<少子化対策を旗印に宗教右派が中絶反対を提唱、大国復活を目指すプーチンに規制を迫る>
9月のある風の強い日、ロシアの首都モスクワで風変わりな抗議行動が繰り広げられた。ロシア正教会系の活動家グループ「命のために」が市内の公園の一角に2000足の子供靴を並べて、人工妊娠中絶の禁止を呼び掛けたのだ。
主催者側によると、モスクワで実施される中絶手術は1日に2000件。同数の靴を並べたのは、「命を断たれた子供たちだって学校に行きたかった」と訴えるためだ。
そばに広げられた横断幕にはウラジーミル・プーチン大統領の言葉が書かれていた。「少子化対策は死活問題だ。ロシアが存続するか、消滅するかがそこに懸かっている」
中絶反対の抗議行動は、ここ数カ月間にロシアの40都市で展開されている。「中絶を禁止しなければ人口は増えない。人口が増えなければロシアの偉大な力は失われる」。「命のために」モスクワ支部のマリア・シテュデニキナはそう訴える。
ロシアでは今、宗教的な保守派を中心として中絶反対の声が高まっている。折しもプーチンはシリア内戦への介入に続き、朝鮮半島危機の打開でも主導権を取ろうと機会をうかがっている。中絶反対派はその野望に訴えようと、ロシアが大国であり続けるには「胎児殺し」は許されないと主張する。
プーチンはロシア正教会との連携を強めているが、中絶規制の強化についてはまだ考えを明らかにしていない。だが宗教右派に押されて、何らかの対応を取るのは時間の問題のようだ。
「命のために」は8月、中絶禁止を求める請願書に100万人の署名を集めたと発表した。プーチンと親しい関係にあるロシア正教会のキリル総主教も署名した1人だ。請願書は連邦下院に提出され、過半数の支持を得れば(その公算が大だ)、上院に提出されて、最終的には大統領府に提出されることになる。
ロシアではこれまで中絶手術は無料だった。だが中絶反対派は母体が危険にさらされない限り、中絶を医療保険の対象から外す法案を作成。目下、議会の委員会がこの法案を審査中だ。
突出するロシアの中絶率
プーチンがこの問題で発言を控えている理由の1つは、規制を強化すればヤミの中絶手術が横行する懸念があるからだ。ロシア保健省は不適切な措置による合併症の増加などで、国の負担する医療費が増加する可能性があると指摘している。
プーチンは世論の動向も気にしているはずだ。ロシア世論・市場調査センターの1年前の調査では、ロシア人の72%が中絶禁止に反対している。
ロシアでは早くから中絶が合法化されていた。社会主義政権樹立後まもない1920年、男女平等の旗を掲げて世界で初めて合法化に踏み切って以来、スターリン政権下で禁止された36年以降の20年間を除いて、この制度は世論に支持されてきた。
しかし現状には問題もある。多くのロシア女性は、避妊の唯一の手段として中絶を利用している。政府の統計では中絶手術を受ける女性は14年で年間約93万人。これでも減ったほうで、95年にはこの3倍。ソ連時代の65年には今の6倍で、中絶件数が新生児の出生数の3倍近くに上った。
欧米諸国と比べると、ロシアの中絶率は今でも極端に高い。新生児の出生数1000人に対して中絶件数は480件前後だが、アメリカでは200件前後。ドイツでは約135件だ。
中絶を禁止すれば出生数が増えるとは限らないが、ロシアでは少子化が深刻な問題であることは確かだ。欧米の制裁で経済が低迷するなか、死亡率は高く、合計特殊出生率(1人の女性が一生のうちに産む子供の平均数)は伸び悩んでいる。
現在の人口は1億4400万人だが、今世紀半ばには25%程度減るとの予測もある。ロシア連邦統計局によると、今年7月末までの出生数は昨年同時期と比べ1万7000人少ないという。
ロシア政府は07年から、第2子出産時に支給される7500ドル相当の出産手当などの少子化対策を実施してきた。ドミトリー・メドベージェフ首相は大統領を務めていた10年、ロシアが誇る劇作家のアントン・チェーホフも宇宙飛行士のユーリ・ガガーリンも第3子であり、第3子は国の宝だと演説。第3子の出産には無償で土地を与えるなどの優遇措置を導入した。
その一方でプーチン政権は、女性と性的少数者の権利を踏みにじる政策をためらわずに導入してきた。中絶論争の高まりは、女性の権利を制限する動きと同時進行している。
