<世界の山で数々の最年少記録を塗り替えてきた、大学生冒険家の南谷真鈴が目指す北極点到達と次なる挑戦>
東京・渋谷のカフェでゆず茶を飲む20歳の大学生の南谷真鈴(みなみや・まりん)は、誰もがイメージするおしゃれ好きな若い日本人女性そのものだ。
髪はつやつやのロングで、指先にはゴールドのネイル。よく笑い、会話の端々でヒートアップする。彼女がこの数週間後に7枚重ねの重装備に身を包み、氷点下70度のなか北極点をスキーで目指す冒険に出掛けるなんて誰も想像できないだろう。
快活なルックスに鋼の精神を宿した南谷は、日本で最も若く、最も注目を浴びる冒険家の1人。彼女は10代のうちに数々の記録を打ち立てた。標高8136メートルのネパールのマナスル登頂に世界女性最年少で成功したのは18歳のとき。19歳のときには、日本人最年少でエベレスト登頂を成し遂げた。
記者が彼女と会った2月は北極に向けたトレーニングの真っただ中だった。北極点に到達すれば、南極を含む7大陸の最高峰と北極を制覇する「エクスプローラーズ・グランドスラム」を達成できる。これまでに成功したのは世界でたった51人。南谷が成し遂げればアジア人最年少記録を打ち立てられる。
南谷は冒険と勉学の時間をやり繰りしている。ユニクロなどとスポンサー契約を結んで冒険を続ける一方、早稲田大学政治経済学部に在籍。この取材の2日後には北海道に飛び、その後はフランスで最終トレーニングを行うと話してくれた。
「私が何をしているのか知ると、びっくりする人が多い」と、彼女は言う。「私が山に登るなんて想像できない、と言われる。特に普段着のときには」
冒険は時に孤独だ。南谷は登山チームの中で唯一の女性であるだけでなく、最年少になることも多い。女性からはライバル心を、男性からは偏見を持たれやすい。
【参考記事】マラソンでランナーの腎臓が壊される
自分自身を取り戻す手段
南谷が山を切望するようになったのは、それが人とつながる手段だったからだ。彼女は一人っ子で、商社勤務の父親の仕事の関係で海外を転々とした。マレーシア、上海、大連で暮らした後、12歳で香港に転居。そこで駐在員の子供が多いインターナショナルスクールに通った。
学校生活は困難だったと、南谷は振り返る。ITをフル活用する教育システムで、対面のコミュニケーションは希薄だった。授業はパソコンで行われ、ランチは1階の部屋で8階にいる親友とビデオ通話で会話しながら、といった具合だった。
家庭状況も良好とは言えなかった。父はほとんど家に帰らず、母は日本に残っていた。そんななか、13歳のときに教師に伴われ、生徒50人のグループと共に香港のランタオ島の登山に出掛けることに。山では仲間と助け合い、計画的に動かなければならない。「初めて私たちの間に人と人とのつながりが生まれた」と、彼女は言う。
19歳で日本人最年少のエベレスト登頂を果たした Marin Minamiya
この登山は思春期の南谷に、はるかに広い世界があるのだという感覚を与えてくれた。級友たちと一緒に山頂に立ったとき、広がる南シナ海越しに「香港のコンクリートジャングル」を目にした。その瞬間、彼女は自分の感じてきたストレスの正体を理解した。
「私たちは思った――自分たちはなんてちっぽけな存在なんだろう。日々の悩みなんて大した意味ないじゃないか、って」
それから南谷は、香港周辺で数十の山に挑戦した後、ネパールのアンナプルナのベースキャンプに行く14日間のツアーに友人たちと参加。このときもまだ13歳だった南谷は、かなたにそびえるエベレストの姿を目にし、いつか登ると心に誓った。
その後、新聞で彼女の記事を読んだ人から資金提供を受けてアルゼンチンの南米最高峰のアコンカグアに登頂。スポンサーを得るために、多数の企業に自ら売り込みをかけたりもした。
