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マニラの人道主義者たち

ニューズウィーク日本版 2017年3月14日 16時15分

<「国境なき医師団」(MSF)を取材することになった いとうせいこうさんは、ハイチ、ギリシャで現場の声を聞き、今度はマニラを訪れた。そしてMSFのスラムでの活動について説明を受ける>

これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 」
前回の記事:「昭和30年代のようなマニラのスラムの路地」

まだまだ11月22日

その日、11月22日の夜、俺と広報の谷口さんは自分たちが寝泊まりしているマラテ地区の中にもうひとつある、『国境なき医師団(MSF)』海外派遣スタッフ用のマンションに招かれていた。彼らは現地組織『リカーン』の主要メンバーも含め、パーティーをするのだという。

各々の部屋で休んでから、ビルの下でジョーダン夫妻と待ち合わせた(実は谷口さんの部屋の鍵が壊れてしまい、それが二度目の待ち合わせであった。最初に迎えに来てもらった時は、二人ともちょっとしたよそゆきを着ていたので、その夜の集まりが立派な社交なのだとわかった)。

路地を抜けて4人で歩いていくと、やがて細長い高層マンションが目の前にあらわれた。警備員にはジョーダンが挨拶し、中に入っていく。エレベーターに乗ってずいぶん上に行き、しっかりした造りの廊下へ出た。その階にスタッフの部屋があるのだった。

チャイムを鳴らすと、中からスタッフの声がした。すでにパーティーは佳境に入っていた。ふたつのソファで挟まれたテーブルの上にデリバリーの中華、チキンなどがあった。

それを囲むのは海外派遣スタッフのみでなく、現地のジュニーもMSF香港のロセルもいた。リカーンからはホープが来ていて、やはりよく笑っていた。

部屋の奥側のソファにはホープと共に、白髪の女性が悠々とにこやかに座っていた。それがリカーンの創設メンバーであるジュニス・メルガー医師であることはすぐにわかった。長く活動を続けてきた人の迫力というのだろうか、オーラのようなものがあった。どこか中国の大人(たいじん)のようにも思えた。



ジェームスは機嫌がよかった。瓶ビールを持っていたと思う。大きな体のおかげで瓶はおもちゃに見えた。また、ジュニス医師の隣で笑ったり、他のスタッフのからかいに異論をはさんだりしているのは若き日本人女性スタッフ菊地寿加(すが)さんだった。小さな体でエネルギッシュに話をする彼女は、すでによく飲んで明るかった。

フランス人ヴィアネ

少し一緒におかずをつまんでから、俺は海が眼前に広がる高層階ベランダに出た。周囲のビルの灯がチカチカとまたたいていた。そこに一人の痩せたヨーロッパ人男性がいて、煙草を吸っていた。若いが髭面を見ると旅慣れたヒッピーにも見えた。

「こんばんわ、日本から来ました」

「やあ聞いていますよ。ヴィアネ・デルピエールです」

「セイコーです」

そこからしばしポツポツと言葉を交わすと、彼ヴィアネが翌日の朝に母国フランスへ帰ることがわかった。プロジェクト・コーディネーターとしての8ヶ月のミッションを終えたところだというのだ。

すでに送別会は済ませてあったそうだから、ジョーダンたちが少しフォーマルないでたちを心がけていたのはリカーンのメンバーを迎えるためだったようだが、むろんヴィアネへの感謝がなかったわけもない。

しかしヴィアネ自身はといえば淡々とベランダで海の闇を見る。

彼はアフリカや中東を経てマニラに来ていた。もともとは学生の頃から人道主義者で、その延長線上で電気技師としてMSFに参加し、その後ロジスティシャンとして活動地に必要な物資を輸入し、管理してきたという。

「なぜMSFに入ったか......そうだな、答えはひとつに決められないな。姉が活動に参加していたけど、だからといって僕が今こうしている理由かどうかわからない」

ヴィアネはわかりやすい解答を拒んで、困ったように微笑んだ。

少し考えて俺は言った。

「ただ、君は今とても満足してそうだけど」

「あ、ああ、そうだね! それは確かだ。活動地でこうしてたくさんの素晴らしい人と出会って、自分も人道主義者として目標を達成出来ているんだよ。だから満たされてる。まさしくそうだ」

ヴィアネは笑って瓶ビールをあおった。

二人で部屋の中を見た。ヴィアネの役職を継ぐのがアフリカ人ジェームスだった。彼らはともにシャイで冷静で、つまり人種や体型を超えて必要とされるひとつの能力を持っているのを、俺は感じた。

重ねて言うが、彼らの任務は簡単ではない。

例えば未成年が妊娠すれば親に判断を仰ぐことになり、それは教会の意向を反映したものになる。コミュニティであるバランガイは彼らの間をとりもっている。

ジェームスは昼の取材のあと、スラムの中を歩きながら言った。

「僕たちの国ケニアであれば教会に逆らうよ」

ホープは両手を広げて答えたものだ。 



「私たちフィリピンは『ノーコンフリクト』なの。事を荒立てない方を選ぶ。従順が美徳だから」

それを聞いて俺はそこにも日本と同じ問題が横たわっていることに気づいたのだった。視界に広がるスラムの奥の、きわめてフィリピン的な古風さが、そこに生きる人々の枷(かせ)になっていた。

話し続ける人々

ヴィアネにひとまず8ヶ月の活動へのねぎらいの言葉をかけてから、俺は部屋に戻った。人々はふたつの群れに分かれていた。

ひとつはリーダーであるジョーダンの周囲に自然に出来た群れで、その真ん中でジョーダンが熱っぽく質疑応答を繰り返していた。

もう一方はジュニス医師を囲む数人で、こちらはごく静かにゆっくりと小声で話していた。東洋の賢者といった風体だった。ジョーダンとやり方は違うが、人を惹きつけていることに変わりはなかった。

そして二人は時おり会話をした。それを俺たちは熱心に聞いた。

彼らはいわばトップ会談をしているのだった。

バランカイの複雑な人間関係について賢者はしゃべった。対して熱い西洋の改革者は世界の保守傾向と難民について語った。

新しい政権のもとで、その意見交換がいつ「共謀」と取られるかわからない状況が彼らに訪れ、目の前の女性や子供をひたすら守ろうとしている彼らの背後にもまた、困難が覆いかぶさっていた。

それでも臆することなく、時に冗談を言いあって笑いながら彼らは持ち寄った食べ物と飲み物を分け、長い時間話し続ける。

俺はその様子をメモに取り続けた。 

俺に出来ることは限られていた。

彼らの姿を記録すること。

そして彼らの視線の先に、またあのドーハ発羽田行きQR812で隣に座っていた青年を見出すこと。
【参考記事】ギリシャまで、暴力や拷問から逃れてきた人々

俺の中に何度も何度も彼を出現させること。



続く

いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

いとうせいこう

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