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困難と良心を前にして──マニラのスラムにて

ニューズウィーク日本版 2017年6月8日 16時40分

<「国境なき医師団」(MSF)を取材する いとうせいこうさんは、ハイチ、ギリシャで現場の声を聞き、今度はマニラを訪れた>

これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 」

強権デゥテルテの前での反マルコスデモ

11月24日、『国境なき医師団(MSF)』現地本部の上から見ているとまずデモはイントラムロスという美しい観光地あたりから集まり始め、次第に人数を増やしながらUターンをして、別の広場へと向かった。

横断歩道を渡る時、警官たちはデモ隊を止めず、むしろ自動車から彼らを守っていた。世界のデモの常識だが、ずいぶん日本とは違う。隊列を途切れさせることが優先されるからだ。

さらにマニラでは翌25日にもデモがあり、集会があった。夕方までに取材を終えた俺と広報の谷口さんとロセルは広場へ行ってみた。見ると若い人が多く、みな黒いTシャツなど着てわらわらと集まっていた。

ステージが組まれ、後ろに巨大なビジョンがしつらえられていた。司会は学生らしき男女二人で、それが様々な世代をつないで紹介し、シュプレヒコールをあげたりした。

メッセージを掲げる。Piket the sign(マーヴィン・ゲイ)

暗くなっていくにつれ照明が強くなり、小雨がちだったこともあって傘売りが現れたり、タオル売りが出たりした。デモは普通に小売業のおじさんもうるおわせるのだ。

アナウンスの後ろにはヒップホップのビートが流れていた。そこでスピーチする大人は反マルコス運動を担った修道女であったりして、彼女は英語でのスピーチの最後を「わたしは永遠に活動家です」と締めくくったし、有名なコメディアンらしき男がイメルダ夫人の衣装を着、おおきな棺桶の中のマルコスの遺体を前に無理難題を言うコントをやったりもした。

そこにはシリアスな言葉で人をしびれさせたり、過剰な演技で笑わせたり、しみじみと祖父の時代のことを話す学生がいたりとバリエーション豊かで、しかしその全員が結局現在のドゥテルテ大統領の強権に抗議をしているという意味で、本当に命がけなのだった。

俺はそのフィリピン人魂に頭が下がる思いがした。

自由の象徴『ボルテスV』

暗いので見にくいが『ボルテスV』がでかでかと。

そういえば途中、前日もかかっていたアニメソングが鳴り響き、映像もビジョンにでかでかと映った。ロセルによると、それは『ボルテスV』という日本アニメで、内容が革命を賛美しているように思われたためマルコス時代に放送禁止になったものなのだそうだった。だからこそ『ボルテスV』を堂々と映し、主題歌に声を合わせることは彼ら抗議者の勇気をあらわすことなのだ。文化はやはり戦う力なのである。



少年少女へのアウトリーチ(出張)

さて、MSFに関係のある話に戻ろう。

さらに翌日の26日早朝には、小雨の中でトンド地区へ向かい、やがて小さな川沿いにある竹で作った南の島風の小屋へ着いた。入ってみると中にぐるりとベンチがあり、意外に収容人数は多そうに見えた。

少し待っているとそこに近所の子供たちが集まってきた。聞けば11歳から15歳くらいの多感な時期の少年少女、十数人であった。鶏が朝の鳴き声を響かせる中、ジュニーやあの身体的性別と同一性が異なる"女性"スタッフらがせっせと彼らに名前を書かせ、ベンチに子供たちを座らせた。

そして始まったのは男性器、女性器の断面図を見せての生殖の仕組みの講義。タガログ語で"彼女"が何か問うと、ひどく恥ずかしそうだった子供たちが一斉に「オポ」と声を合わせる。意味が何かわからないが、少なくとも彼らはきちんとした教育を受けており、何かを教えてくれる人に対しての集中力を切らさないのだった。

峠の休憩所みたいな感じの「教室」

やがて講義者が変わり、「今みんなの体には変化が起きているでしょう」「心にも変化は起きていて、それぞれ男女として魅力が出てくるよね」などと話しかける。そこからつまりは精子の話、月経の話、妊娠の話などしてゆくのだけれど、自らの身に急激な成長が起きている子供たちのとまどいや照れがいちいち伝わり、むしろ50代半ばの俺こそが彼らの顔を見られなくなって赤面した。

けれど話が進むにつれ、子供たちは一人ずつで話を聞く表情になり、質問されれば答え、たとえにうなずき、時にはケラケラとよく笑った。短い間にさえ彼らの心は育っているのだった。

また講義者が"彼女"に交代された。 

「人を好きになったことあるひとー?」

そう呼びかけると、たくさんの子供が手をあげた。なんだか俺も青いような気持ちを刺激され、そんな時期があったなあと目が細くなった。人を好きになっても安易に性行為をしちゃだめだし、HIVにも気をつけなきゃだめだと"彼女"は言った。子供たちは真面目な顔で何度もうなずいた。もちろん俺も。

最後にジュニーがみんなを立たせ、「1・2・3」と拍手させ、右足を「1・2・3」と踏ませ、「イエス! イエス! イエス!」と叫ばせた。ノイズバラージュの基礎版みたいなものに見えた。マニラっ子は団結力をそうやって養い、自分たちを守るのだと思った。

面白いのはすべてが終わったあとでチョコクッキーとペットボトルのお茶が配られることで、それはフィリピンでのあらゆる集会の約束事なのらしかった。しかも配りながらジュニーはまだ子供たちに「性暴力や虐待を受けたら僕らでも他の団体でもいい、泣き寝入りしないでバランガイの大人や警察に言うんだよ」と熱心に話しかけるのだった。