南谷の両親は彼女が17歳のときに離婚したが、高い山に登ることで彼女は地に足を着けることができた。そして彼女にとってとても必要な、自分自身をしっかりコントロールできるという感覚を守ることができた。
「自分を取り戻す手段の1つが登山だと分かっていた」と、南谷は言う。「私にとって登山は瞑想のようなもの。癒やしというだけではなく、自分に力を与えるものであり、自己を認識するものでもある。山に身を置くことで、困難を乗り越え、自身に向き合わねばと思える」
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志を同じくする仲間と
桁外れの困難に直面したこともある。15年3月、長野県・八ヶ岳の阿弥陀岳で下山中、足元の雪が崩れて頭から真っ逆さまに250メートル滑落した。「死ぬのか、と思った。落ちながら叫び、神に祈った。まだ死にたくない、助けてください、と」
祈りの直後、彼女の体は雪に捉えられ、滑落は止まった。「それまで神を信じたことがなかったけれど、この時から信じるようになった」
雪に穴を掘ってその中で一晩明かし、翌日救助された。奇跡的に無傷で済んだ南谷だったが、この事故は別の意味で彼女を傷つけた。両親が病院に見舞いに来てくれなかったからだ。
それでも南谷はそのわずか14カ月後、エベレスト登頂を果たして日本人最年少記録を塗り替えた。「あの事故で、人間はとても簡単に死ぬものだと気付いた。その事実が私をより強く駆り立てた」
地球の両極まで制覇したら、次はどこへ向かうのか。北極点到達に成功したら、セーリングで世界一周に挑む計画だと南谷は言う。今度の冒険では、共に航海する仲間を探している。求めるのは「熱意にあふれ、夢を持ち、人生にワクワクしている人。そして、仲間の能力をフルに引き出したいという私と同じ目標を持っている人」だ。
彼女が仲間を必要とする冒険を選んだことは、決して偶然ではないだろう。
[2017.4.18号掲載]
ダニエル・デメトリオー
東京・渋谷のカフェでゆず茶を飲む20歳の大学生の南谷真鈴(みなみや・まりん)は、誰もがイメージするおしゃれ好きな若い日本人女性そのものだ。
髪はつやつやのロングで、指先にはゴールドのネイル。よく笑い、会話の端々でヒートアップする。彼女がこの数週間後に7枚重ねの重装備に身を包み、氷点下70度のなか北極点をスキーで目指す冒険に出掛けるなんて誰も想像できないだろう。
快活なルックスに鋼の精神を宿した南谷は、日本で最も若く、最も注目を浴びる冒険家の1人。彼女は10代のうちに数々の記録を打ち立てた。標高8136メートルのネパールのマナスル登頂に世界女性最年少で成功したのは18歳のとき。19歳のときには、日本人最年少でエベレスト登頂を成し遂げた。
記者が彼女と会った2月は北極に向けたトレーニングの真っただ中だった。北極点に到達すれば、南極を含む7大陸の最高峰と北極を制覇する「エクスプローラーズ・グランドスラム」を達成できる。これまでに成功したのは世界でたった51人。南谷が成し遂げればアジア人最年少記録を打ち立てられる。
南谷は冒険と勉学の時間をやり繰りしている。ユニクロなどとスポンサー契約を結んで冒険を続ける一方、早稲田大学政治経済学部に在籍。この取材の2日後には北海道に飛び、その後はフランスで最終トレーニングを行うと話してくれた。
「私が何をしているのか知ると、びっくりする人が多い」と、彼女は言う。「私が山に登るなんて想像できない、と言われる。特に普段着のときには」
冒険は時に孤独だ。南谷は登山チームの中で唯一の女性であるだけでなく、最年少になることも多い。女性からはライバル心を、男性からは偏見を持たれやすい。
【参考記事】マラソンでランナーの腎臓が壊される
自分自身を取り戻す手段
