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習近平が絶対的権力を手にした必然

ニューズウィーク日本版 2017年10月31日 16時0分

<就任前に起きた「アラブの春」そして有力党幹部の汚職事件が体制固めの好機を与えた――毛沢東以来と言われる習近平の独裁体制はどこまで続くか>

中国共産党の第19回党大会は10月18日に、習近平(シー・チンピン)国家主席の長大な演説で幕を開けた。なんと休憩なしで3時間半。それでも黙って拝聴しなければ忠誠心を疑われるから、みんな必死で耐えた。それは1週間にわたる党大会の主役が習であることを見せつける壮大で退屈な儀式だった。

習の影響力は、党大会の開かれている人民大会堂の中だけにとどまらない。党組織をほぼ完全に掌握した習は人口13億の巨大国家と兵力230万人の軍隊、そして11兆ドル規模の経済を支配している。

彼は国家に対する党の支配力を強化し、あらゆる反政府活動の余地をつぶしてきた。前任者の胡錦濤(フー・チンタオ)や江沢民(チアン・ツォーミン)は自らの権威を確立するのに苦労したが、習は13年の正式就任前から政敵を粛清していた。そして本来なら任期半ばである現時点になっても後継者を指名する気配を見せず、22年以降も続投するとの見方が広まっている。

だが習の台頭は約束されたものではなかった。迅速かつ幅広い粛清は彼自身の政治的スキルの成果でもあるが、党の他の面々が彼に提供したチャンスによる部分がはるかに大きい。

習がトップに上り詰めた時期は、はびこる腐敗に対する国民の不満が高まり、「アラブの春」の余波が中国にも及ぶかもしれないという危機感が募り、さらにウクライナの反政府運動が追い打ちをかけた時期と重なる。

習は中国の、独裁的だが合議制に基づく統治システムを維持し、それをいかなる反対勢力からも守るという約束を体現する存在だった。そして政敵の薄煕来(ボー・シーライ)が12年に失脚したことで勢いを得た彼は政敵を次々と排除し、党内で並ぶ者なき存在となった。

習が共産党と国家のトップに立つことは既定路線だった。しかし政権発足直後に薄があっさり失脚していなければ、彼は今も政敵に囲まれて、思うようには動けなかったはずだ。

中国共産党には厳しい「沈黙の掟」がある。権力の中枢である中南海の内側で何が起きているかは、外の人間にはほとんど知り得ない。しかも習政権になってから、信頼できる情報は一段と入手しにくくなっている。

なぜなら、メディアや外国人に話をすることへの恐怖感がこれまで以上に強くなっているからだ。ネット上に出回る指導部に関する情報も臆測の域を出ない。それでも習が絶対的権力を握るようになった経緯は明白で、それが中国の今後の方向性においてどのような意味を持つかもはっきりしている。

習が党総書記への昇格を確実にしたのは07年の第17回党大会で、この時に次期国家主席としての立場も強固なものとなった。前任者の胡錦濤も97年の15回党大会で江沢民の後継者となることがほぼ確定し、その5年後に総書記に就任している。



だが後継指名をしたにもかかわらず、江は権力を自分の手元にとどめておきたいという思いを決して捨てていなかった。05年まで軍の要職にとどまり続け、盟友たちの手を借りて後継者の胡を骨抜きにしようとした。こうして胡の存在感は薄れてしまった。

その胡の弱さが、07年には習の強さとなった。

流れを変えたアラブの春

12年に総書記の座を受け継いだ時点で、習は胡よりも強力で自信に満ちた、カリスマ性のある指導者になると期待されていた。それでも根っからの共産党員ゆえ、党の伝統的なシステムを守り抜くだろうと予想されていた。つまり、17年の党大会では後継者を選び、党の伝統を維持するために次世代の指導部を確立するが、決して独裁者にはならず、集団指導体制の下で一定の制約を受け続けると考えられていた。

当時の共産党内における最も重要なつながりに、イデオロギーはほとんど関係がなかった。重要視されたのは、誰と一緒に出世したか、誰の下で働いたか、誰の面倒を見ているかだった。だから習体制下の政治局には胡や習の、そして江の盟友までもが含まれると予想された。

習政権の最大の難題は、はびこる腐敗だった。腐敗に絡むカネの総額は数十億ドル規模に達していた。

党にとって、腐敗は党に対する国民の信頼と国家の機能を損なうものだった。だが多くの党員は、ほかのみんなが豊かになっているのに、なぜ自分もそうなってはいけないのかと考えた。

