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復調のアイルランドは英EU離脱で恩恵を受けるのか?

ニューズウィーク日本版 2017年3月30日 6時30分

金融市場はその時その時の「注目銘柄」をカテゴライズして、「通り名」を付けるのが大好きだ。積極的な外資導入で高成長を謳歌(おうか)したアイルランドはかつて、「ケルトの虎」と称賛された。しかし2008年の世界的な金融危機をきっかけに、不動産バブルに沸いていた同国は銀行危機に陥った。国際通貨基金(IMF)や欧州連合(EU)、ユーロ圏などから金融支援を仰いだかつての「虎」は、不本意ながらも経済的に脆弱な南欧の債務危機国と十把一からげにされ、「PIIGS(ピッグス=ポルトガル、イタリア、アイルランド、ギリシャ、スペイン)」という不名誉なグループに名を連ねた。

激しい浮き沈みを経た現在、アイルランド経済は再び5.2%成長(16年)と、力強い回復を遂げた。虎の復活かと思いきや、今度は英国のEU離脱問題が浮上。英国との経済関係が深いアイルランドは、EU加盟国の中でも英離脱の影響がとりわけ大きいと目される。さらに北アイルランド問題という「火薬庫」も抱えており、複雑な連立方程式への解答を迫られている。

増える日本企業の問い合わせ

一見、アイルランドは英EU離脱で、最も恩恵を受けそうだ。長きにわたった独立闘争を経て、アイルランドが英国から独立したのは1937年。英国と類似した法制度を有し、ユーロ圏で英語を母語とする唯一の国となっている。経済は外資に対して非常に開放的で、法人税率も12.5%の低水準。米アップル、スイス・ノバルティス、ドイツ銀行といった、情報通信技術(ICT)や製薬、金融のビッグネームが軒並みアイルランドに拠点を構える。同じく開放性を売りとする英国がEU外に去り、しかも欧州単一市場にもとどまらないとなれば、同国に取って代わるEUへのゲートウエー(玄関口)として、アイルランドは間違いなく有力候補だろう。

実際、アイルランド政府産業開発庁の日本代表を務めるデレク・フィッツジェラルド氏は、16年6月の英国民投票で想定外だった離脱が決まった後、日本企業のアイルランドへの関心が著しく高まったと明かした。特に顕著なのは、国際金融市場ロンドン・シティーに拠点を置く金融部門からの引き合いの増加という。「日本の金融関係者はロンドンに満足しており、問い合わせはほとんどなく、こちらから営業に赴いていた」とはフィッツジェラルド氏。しかし国民投票後は、「東京でも、ロンドンからも、ものすごく問い合わせが増えた」と、頬を緩めた。

在英の金融機関はこれまで、いわゆる「パスポート制度」の下、EU全域で商品販売など事業活動が可能だった。ところが、メイ英政権は欧州単一市場、さらには欧州司法裁判所の司法権からの離脱を目指す「ハード・ブレグジット」の方針を明示しており、パスポートの維持はほぼ不可能な情勢となった。EU他国でパスポートを改めて取得するにしても、「1年半程度かかる」(フィッツジェラルド氏)とみられ、金融各社は「移転のシナリオを実際に検討している」(同氏)段階にある。

【参考記事】メイ英首相が選んだ「EU単一市場」脱退──ハードブレグジットといういばらの道

一筋縄ではいかぬ英国との関係

アイルランドと英国は経済的にも歴史的にも、深く複雑な関係にある。それ故に、アイルランドにとって、EU離脱の英国から脱出する国際企業の受け皿となることを手放しで喜ぶわけにはいかないようだ。



英離脱はチャンスなのか、リスクなのか。アイルランドのドノフー公共支出改革相は筆者とのインタビューで、そんな質問に対し、「両方まちまちだ。いくらかチャンスはあるが、多くのリスクもある」などと、慎重な見方に終始した。

何しろ、アイルランドの16年の輸出で英国向けは全体の13%弱で、米国に次ぐ第2位。英国からの輸入は全体の約30%で、トップだった。アイルランド中央銀行はこうした貿易のみならず、両国の労働市場が密接に関係していることや、両国間の国境を越えた投資が盛んなことを踏まえ、英離脱によりアイルランドの国内総生産(GDP)伸び率が17年は0.6%、18年も0.2%下押しされるとの見通しを明らかにした。

さらに、1998年の「グッドフライデー合意」でようやく和平が達成された北アイルランド紛争という「寝た子」を、英のEU離脱が起こしてしまいかねない。国民投票で示された「反移民」の民意をくんで、メイ政権はEUの大原則の一つである「人の移動の自由」を拒み、ハード・ブレグジットの道を選んだ。ところが英領北アイルランドとアイルランドの間には、微妙な境がある。

グッドフライデー合意では、北アイルランド住民の過半数が英国への帰属を望んでいる状況を認める一方、統合はあくまでも住民の自決に基づくとされており、「アイルランド統一という宿願の正当性が確認された」(アイルランド政府公式サイト)。これにより、英国の一部であり続けることを望む「ユニオニスト」と、アイルランド統一を求める「ナショナリスト」は、とりあえず矛を収めた。しかしEUの壁が新たに南北を分断するようならば、途端に情勢は不透明化しかねない。

ドノフー氏は日本貿易振興機構(ジェトロ)本部で行った講演で、英の離脱交渉におけるアイルランドの最優先課題として、経済への影響最小化とともに、北アイルランド和平プロセスの堅持と、南北間の移動の自由確保を挙げた。質疑応答でも、「アイルランドと英国の両政府は、北アイルランドとアイルランド間に新たな(物理的)国境を設けないことを強く約束している」と強調した。

得るのは難し、失うはやすし

英国によるアイルランド植民地化の歴史は、12世紀にまでさかのぼる。南アフリカの悪名高いアパルトヘイト(人種隔離)を想起させるようなカトリック教徒に対する差別を、英国は植民地アイルランドで行ってきた。しかしドノフー氏はインタビューで、そんな恨みつらみや、離脱決定後の英国の混乱を喜ぶ「シャーデンフロイデ(他人の不幸は蜜の味)」をみじんも見せず、「英経済と英国民の繁栄を望んでいる。彼らは最も近い隣人で、友人だ」と語った。

ただ、アイルランドの経済危機を振り返り、危機から得た教訓は何かと尋ねた時のことだ。ドノフー氏はため息交じりに「本当に多くの教訓を得た」としつつ、「日本の読者にも意義深い教訓と言えば、開放性の高い経済にとって競争力は非常に大切だということだ。競争力を獲得するのは難しいが、失うのは極めて簡単だ」と応じた。

この教訓、受け止めるべきは日本人に限らないだろう。経済の開放性を今は誇っているが、巨大な欧州単一市場から去りゆく因縁浅からぬ隣人への、はなむけの言葉としてもふさわしいかもしれない。

[執筆者]
高岡秀一郎(たかおか・しゅういちろう)
時事通信社外経部記者
1998年東京大学教養学部教養学科地域文化研究分科(ドイツ)卒、時事通信社入社。 2006年9月~10年11月までフランクフルト特派員、12年4月~16年5月までロンドン特派員を経て現職


※当記事は時事通信社発行の電子書籍「e-World Premium」からの転載記事です。




高岡秀一郎(時事通信社外経部記者)※時事通信社発行の電子書籍「e-World Premium」より転載

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