南谷が山を切望するようになったのは、それが人とつながる手段だったからだ。彼女は一人っ子で、商社勤務の父親の仕事の関係で海外を転々とした。マレーシア、上海、大連で暮らした後、12歳で香港に転居。そこで駐在員の子供が多いインターナショナルスクールに通った。
学校生活は困難だったと、南谷は振り返る。ITをフル活用する教育システムで、対面のコミュニケーションは希薄だった。授業はパソコンで行われ、ランチは1階の部屋で8階にいる親友とビデオ通話で会話しながら、といった具合だった。
家庭状況も良好とは言えなかった。父はほとんど家に帰らず、母は日本に残っていた。そんななか、13歳のときに教師に伴われ、生徒50人のグループと共に香港のランタオ島の登山に出掛けることに。山では仲間と助け合い、計画的に動かなければならない。「初めて私たちの間に人と人とのつながりが生まれた」と、彼女は言う。
19歳で日本人最年少のエベレスト登頂を果たした Marin Minamiya
この登山は思春期の南谷に、はるかに広い世界があるのだという感覚を与えてくれた。級友たちと一緒に山頂に立ったとき、広がる南シナ海越しに「香港のコンクリートジャングル」を目にした。その瞬間、彼女は自分の感じてきたストレスの正体を理解した。
「私たちは思った――自分たちはなんてちっぽけな存在なんだろう。日々の悩みなんて大した意味ないじゃないか、って」
それから南谷は、香港周辺で数十の山に挑戦した後、ネパールのアンナプルナのベースキャンプに行く14日間のツアーに友人たちと参加。このときもまだ13歳だった南谷は、かなたにそびえるエベレストの姿を目にし、いつか登ると心に誓った。
その後、新聞で彼女の記事を読んだ人から資金提供を受けてアルゼンチンの南米最高峰のアコンカグアに登頂。スポンサーを得るために、多数の企業に自ら売り込みをかけたりもした。
南谷の両親は彼女が17歳のときに離婚したが、高い山に登ることで彼女は地に足を着けることができた。そして彼女にとってとても必要な、自分自身をしっかりコントロールできるという感覚を守ることができた。
「自分を取り戻す手段の1つが登山だと分かっていた」と、南谷は言う。「私にとって登山は瞑想のようなもの。癒やしというだけではなく、自分に力を与えるものであり、自己を認識するものでもある。山に身を置くことで、困難を乗り越え、自身に向き合わねばと思える」
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志を同じくする仲間と
桁外れの困難に直面したこともある。15年3月、長野県・八ヶ岳の阿弥陀岳で下山中、足元の雪が崩れて頭から真っ逆さまに250メートル滑落した。「死ぬのか、と思った。落ちながら叫び、神に祈った。まだ死にたくない、助けてください、と」
祈りの直後、彼女の体は雪に捉えられ、滑落は止まった。「それまで神を信じたことがなかったけれど、この時から信じるようになった」
雪に穴を掘ってその中で一晩明かし、翌日救助された。奇跡的に無傷で済んだ南谷だったが、この事故は別の意味で彼女を傷つけた。両親が病院に見舞いに来てくれなかったからだ。
それでも南谷はそのわずか14カ月後、エベレスト登頂を果たして日本人最年少記録を塗り替えた。「あの事故で、人間はとても簡単に死ぬものだと気付いた。その事実が私をより強く駆り立てた」
地球の両極まで制覇したら、次はどこへ向かうのか。北極点到達に成功したら、セーリングで世界一周に挑む計画だと南谷は言う。今度の冒険では、共に航海する仲間を探している。求めるのは「熱意にあふれ、夢を持ち、人生にワクワクしている人。そして、仲間の能力をフルに引き出したいという私と同じ目標を持っている人」だ。
彼女が仲間を必要とする冒険を選んだことは、決して偶然ではないだろう。
[2017.4.18号掲載]
ダニエル・デメトリオー