プーチンは13年、「同性愛の宣伝」を禁止する法案に署名した。欧州人権裁判所は今年6月、これを差別的な法律と判断し、罰金刑を受けた人に損害賠償するようロシア政府に命じた。
プーチンが今年2月に署名した家庭内暴力に対する刑罰を軽減する改定法案も、通称「平手打ち法」と呼ばれ、妻への夫の暴力を容認する法律として人権擁護団体の批判を浴びている。
伝統回帰の動きが拡大
こうした法改定の背景には、ロシアの家父長主義的な伝統を強化し、強い指導者として国を統率しようとするプーチンの思惑があると、米シンクタンク・外交問題評議会のケート・シェクターはみる。「強いリーダーシップが打ち出され、男女の伝統的な役割への回帰が叫ばれるなかで、もともとあった女性蔑視が一層ひどくなっている」
伝統回帰の動きは急速に強まっている。米調査機関ピュー・リサーチセンターの最近の調査によると、91年のソ連崩壊の前後にはロシア人の3分の1強にすぎなかった正教徒が、現在では70%を超えている。
正教会の価値観は女性の権利拡大の流れとしばしば衝突する。ピューによれば、正教徒が多数を占める国々では、女性は伝統的な役割にとどまるべきだという考えが根強い。ロシアでは妻は夫に従うべきで、女性の社会的役割は子育てだと答えた人が36%に上った。
宗教右派の極端な主張には一定の距離を置くプーチンだが、伝統回帰の運動は奨励している。プーチンが解き放った勢力が制御不能なほど拡大しているとの見方もある。「この手の動きはいったん解き放つと、もう抑え込めない」と、人権擁護団体ヒューマン・ライツ・ウォッチのユリア・ゴルブノワは言う。
「命のために」の集会は楽観ムードに包まれていた。プーチン政権は必ず中絶禁止に踏み切るというのだ。「人口危機の克服を支援したい」と、シテュデニキナは熱く語った。「私たちは大統領のために闘っている」
From Foreign Policy Magazine
【お知らせ】ニューズウィーク日本版メルマガリニューアル! ご登録(無料)はこちらから=>>
[2017.10.31号掲載]
エイミー・フェリスロットマン
9月のある風の強い日、ロシアの首都モスクワで風変わりな抗議行動が繰り広げられた。ロシア正教会系の活動家グループ「命のために」が市内の公園の一角に2000足の子供靴を並べて、人工妊娠中絶の禁止を呼び掛けたのだ。
主催者側によると、モスクワで実施される中絶手術は1日に2000件。同数の靴を並べたのは、「命を断たれた子供たちだって学校に行きたかった」と訴えるためだ。
そばに広げられた横断幕にはウラジーミル・プーチン大統領の言葉が書かれていた。「少子化対策は死活問題だ。ロシアが存続するか、消滅するかがそこに懸かっている」
中絶反対の抗議行動は、ここ数カ月間にロシアの40都市で展開されている。「中絶を禁止しなければ人口は増えない。人口が増えなければロシアの偉大な力は失われる」。「命のために」モスクワ支部のマリア・シテュデニキナはそう訴える。
ロシアでは今、宗教的な保守派を中心として中絶反対の声が高まっている。折しもプーチンはシリア内戦への介入に続き、朝鮮半島危機の打開でも主導権を取ろうと機会をうかがっている。中絶反対派はその野望に訴えようと、ロシアが大国であり続けるには「胎児殺し」は許されないと主張する。
プーチンはロシア正教会との連携を強めているが、中絶規制の強化についてはまだ考えを明らかにしていない。だが宗教右派に押されて、何らかの対応を取るのは時間の問題のようだ。
「命のために」は8月、中絶禁止を求める請願書に100万人の署名を集めたと発表した。プーチンと親しい関係にあるロシア正教会のキリル総主教も署名した1人だ。請願書は連邦下院に提出され、過半数の支持を得れば(その公算が大だ)、上院に提出されて、最終的には大統領府に提出されることになる。
ロシアではこれまで中絶手術は無料だった。だが中絶反対派は母体が危険にさらされない限り、中絶を医療保険の対象から外す法案を作成。目下、議会の委員会がこの法案を審査中だ。
突出するロシアの中絶率