ソーシャルメディアを一見すれば、党官僚や地方の役人が国民に仕えず、国民を搾取していることが分かる。

最悪なことに、軍も小さな戦争でも大敗を喫しかねないところまで腐敗していた。基地からヘリコプターが消え、民間会社に売り飛ばされていた。兼業は禁止されているはずなのに、ナイトクラブやコンドーム工場を経営している軍幹部もいる。

国民が官僚の腐敗に不満を募らせるようになったのは、それを話題にできる場があったからでもある。00年代後半には報道もインターネット上の議論もかなりオープンだった。それが自発的なものか当局の意図的な誘導だったかは不明だ。しかし党内の一部には、そうしたオープンさを利用する向きもあった。

一般市民による下級官僚の(オンラインでの)監視に加えて、報道の自由の拡大によって下級官僚の腐敗を排除しつつ、高級官僚の腐敗は放置できると考えられたのだ。中国のブロガーたちは、月収1000ドル程度の地方政府の官僚がロレックスの腕時計をしているのを目ざとく見つけるようになった。



しかし「アラブの春」で流れは変わった。欧米の文化的侵略に対する疑心暗鬼が、エジプトのタハリール広場に広がった光景で新たに高まった。中央アジアでも民主化を求める大きなデモが起き、「カラー革命(色の革命)」が中国にも押し寄せるという不安が頭をもたげた。

そもそも中国共産党の権威は革命で流した血の上に築かれている。しかし、血というならば半世紀前の文化大革命と89年の天安門事件で流された若者たちの血もある。

その記憶が「アラブの春」でよみがえり、民衆反乱の脅威を切実に感じた共産党指導部は、アラブ諸国での反乱、欧米が支援した「不誠実な形の革命」として否定するしかなかった。

国外にいる反体制派の人々がネット上に「中国のジャスミン革命」を呼び掛けるいくつかの書き込みを行っただけで(もちろん実現することはなかったが)、北京では警備が大幅に強化された。そして中国の当局者たちは、こうした動きの背景にはアメリカの諜報機関がいると語り、誇大に宣伝したのだった。

エドワード・スノーデンによってアメリカの諜報活動の猛烈さが暴露されると、欧米の脅威に対する警戒感は一段と高まった。そして10年から12年にかけて、国内に潜むCIAの情報網が摘発された。こうなると、もう手綱を緩めてはいられない。しかし当時、こうした危機感を最も強く抱いていたのは習ではなく薄だった。

「重慶モデル」を乗っ取る

主要都市・重慶のトップを務めていた薄は、地方政治家にしては異例の注目を集めていた。07年に重慶市共産党委員会書記に就任して以来、猛烈な勢いで市内のマフィア撲滅運動を展開し、最終的に組織犯罪を壊滅させたと豪語していた。

その後、公共サービスや公園、都市住宅の拡大を図り、地元での支持を確立。薄の政策は「重慶モデル」と呼ばれ、称賛された。12年秋の第18回党大会では最高指導部入りが噂され、習の強力なライバルになると思われた。しかし、全ては一瞬にして崩壊した。

12年2月6日、薄の側近だった王立軍(ワン・リーチュン)が突然、重慶から遠く離れた成都のアメリカ総領事館に駆け込み、政治亡命を求めた。王は、薄の妻がイギリス人実業家を殺害したと訴えていた。

真相がどうあれ、王の駆け込み事件は薄の政敵、特に習に格好のチャンスを与えた。薄は3月15日に職を解かれ、4月10日には正式に捜査の対象となり、翌年7月に正式に告発された。

厳密に言えば、薄の粛清はまだ胡が最高権力者だった時期に行われた。おかげで習は、全ては党の結束のためであり、個人的な野心とは無関係だと言いつつ自分の潜在的な政敵を追放する一方で、薄とそっくりな政策を進めることができた。



「重慶モデル」は公式に否定されたが、習は薄の手法を模倣していた。彼は全国の腐敗浄化の約束を掲げ、大物(虎)も小物(ハエ)も容赦しないと主張した。以前の腐敗撲滅運動とは異なり、引退した公務員や民間人、軍人も対象になった。

薄の組織犯罪撲滅運動と同様に、習の腐敗撲滅運動は汚職の蔓延にうんざりしていた一般国民の間に広く浸透した。少なくとも最初のうちは、秩序と公的な正当性を求める党幹部の間でも人気があった。