リカーンの本部にて

そのあと、俺たちはジェームス・ムタリア、ロセル、谷口さんというメンバーでMSFの車に乗って30分ほどケソン市を行き、ドクター・ジュニスに会いに行った。滞在2日目の夜にも会ったリカーンの創始者の一人だ。本部は閑静な住宅街の中にあった。

フィリピン編3にも少し書いた通り、80年代中盤からガブリエラという女性団体の一部だったリカーンは、13人で1995年に独立。コミュニティに根付いたクリニックの活動を、医師、看護士、助産師が中心となって進め、次第に思春期の子供たちにも救援の手が届くようになって、国連からも研修方法の連携依頼があるほどになった。

それを白髪のドクター・ジュニスはゆっくりと正確な記憶しか話そうとしないかのように、時に鼻眼鏡の奥から天井を見上げ、時に俺の目をじっと見て言葉を紡いだ。

多くの成果を上げながらも、ドクター・ジュニスは決して満足していなかった。今から先の目標を聞くと、彼女は即答した。

「ケアの質を上げること」

きわめて具体的で基本的で、しかし絶対に忘れてはいけないことだった。

人間力を感じさせるジュニス医師のたたずまい。

途中で食事をどうぞと勧められ、おいしい魚料理や鳥を揚げたもの、野菜炒めなどでごはんをいただいた。その場にはドクター・ジュニスの旦那さんも来てくれたのだが、とても意志が強そうで眼光も鋭かった。ああ、活動家だった人だなとすぐにわかった。

ドクター・ジュニス自身、マルコスの暴虐に対抗して地下活動を長く行い、公民権を奪われて保健医療サービスも受けられず、出産が困難だったらしい。そしてその夫もまた3回の逮捕歴があった。

そうやって彼らは国をよくしてきたのであり、今もって貧しい人たちをどう助けるかに力を注いでいた。

そして今また、力に逆らうと直接的な危険のある政権のもとにいるのである。

「総合的に妊産婦ケアが出来る病院が出来たら、それは夢のようなことね」

ごはんを食べながらドクター・ジュニスはそう言った。その夫はじっと黙ってチャプスイをすくって飲んでいた。

「僕らMSFとデータを共有して管理出来たら、より総合的な医療が期待出来ると思うよ」

ジェームスはいつものように簡潔に要点を述べた。ドクター・ジュニスは目を見張った。

そこからは現地団体リカーンが出来ることと、MSFが出来ることをどう組み合わせるべきかの議論に移った。

もちろんそこにはMSF香港所属のフィリピン人であるロセルも対等に参加した。討論はあちこち議題を越えつつ進む。立場も人種も性別も違うが、彼らはいつでも議論するのだ。MSFの他の地域でもよく見られる光景である。



活動者たちの討論、討論、討論、そして息抜き

夜のマニラにてジェームス、寿加さんと。

俺はその日、リーダーのジョーダン夫妻の友人である医療コンサルタントのフィリピン人医師とリプロダクティブ・ヘルスが専門のイギリス人医師などがマニラを訪れているというのでマニラホテルで夕食をとり、そこで各国がそれぞれ抱えている問題を聞いた。そこにあるのもまた前向きな討論だった。

色々話して帰ろうとすると、菊地寿加さんから連絡が来た。なんとジェームス・ムタリアと盛り場で飲んでいるというのだった。もちろん断るはずもなく、俺と谷口さんは彼らが陣取るバーへ行き、ただし俺は超甘いハロハロを食べた。

無口なアフリカ人インテリだったはずのジェームスはずいぶんな本数のビールをたしなんだらしく、冗談の頻度が明らかに多くなっていた。寿加さんと楽しい言い合いをしたりする。そして常に言い負かされて頭をなでながら笑うのだった。そうしているとジェームスは若かった。

マニラの夜のホームレスから始まり、マニラの夜の外国人訪問者たちとの宴で、俺の今回の体験も終わったようなものだった。

数日前「私たちは聖人君子じゃない」と言った寿加さん、「じゃあまた会おう」とぶ厚い手で握手したまま夜の街へふらふら去っていったジェームス、どちらも普通の人間だった。むろんジョーダンもエリンもロセルもホープもジュニーもドクター・ジュニスも。

それが力を合わせて難局に挑んでいる。

挑んではうまく行かず立ち止まり、しかし目標を高く持って諦めずにいる。

そういう意味では、彼ら一人ずつの良心がつまり俺を見つめているのだった。

厳しく責めるためではない。

そっちはどうだい?と心配してくれているのだ。

翌日、日本人女性スタッフ辻坂文子さんと、彼女が結婚して一緒にMSFで働いているスペイン人デイビッド・ロメロと一緒に彼らの家で自家製パエリアを食べた。

二人の間にはかわいい子供がいて、夫妻の生活を補助するべくダビッドのお母さんもマニラに来ていた。

彼らのキャリアをくわしく聞いていくたび、国境なき医師団のリアルな活動状況、参加者の人間性、問題点の数々がわかった。とてもいい話になったのだけれど、それはマニラ取材の枠を外れている。

また別な機会に譲ろうと思う。

ただひとこと。

彼らは困難を前にするとたいてい笑う。

そして目を輝かせる。

そうやって壁を突破するしかないことを、彼らは世界のどん底を見て知っているのだと俺は思っている。

<マニラ編終了>
ここでついに菊地寿加さんたちが準備を進めてきた予防接種の第一弾のニュースが入ってきた。
以下をご覧いただきたい。
連載の中に出てくる人物たちもちらほら出てきている。
マニラ:子宮頸がんの予防接種がスタート(2017 年 2 月)【国境なき医師団】



いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

いとうせいこう

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