プーチンがこの問題で発言を控えている理由の1つは、規制を強化すればヤミの中絶手術が横行する懸念があるからだ。ロシア保健省は不適切な措置による合併症の増加などで、国の負担する医療費が増加する可能性があると指摘している。
プーチンは世論の動向も気にしているはずだ。ロシア世論・市場調査センターの1年前の調査では、ロシア人の72%が中絶禁止に反対している。
ロシアでは早くから中絶が合法化されていた。社会主義政権樹立後まもない1920年、男女平等の旗を掲げて世界で初めて合法化に踏み切って以来、スターリン政権下で禁止された36年以降の20年間を除いて、この制度は世論に支持されてきた。
しかし現状には問題もある。多くのロシア女性は、避妊の唯一の手段として中絶を利用している。政府の統計では中絶手術を受ける女性は14年で年間約93万人。これでも減ったほうで、95年にはこの3倍。ソ連時代の65年には今の6倍で、中絶件数が新生児の出生数の3倍近くに上った。
欧米諸国と比べると、ロシアの中絶率は今でも極端に高い。新生児の出生数1000人に対して中絶件数は480件前後だが、アメリカでは200件前後。ドイツでは約135件だ。
中絶を禁止すれば出生数が増えるとは限らないが、ロシアでは少子化が深刻な問題であることは確かだ。欧米の制裁で経済が低迷するなか、死亡率は高く、合計特殊出生率(1人の女性が一生のうちに産む子供の平均数)は伸び悩んでいる。
現在の人口は1億4400万人だが、今世紀半ばには25%程度減るとの予測もある。ロシア連邦統計局によると、今年7月末までの出生数は昨年同時期と比べ1万7000人少ないという。
ロシア政府は07年から、第2子出産時に支給される7500ドル相当の出産手当などの少子化対策を実施してきた。ドミトリー・メドベージェフ首相は大統領を務めていた10年、ロシアが誇る劇作家のアントン・チェーホフも宇宙飛行士のユーリ・ガガーリンも第3子であり、第3子は国の宝だと演説。第3子の出産には無償で土地を与えるなどの優遇措置を導入した。
その一方でプーチン政権は、女性と性的少数者の権利を踏みにじる政策をためらわずに導入してきた。中絶論争の高まりは、女性の権利を制限する動きと同時進行している。
プーチンは13年、「同性愛の宣伝」を禁止する法案に署名した。欧州人権裁判所は今年6月、これを差別的な法律と判断し、罰金刑を受けた人に損害賠償するようロシア政府に命じた。
プーチンが今年2月に署名した家庭内暴力に対する刑罰を軽減する改定法案も、通称「平手打ち法」と呼ばれ、妻への夫の暴力を容認する法律として人権擁護団体の批判を浴びている。
伝統回帰の動きが拡大
こうした法改定の背景には、ロシアの家父長主義的な伝統を強化し、強い指導者として国を統率しようとするプーチンの思惑があると、米シンクタンク・外交問題評議会のケート・シェクターはみる。「強いリーダーシップが打ち出され、男女の伝統的な役割への回帰が叫ばれるなかで、もともとあった女性蔑視が一層ひどくなっている」
伝統回帰の動きは急速に強まっている。米調査機関ピュー・リサーチセンターの最近の調査によると、91年のソ連崩壊の前後にはロシア人の3分の1強にすぎなかった正教徒が、現在では70%を超えている。
正教会の価値観は女性の権利拡大の流れとしばしば衝突する。ピューによれば、正教徒が多数を占める国々では、女性は伝統的な役割にとどまるべきだという考えが根強い。ロシアでは妻は夫に従うべきで、女性の社会的役割は子育てだと答えた人が36%に上った。
宗教右派の極端な主張には一定の距離を置くプーチンだが、伝統回帰の運動は奨励している。プーチンが解き放った勢力が制御不能なほど拡大しているとの見方もある。「この手の動きはいったん解き放つと、もう抑え込めない」と、人権擁護団体ヒューマン・ライツ・ウォッチのユリア・ゴルブノワは言う。
「命のために」の集会は楽観ムードに包まれていた。プーチン政権は必ず中絶禁止に踏み切るというのだ。「人口危機の克服を支援したい」と、シテュデニキナは熱く語った。「私たちは大統領のために闘っている」
From Foreign Policy Magazine
【お知らせ】ニューズウィーク日本版メルマガリニューアル! ご登録(無料)はこちらから=>>
[2017.10.31号掲載]
エイミー・フェリスロットマン