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両腕のない世界的ホルン奏者の願いは「普通と見られたい」

ニューズウィーク日本版 2017年10月2日 16時29分

<若手音楽家として注目を集めるフェリックス・クルーザーは、生まれつき両腕がない。自叙伝『僕はホルンを足で吹く』に綴られた成功への軌跡と、「障害者の手本にはなれない」と語る彼の願い>

2013年8月、ドイツ出身のホルン奏者フェリックス・クリーザーのデビューアルバム『Reveries(夢想)』が発売された。ロマン派の作品を集めたこのアルバムは、ドイツ国内で高い評価を受け、クリ―ザ―はECHOクラシック賞最優秀新人賞を受賞する。

審査員が「彼は輝かしい成功へのスタートを切った」と予告したように、2015年に発売された2枚目のアルバムは瞬く間にクラシックチャートの3位にまで登り、2016年にはクラシック音楽界で活躍した若手に贈られるレナード・バーンスタイン賞を受賞して若手音楽家としての地位を確立。欧州とアジアを中心にコンサートツアーを行い、2017年には来日コンサートも果たした。同年9月末には3枚目のアルバムが発売されている。

今や世界トップクラスのホルン奏者となったクリーザー。しかし、上の写真を見れば分かるように、彼には両腕がない。

『僕はホルンを足で吹く――両腕のないホルン奏者 フェリックス・クリーザー自伝』(セリーヌ・ラウワー共著、筆者訳、ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)は、ドイツで2014年に出版されたクリーザーの自叙伝だ。デビューアルバム収録のためにスタジオ入りする場面から始まり、レコーディングやプロモーションの様子、評価を得るまでの自信と不安の間で揺れる日々が綴られている。

同時に、爆破専門技師になることを夢見ていたやんちゃな男の子が、プロのホルン奏者になるまでの回想が交錯していく。

1991年にドイツ中部のゲッティンゲンで生まれたクリーザーは、早すぎるという周囲の困惑をよそに4歳でホルンを始め、13歳でハノーファー音楽芸術大学のレッスンを受けるようになった。16歳で受けたインタビューがきっかけでプロになる決意をするが、そのためにはどうしても克服しなくてはならない課題があったという。生まれつき両腕がないことだ。

クリーザーにとって、足を使った演奏は「普通」のことである。しかしプロになるためにはホルンのベル(発音口)の中に右手を入れて演奏する必要があった。

「ナチュラルホルン」と呼ばれる当初のバルブのないホルンは、吹き込む息によってでしか音程を変えられず、「自然倍音」と呼ばれる音しか出すことができなかった。18世紀になるとベルの中に右手を入れて音程を調節する「ゲシュトップ奏法」が誕生し、半音階を出すことが可能になる。19世紀中頃になるとバルブによって音階を変える「バルブホルン」が登場するが、音色を変化させるために右手はベルの中に入れられたままだった。

クリーザーは数年をかけて奏法を工夫するが、「音色を見出すために信じられないほど練習した」と振り返っている。



©Maike Helbig

読者は腕がないことを忘れ、人生に向き合う機会を得る

この本の魅力はなんといっても、クリーザーの妥協を許さない向上心とユーモアあふれる軽妙かつ強気な語り口だろう。インタビュー形式による自伝のため、ドイツ語の原文も生き生きとした話し言葉で記述されている箇所が多い。

隅々にまで目を配る緻密さ、あふれ出る自信とそれを支える努力、つねに高みを目指そうとする23歳(当時)の若者の姿勢は読者に強い印象を残すはずだ。一方で幼少期のエピソードや、アルバムデビューに関連して発生するハプニング、ピアニストのクリストフとの掛け合いからは魅力的な人柄を窺い知ることができる。

クリーザーは本書で、腕がないことを強調しようとする周囲の態度に対して不服を申し立てる。そのような周囲の対応は、ときに彼に失礼なことを強いることがあるのだ。

しかし、登場するエピソードや彼の語り口によって、読者はクリーザーに腕がないことを忘れ、クリーザーと共にデビューアルバムが無事に成功するのかという緊張感に包まれながら、自身の人生に向き合う姿勢を見つめ直す機会を得られる。

印象的なセンテンスを対訳で読む

最後に、本書から印象的なセンテンスを。以下は『僕はホルンを足で吹く』の原書と邦訳からそれぞれ抜粋した。

●Wenn du etwas haben willst, arbeite dafür -- und wenn du es nicht bekommst, dann jammere nicht, sondern akzeptiere es.
(何かを得たいのであれば、そのために頑張りなさい――それが手に入らなくても、駄々をこねずにそれを受け入れなさい、ということだ)

――クリーザーの母の教育方針。両親には腕のない子供に特別プログラムを受けさせる考えはなかった。努力すること、何かのせいにしないこと、ありのままの自分で生きていくこと、というこの教育方針によって、同氏は他の子供と同様、「すべてを自分のやり方で学習しなくてはいけない」ということを学ぶ。

●Unangenehm wird es im Leben immer erst dann, wenn du etwas willst.
(何かを望んで、はじめて人生にはやっかいごとも生じてくる)

――クリーザーは16歳のときのインタビューでホルンを職業にすることについて問われ、同席していた先生に「趣味以上のものはない」と言われてしまう。これがターニングポイントとなってプロの奏者になることを決断し、そのための必死の努力が始まる。

●Dass ich ein normales Leben f'ühre, sollte mich nicht zum Vorbild machen. Denn nur wer sich selbst als normal betrachtet, kann auch von einer Gesellschaft verlangen, als normal betrachtet zu werden.
(僕は普通の生活を送っているんだから、障害者の手本にはなれない。自分自身が普通だと思っているし、社会からも普通だと見られたいんだ)

――クリーザーは「成功した障害者のモデル」という役を押し付けられることがある。彼は腕のない生活が大変なのは、腕のないことが原因ではなく、それを「普通」ではないとして際立たせようとする他人の存在が原因だと言う。彼の視点で見れば、腕のある人間が長い指を絡ませてペンを持つほうが不思議なのだ。

◇ ◇ ◇

クリーザーのように「貪欲に完璧さを追求する」ことは簡単ではないかもしれない。それでも、目標達成に向かってストイックに努力するその生きざまは清々しく、自分は自分自身の人生に真摯に向き合っているだろうか、ということを問われる一冊である。


『僕はホルンを足で吹く――
 両腕のないホルン奏者 フェリックス・クリーザー自伝』
 フェリックス・クリーザー、セリーヌ・ラウワー 著
 植松なつみ 訳
 ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス


トランネット
出版翻訳専門の翻訳会社。2000年設立。年間150~200タイトルの書籍を翻訳する。多くの国内出版社の協力のもと、翻訳者に広く出版翻訳のチャンスを提供するための出版翻訳オーディションを開催。出版社・編集者には、海外出版社・エージェントとのネットワークを活かした翻訳出版企画、および実力ある翻訳者を紹介する。近年は日本の書籍を海外で出版するためのサポートサービスにも力を入れている。
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植松なつみ ※編集・企画:トランネット

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