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習近平が言及、江戸時代の日本に影響を与えたこの中国人は誰?

ニューズウィーク日本版 2017年3月15日 16時7分

<2015年の習近平国家主席のスピーチをきっかけに、日中両国に突如到来した「隠元ブーム」。隠元隆琦(上)とは果たして何者か>

突然ですが、ひとつクイズを。明朝体、煎茶道、木魚と聞いて連想する歴史上の人物は誰か。

答えは隠元隆琦(いんげんりゅうき)。これらの文化を江戸日本に伝えた功績をもつ。だが、この人物を知っている人はほとんどいないのではないか。筆者もつい3ヶ月前に知人に教えてもらったばかりだ。 清朝初期に訪日したこの僧師が、ゆかりの地である中国の福建や日本の長崎で話題になっている。

きっかけは2015年5月の習近平国家主席の演説だった。北京の人民大会堂で、3000人からなる日本人訪中団を前にこう語った。

「日本にいる間、隠元大師は仏学の教義を伝えたのみならず、先進文化と科学技術を持ち込み、江戸時代の経済社会の発展に重大な影響を与えました」

1982年にアモイ副市長就任、その後福建省長を務めるなど、習近平氏は20年近く福建でキャリアを磨いた。この時期に、隠元僧師の偉業に興味をもつようになったようだ。隠元ゆかりの萬福寺(福清)を少なくとも3度は訪ねたほどの熱のいれようだ。習近平氏は臨済宗発祥の地、河北省正定県で働いていたことがあり、それが最初のきっかけだったのでは、という見方がある。

隠元隆琦は1592年に現在の福建省福清市で生まれた。6歳の時に父が行方不明となり、成人後は父を捜して江西や江蘇、浙江を渡り歩き、たどり着いた普陀山で仏門に入る決心を固めた。1620年に故郷に戻ると、福清黄檗山禅寺で出家し、その後黄檗山萬福寺で住職となり、寺の再建を進めた。

日本へ出発したのは1654年5月。周囲の反対を押し切り、63歳の隠元は約20人の弟子を連れ泉州から長崎へ約1ヶ月半の船旅にでた。隠元の日本滞在はもともと3年の予定だったが、当時の将軍や天皇の帰依のもと日本に住み着き、1659年には京都の宇治で黄檗山萬福寺を模した萬福寺を建立した。1673年、後水尾上皇が「大光普照国師」の号を授けた翌日、隠元は逝去した。

宇治の黄檗山萬福寺(筆者撮影)

上述の習スピーチの直前、地元・福清の出身で不動産会社を運営する林文清氏が、隠元の精神を広げるため黄檗文化促進会を発足させた。昨年9月には、同じく福清出身でガラス会社トップの曹徳旺氏が中国最大手の不動産会社「万科」の王石・会長の誘いに応じて、黄檗山再建のために2億5000万元(約41億円)――日本の寺院関係者にとっては喉から手が出るような金額――の寄付を決めた。3年後に再建される予定となっている。

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呼応するように、隠元僧師を顕彰する動きが日本にも広がってきている。

「数十年来の夢が実現した」。隠元僧師が日本滞在の最初の1年を過ごした長崎・興福寺住職の松尾法道さんは、興奮冷めやらない様子でそう語る。昨年1月、中国側の招待で、念願の黄檗山萬福寺への訪問が実現した。先代の住職も萬福寺を訪れたがっていたが、先先代の住職が盲人であったため実現しなかったという。この1年程で急に「隠元ブーム」がやってくるとは思いもしなかった。

2016年8月、中国から200名の仏教関係者が隠元僧師の足跡をたどり、豪華客船に乗って長崎に来た。また、千葉在住の陳熹さんは、隠元僧師と同郷ということもあり、同年11月に一般社団法人黄檗文化促進会東京事務所を立ち上げ、自費で活動を始めた。日本で黄檗文化を広めるのが目的だという。

京都は中国人観光客であふれかえっているが、隠元僧師が眠る宇治・萬福寺ではまだまだ人もまばらだ。中国語の標識ひとつたっていない。だが、没後350年にあたる2023年の法要では「中国側からも参加者を呼ぶ」(盛井幸道・萬福寺執事長)意向だ。

2017年、2018年は、それぞれ日中国交正常化45周年、日中平和友好条約締結40周年にあたり、本来であれば、日中首脳の相互訪問が実現する年だ。中国の習近平国家主席が日本にやってくる場合、長崎や京都にある隠元ゆかりの寺を目的地の候補とする可能性はなきにしもあらずではないだろうか。

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実際、胡錦濤国家主席(当時)は2008年の訪日中に唐招提寺(奈良)を訪問するなど、歴代の中国要人訪日では、地方都市で中国と縁のある場所を訪れることが慣例となっている。特に、習近平氏は2001年の省長時代に長崎県を訪問したことがあり、1998年から2010年まで長崎県知事を務めた金子原二郎・現参議院議員とはこれまで5度も会見している。

近代日本において、「インゲン豆」として名前に残っているだけで、隠元僧師が大きな注目を集めることはなかった。この忘れられた僧師が再び日中で注目される日はそう遠くないかもしれない。

[筆者]
舛友雄大
2014年から2016年まで、シンガポール国立大学リー・クアンユー公共政策大学院アジア・グローバリゼーション研究所研究員。カリフォルニア大学サンディエゴ校で国際関係学修士号取得後、調査報道を得意とする中国の財新メディアで北東アジアを中心とする国際ニュースを担当し、中国語で記事を執筆。今の研究対象は中国と東南アジアとの関係、アジア太平洋地域のマクロ金融など。これまでに、『東洋経済』、『ザ・ストレイツタイムズ』、『ニッケイ・アジア・レビュー』など多数のメディアに記事を寄稿してきた。


舛友雄大(アジア・ウォッチャー)

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