗議行動に訴えた。中央政府が裕福な沿海部の江蘇省にある一流大学(「国家重点大学」と呼ぶ)の入学枠のうち3万8000人分を、貧しい内陸部10省の生徒に割り当てると発表したためだ。その分、地元の生徒の枠は減らされる。
発表の翌日、1000人以上の親が南京市の省政府庁舎の教育部周辺に殺到。「公平な教育を! 高考入学枠削減反対!」と書かれたプラカードを手に大声で抗議の声を上げた。
ネット上のソーシャルメディアには、地元警察が怒る親たちを逮捕し、暴行を加え、連行する様子を撮影した動画や写真が次々に投稿された。自分の体に火を付けた親の情報も少なくとも1件あった(焼身自殺のふりは、中国では怒りの意思表示としてよくある戦術で、実際に命を落とすことはまずない)。
同様の抗議行動は江蘇省内の13都市に加え、同じく削減の対象とされた湖北省でも発生した。人口が多く裕福な湖北省は、入学枠が4万人分削減された。
田家炳高校の校門前で、ある母親が抗議に参加した理由をこう説明した。「江蘇省の受験生は毎日午後9時30分まで教室に残って勉強しているのに、政府は発展の遅れた省の生徒たちをえこひいきしている」
ただし、彼女の怒りは貧しい省の人々ではなく、大都市のエリート層に向けられていた。
上海や北京のような「一級都市」の正式な住民(都市戸籍の保有者)は、教育面で優遇されている。例えば重点大学の合格率は、江蘇省では9%だが、北京の高校生は24%だ。
この数字は制度の産物でもある。中国の大学は地元出身者を優先的に入学させるルールになっているが、清華大学、北京大学、復旦大学などの名門大学はほとんどが北京や上海にある。
【参考記事】一般市民まで脅し合う、不信に満ちた中国の脅迫社会
「上流層は国を見捨てた」
同時に、大都市のエリート層が既得権益を独占している状況の表れでもある。江蘇省の親たちは長年、こうした格差にいら立ってきた。そこへわが子が名門大学に進学できるチャンスがさらに小さくなるという発表があったのだから、怒るのも無理はない。しかも北京や上海は、大規模な入学枠削減の対象になっていない。
江蘇省の抗議活動は、地方都市の中流層の利害を代弁するものだ。彼らは過剰に守られている(と自分たちが感じる)貧しい地方に対する軽蔑と、一番おいしいところを持っていく豊かな大都市への反感の板挟みになっている。そして、共産党の重要な政治的支持基盤でありながら、最近は自分たちの利益のために大きな声を上げるようになっている。
抗議行動を研究する清華大学の呉強(ウー・チアン)講師(政治学)は、今回のような出来事が中流層の政治的連帯感を強化する方向に働いていると指摘する。「政治については長い間、中流層は発言権も力も持っていなかった。彼らのために声を上げる人間もいなかった」
だが、それも最近は変わってきたと、呉は言う。変化の大きな要因はソーシャルメディアの登場だ。大学入学枠削減問題のように中流層の経済状態や地位を脅かす「事件」が起きると、彼らはソーシャルメディアを使って不満をぶちまけたり、デモを組織できるようになった。
例えば、人気モバイルアプリ微信(ウェイシン)(WeChat)の「南京受験生の親たち」というアカウントには、江蘇省の入学枠削減を不公平だと批判する投稿が並んでいる。ある投稿主は「高考の入学枠削減、(最も苦しむのは)なぜいつも中流層なのか?」と訴えた。
入学枠の削減に最も強く反発したのが中流層だったのは、「本当の大物たち(上流層)がとっくに中国の教育を見捨てている」ことの表れだと、この人物は主張。その例として、大富豪の王健林(ワン・ジェンリン)の息子・王思聰(ワン・スーツォン)が小学校から大学まで外国で教育を受けたことを挙げた。
この投稿主によれば、上級役人の80%以上が子供を海外に留学させているという。数字の真偽は不明だが、「大物たち」が中国の教育を見捨てたという見方が広がっている事実は、自分たちは中国の教育制度の内部に閉じ込められているという意識が中流層の間で強まっていることを示している。
南京の中学校に通う娘がいる42歳の林(仮名)も、大学の入学枠削減を階級格差の問題として捉えている。彼女はアメリカのイラク戦争を例に挙げてこう説明した。「イラク戦争を始めたのはブッシュ政権だが、兵士の大部分は中流層以下の出身だった。祖国のために自分の命を犠牲にする上流層の人間はほとんどいない」
【参考記事】中国の公立病院で患者5人がHIV感染、医療器具の使い回しで
不公平な競争より海外へ
林の娘エイミーはまだ中学2年生だが、大学受験のことを考えると今から気が重い。江蘇省から重点大学に入学できる9%の枠に入れないのではないかと心配しているのだ。
だから林は、娘をアメリカの大学に留学させたいと考えている。かつて海外留学は超富裕層の特権だったが、過去10年間で上位中流層や一般の中流層の間でも珍しくなくなってきた。
入学枠削減の発表後、多くの留学斡旋会社が子供のために必死の親たちにソーシャルメディアを通じて売り込みを掛け、留学は実現不可能な夢物語ではないとアピールしている。
だが最も安価な海外留学コースでも、一部の中流層には手が届かない。中国の人口動態の変化とその影響を研究しているシカゴ大学ポールソン研究所のダミアン・マは、中流層の中には「全く余裕のない人々もいる。彼らは今後も激化する競争に身を置き続けるしかない」と指摘する。
【参考記事】日本が危ない!? 福島原発の放射能フェイクニュースが拡散中
中流層の留学ブームがさらに拡大し、中国の教育制度を変えるきっかけになる可能性は低いと、マは言う。確かに、大学入学枠削減の影響を受ける親たちが大挙して子供を留学させようとするかは分からない。それでも今回の出来事が、自分たちは教育制度の犠牲者だという中流層の意識を強め、不公平な扱いを受けているという自覚を芽生えさせることは確かだろう。
林もその1人だ。娘の教育について考えるとき、政府が江蘇省の親たちに受け入れを求める犠牲は、北京に対する甘い措置に比べてあまりに大き過ぎると感じている。
「私たちは外国の大学に子供を避難させようとしているわけではない。それでも、留学が娘により多くのチャンスを与えてくれるのは確かだと思う」
[2017年3月7日号掲載]
From Foreign Policy Magazine
ローレンス・ティシェイラ