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中朝同盟は「血の絆」ではない。日本の根本的勘違い

ニューズウィーク日本版 2017年4月25日 18時43分

まるで慣用句のように中朝は「血の絆」で結ばれているという大前提で報道されているが、中朝同盟は朝鮮戦争の結果生まれたのではない。それを理解しない限り、北朝鮮問題の解決方法を見い出すことはできないだろう。

朝鮮戦争は如何にして始まったのか

そもそも1950年6月25日に始まった朝鮮戦争は、北朝鮮の最高指導者だった金日成(キム・イルソン)が旧ソ連のスターリンと策謀して起こしたものだ。

1949年3月、金日成はスターリンに朝鮮半島の軍事統一を呼び掛けるが、スターリンは拒否。

ところが1949年3月にアメリカのマッカーサー(当時、連合国軍最高司令官)が、そして1950年1月にはアチソン(当時、米国務長官)が「韓国や台湾はアメリカの防衛線から除く」(アチソン宣言)と発表したため、これを好機ととらえて、金日成がスターリンの賛同を得て始めたものだ。

当時、中国の毛沢東は「戦争が始まれば、アチソン宣言などすぐにひっくり返る」として北朝鮮が戦争を始めることに断固反対した。1946年から本格化した国共内戦を戦って、1949年10月1日にようやく中華人民共和国建国に漕ぎ着けたばかりの毛沢東にとって、さらなる戦争に巻き込まれるのは「ごめんだ」ということもあった。

そこで金日成は「スターリンが賛同している」と中国を勧誘。

スターリンは「ソ連が介入すると、第三次世界大戦になるので、必ず毛沢東の賛同を得ておくように」と金日成に強要。「いざとなったら、中国に援軍を出させるように」と金日成に要求した。ソ連は無傷でいられるように、策謀したのである。

当時のスターリンは中国に対して絶大な力を持っていたので、毛沢東はしぶしぶ金日成の韓国進攻を黙認せざるを得ないところに追い込まれた。

こうして朝鮮戦争は北朝鮮の第一砲により始まったのである。

国連軍の38度線越境により、中国軍参戦

毛沢東の予想通り、北朝鮮が38度線を越えて宣戦布告もなしに韓国に奇襲攻撃してきたのを知って、アメリカは直ちにアチソンラインを撤回。国連軍を結成して韓国側に付き、韓国で優勢を誇っていた北朝鮮軍を38度線以北まで押し返した。

それを見た中国は、10月25日になって、ようやく中国人民志願軍として北朝鮮側に付き、朝鮮戦争に参戦したのである。
その後の詳細は、今回のテーマではないので、省く。

休戦協定後、金日成は中国を評価せず

中国参戦後に、連合国軍は劣勢となったため、アメリカは休戦を申し出た。そこで1953年7月27日に、南北境界線上の板門店で休戦協定が締結された。

ところが金日成はもともと中国東北地方の「満州」にいた東北抗日聯軍の一員で「抗日遊撃隊」(満州派)を組織していた。1940年にソ連に逃亡し、1945年8月の第二次世界大戦終戦によって「朝鮮」に帰国した、言うなら「朝鮮にいる共産党」から見れば「新参者」だった。



しかし、1948年9月9日に、ソ連の占領下における朝鮮半島の北側に「朝鮮民主主義人民共和国」(=北朝鮮)が建国されると、金日成はソ連の後押しで首相に就任する。

朝鮮人民軍は1948年2月8日に建軍したので、建軍記念日は「2月8日」なのだが、1978年以降は、金日成が「満州」で抗日遊撃隊を組織したとされる1932年4月25日にちなんで「4月25日」に変更された。

だから、本日、「4月25日」が朝鮮人民軍建軍記念日となっている。

建軍された当時、この朝鮮人民軍を主として構成していたのは、毛沢東の指導下にあった中国人民解放軍の「延安派」およびソ連から帰国した「ソ連派」、あるいはもともと朝鮮半島にいた共産党員によって構成された軍隊であった。

朝鮮戦争では勇猛に戦ったので、金日成は彼らを生かしておいたが、休戦協定締結後の1956年になると、金日成は強力な力を持っている「延安派」の粛清に踏み切った。

そして朝鮮戦争の功績は自分(金日成)にあるのであって、中国人民志願軍の貢献によるものではないとさえ言い始めたのだ。自分自身の権力基盤があまりに弱かったために、身の危険を感じたからだろう。