運動の初期段階で習が手にした最も重要な戦利品は、胡政権時代に交渉の達人として名を上げ、12年に政治局常務委員を引退した周永康(チョウ・ヨンカン)だろう。

薄の失脚以来、薄と周が親密な仲だったという噂が出回ったが、それは習が仕掛けたものかもしれない。「薄と周は言われているほど近しくなかった」と、周の盟友の娘は言っていた。だが「習は周を追及できるように2人を結び付けたがった」。

14年12月に周の逮捕が発表されるまでの1年間、周が任命した幹部らは次々と汚職の告発を受け、政府機関から排除された。これまでなら、標的になった人々は豊富な人脈や、相互の脅迫材料、部下の忠誠心を利用して、反撃することができた。だが薄の失脚による動揺や、多くの関係者の退職や異動、続く訴追でネットワークは断ち切られ、全く抵抗できなかった。

以前も粛清は頻繁に行われていたが、その後は冷却期間が続き、回復と抵抗の機会を与えていた。だが習の腐敗撲滅運動によるショックと畏怖は和らぐことがなかった。

習の新しいプログラムのもう1つの柱は、公的生活の全ての分野、特に国民の監視に関する党の完全な支配の再確認だ。

習が最高指導者の地位に就いた時は、彼が「中国のミハイル・ゴルバチョフ」になるというお決まりの臆測がささやかれた。しかし、それは主として欧米のメディアや政治家の、そして国内外の反体制知識人の希望的観測にすぎなかった。

欧米諸国による文化的侵略と「アラブの春」に触発された若者の反乱という妄想をばらまくことで、習は治安維持の名目であらゆる手段を自由に使うことが可能になり、党内の自分の敵や、党そのものと対立する可能性のある存在を攻撃した。

薄が重慶で使ったテクニックをまねて、習は党に逆らいそうな市民を大量に逮捕し、オープンになりかけた社会を再び閉ざすことに邁進した。12年には、比較的自由な言論の場として人気だったマイクロブログの新浪微博の有力発言者を直撃し、沈黙させた。かつては限定的ながらも活動できていた人権派の弁護士も活動の場を失ったり、逮捕されたりするようになった。

ロシアを手本とする新たなNGO法で外国からの資金の受け取りを制限し、多くの組織を怖がらせて閉鎖させた。外国の教科書は中国の大学から一掃された。新聞は、愛国主義と際限のない習の賛美を繰り返す宣伝媒体と化した。



共産党大会で席につく江沢民元国家主席 Jason Lee-REUTERS

集団指導体制の終わり

党大会までの期間の習の目立ち方は、毛沢東以来の中国の指導者をはるかに上回っている。胡の場合は、国家主席時代でさえ存在感がなかった。だが習はあらゆるところに存在する。その姿はスローガン、ポスター、毎日のテレビに現れる。

習はこの権力で何をするのか。彼が抵抗を圧殺する権限を持った今、経済改革が次のステップだと信じる楽観主義者は、少数ながら存在する。

だがこれまでの兆候からすると、彼が目指すのは、経済など、生活の全てにおける共産党政権の優位性だろう。

それは党大会の冒頭で習自身が述べたことでもある。アメリカ人が9.11テロ以来体験しているように、治安を最優先にした国が警戒を緩めることは、強化するよりも難しい。

習の本当の人気がどれほどのものかは判断が難しい。確かに彼の基盤は、共産党の中心的な支持層である中年の住宅所有者にあるようだ。だが党内の基盤はそれほど確実ではない。

習の3代前に最高指導者だった鄧小平の功績は、49年の建国時から続く政治的な復讐のサイクルから国を脱出させたことだ。

その取り決めの一部である集団指導体制は、最高の地位にいても永遠に安泰ではないと知っている歴代指導者に支持されてきた。習は全てではないにしても、中国をまとめてきたそのつながりの一部を切り離した。

笑みを浮かべ、生き残るために卑屈な態度を取っても、党内の多くの人は個人的な憎悪を育んでいる。つまり習は22年に自分の正式な地位を退いても、報復を恐れて自らの権力を簡単に手放すことはできない。

重慶や大連でも、誰一人として習を直接的には批判しない。しかし今も薄を褒める人はいる。それは、いわば暗号化されたメッセージだ。自分たちのお気に入りだった政治家を失脚させることで権力基盤を固めた男を、決して許さないぞというメッセージである。

(筆者は匿名の中国特派員)

From Foreign Policy Magazine


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[2017.10.31号掲載]
フォーリン・ポリシー誌中国特派員(匿名)

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