中朝同盟は朝鮮戦争の結果、生まれたものではない

朝鮮戦争の休戦協定が結ばれたのは1953年7月27日。中朝同盟、正確には「中朝友好協力相互援助条約」が締結されたのは1961年。調印されたのは同年7月11日で、中朝両国はそれぞれ8月30日および23日に批准している。

条約の発端は1961年5月16日に韓国の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領(パク・クネ前大統領の父親)が軍事クーデターを起こして韓国に反共軍事政権を樹立したためとすることが多いが、そのような解釈だけでは現在の中朝関係を理解することはできない。

朝鮮戦争中にアメリカは中国に原爆を落そうとしたし、また1958年には韓国に核兵器を配備して、休戦協定を破った。休戦協定第13条の(d)では、朝鮮半島に新しく兵器を持ち込んではならないとしていた。

1964年に中国が原爆実験に成功したことからも分かるように、このまま放置しておけば中国が核兵器の脅威にさらされ続けると思ったからだ。原子爆弾の研究開発は1956年から開始され、58年以降に加速していった。中国が原爆実験に成功すると、北朝鮮は中国にその技術の支援を申し出たが、毛沢東は一言のもとに拒絶している。

米韓が共同して朝鮮半島を統一するかもしれないという懸念は、中国にとって「北朝鮮と友好関係を保って北朝鮮を守ろう」といった、「北朝鮮のためのもの」ではなく、あくまでも対米対策であった。

中国は朝鮮戦争勃発時点から、北朝鮮とは「本当は」仲が悪く、「血の絆」などでは、一切、結ばれていない。



日本人は、まずそのことを認識して中朝関係を分析すべきではないだろうか。

中国は中朝同盟を破ることができるか?

中朝友好協力相互援助条約の第二条には「軍事同盟」を定めた「参戦条項」がある。どちらか片方の国が他の国に攻撃されたときには、互いに参戦して互いの国を助けなければならないという主旨の内容だ。しかし北朝鮮、特に金正恩(キムジョンウン)政権は、中国がどんなに核・ミサイルの開発をやめろと言い聞かせても従わず、結果、第一条にある「アジア及び全世界の平和と安全を守る」という大前提を北朝鮮側が破ったのだから、中国側には中朝軍事同盟を破棄する正当性があると、中国は思っているだろう。

ましてや「トランプ・習近平」会談以降の米中蜜月状況に於いて、中国には少なくとも「アメリカと戦いを交える」という考えはない。

「延安派」は長春の食糧封鎖(チャーズ)を実施した朝鮮人八路

筆者がこの事実に執着するのは、筆者らが住んでいた長春を1947年から48年にかけて中共軍が食糧封鎖したときに、包囲網を守備していたのが、「朝鮮人八路」だったことにある。当時、庶民は中共軍のことを「八路軍」と呼んでいた。

1945年8月、毛沢東は「六号命令」というのを発布して、延安にいた朝鮮人八路たちを「東北」に進撃するように命じた。東北というのは吉林省や遼寧省あるいは黒竜江省がある中国の東北三省のこと。その中の一部が吉林省長春市の食糧封鎖部隊に回され、冷酷無残な形で数十万の無辜の民を餓死に追いやった。筆者の家族もその餓死者の中にいる。詳細は拙著『●子(チャーズ) 中国建国の残火』(●は峠のつくりの横棒をくっつけた文字)。 

この朝鮮人八路は中華人民共和国誕生に伴って北朝鮮に帰国し、「延安派」として金日成に粛清されたのである。

朝鮮戦争が始まった1950年に、中朝国境沿いの吉林省延吉市という朝鮮民族の自治州にいて、灯火管制の下で生きてきた筆者としては、あらゆる意味で北朝鮮問題と中朝関係は他人事(ひとごと)ではない。

北朝鮮問題と中朝関係に関しては、今後も多角的に掘り下げていくつもりだ。

[執筆者]遠藤 誉
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会科学研究所客員研究員・教授などを歴任。『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』『チャイナ・ジャッジ 毛沢東になれなかった男』『完全解読 中国外交戦略の狙い』『中国人が選んだワースト中国人番付 やはり紅い中国は腐敗で滅ぶ』『中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす』など著書多数。近著に『毛沢東 日本軍と共謀した男』(新潮新書)



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遠藤誉(東京福祉大学国際交流センター長)

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