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ジェンキンス死去、波乱の人生の平穏な最終章

ニューズウィーク日本版 2017年12月21日 12時0分

<国際情勢の渦にのみ込まれて数奇な運命をたどったジェンキンスが、妻の故郷・佐渡で最後に送った静かな日々>

2017年12月11日、元米陸軍兵のチャールズ・ロバート・ジェンキンスが新潟県佐渡市で77歳で死去した。

ジェンキンスは自宅玄関の前で倒れているところを発見され、搬送先の病院で死亡が確認された。遺体は検視でMRI検査にもかけられたが、結局死因はよく分からず、死亡診断書には「致死性不整脈」と記された。

ジェンキンスが、北朝鮮による拉致被害者である妻・曽我ひとみの故郷、佐渡市に初めて降り立ったのは04年のこと。40年にわたる北朝鮮での生活を経て、突然日本に移住することになったジェンキンスは、本心ではアメリカに帰国して暮らしたかったという。だが妻のために日本で骨を埋めることを決めた。

初めて佐渡島に入った日、ジェンキンスはこれからの日本での生活を前に、こんな決意の言葉を残している。「今日は私の人生の最終章の始まりとなる日です」

日本で13年間、「人生の最終章」を過ごしたジェンキンス。波乱に満ちた彼の人生を振り返ると、見えてくるのは運命に翻弄され国際的な注目を浴びる特異な存在に祭り上げられながらも、普通の生活に幸せと悲しみを感じ、弱さがありながらも環境の変化に適応して生きた、どこにでもいる人間くさい男の姿だった。

ジェンキンスの人生は数奇なものだった。1965年、在韓米軍に配属されていたジェンキンスは、戦闘が激化していたベトナムに送られるのを恐れ、10缶のビールを飲んだ勢いで北朝鮮に逃亡した。たどり着いた独裁政権の北朝鮮では、政府から命じられるまま教師などをして暮らした。80年には政府の思惑どおりに曽我と結婚した。

全く自由のない暮らしの中でも結婚後は長女の美花、次女のブリンダを儲け、家庭生活にささやかな幸せを見いだした。

だがそんな日々が突然、一変したのは02年だった。日朝首脳会談で北朝鮮が日本人拉致被害者の存在を認めると、妻の曽我は日本に帰り、家族は引き裂かれてしまう。当時、ジェンキンスは北朝鮮で「もう妻に会えない」と酒を飲んでわめくこともあったと、長女の美花は今も記憶している。

そして2年後、曽我一家はインドネシアのジャカルタで再会する。ジェンキンスは落ち着きを取り戻して妻と共に日本行きを決心した。



ただ日本での生活も当初は平穏なものではなかった。曽我の故郷である佐渡島に渡ってからも、時の人として注目を浴びる日々を過ごした。言葉の分からない国で自分を取り巻いて繰り広げられる喧騒――。そんな生活の中で酒の量が増えた時期もあった。

好きなバイクを3台所有

ジェンキンスは佐渡でどんな暮らしぶりだったのか。日本語を学ぼうとしなかったジェンキンスの唯一と言っていい友人で、通訳を務めていた本間啓五は、「日本での生活を満喫したと思う。縛るものは何もなく、自由に暮らせたのだから」と語る。

例えば、大好きなバイクを3台所有し、天気のいい日は佐渡島をツーリングした。そんなことから、バイク雑誌の表紙を飾ったこともあった。しかし「バイクは危ない」という妻の要望で、ジェンキンスは70歳を機に乗るのをやめた。

普段は佐渡市内の土産物店に勤めていた。職場には自慢の軽自動車で通勤し、遅刻することはなく、勤務態度は至って真面目。12年に筆者が取材した際に、「北朝鮮での年収を1カ月ほどで稼げるからやりがいはある」と目を輝かせて語っていたジェンキンスは、仕事に生きがいを見いだしていた。

自宅に帰ると、介護施設に勤める勤務時間の不規則な妻と保育施設で働く長女の帰宅を待ちながら、好きな酒を飲んだり、自宅裏の畑をいじったりした。相変わらず酒はよく飲んだが、健康状態は良好だった。

北朝鮮の自宅前で長女と。北朝鮮での暮らしは不自由だったが家族との生活は幸せだった Toshihiro Yamada

夫婦の仲も悪くなく、本間に言わせると「どこにでもいる夫婦」だった。酒を控えるよう曽我に言われていたジェンキンスは、自宅の蔵などあちこちに酒を隠していた、と本間は笑う。家で1人のときは、溺愛していた愛犬のゴールデンレトリバーをそばに置いて、蔵で飲むこともあったという。

ジェンキンスは、妻が積極的に参加する拉致被害者の早期の帰国を求める署名活動に姿を見せることはほぼなかった。帰国者による節目の会見などにも顔を出さなかった。「日本語がしゃべれないから」と言う人もいるが、署名活動なら言葉は必要ない。拉致被害者ではないという自身の立場から、あえて一歩引いて、積極的に関わらなかったと指摘する関係者もいる。

そんなジェンキンスに転機が訪れたのは、2年ほど前のこと。愛犬のゴールデンレトリバーが死んだのだ。さらにその数カ月後には、まだ結婚前だった次女ブリンダの誕生日にジェンキンスがプレゼントしたチワワも死んだ。

ジェンキンスは、それまで見たことのないような落ち込みぶりだったと家族や知人は口をそろえる。周囲は「ペットロス」になったジェンキンスの様子をかなり気に掛けていたという。



倒れている父を娘が発見

さらに追い打ちをかけるように、17年4月には自宅で転倒して足首を骨折した。手術をしてボルト2本を入れなければいけないほどのけがで、それからは右手で杖を突いて歩くように。もともと丈夫ではなかった足腰がさらに弱くなった。

ただそんな中でも曽我家にはうれしい知らせが届いた。8月、次女に男児が生まれたのだ。すぐに夫婦そろって新潟県西部に暮らす次女の元を訪ね、初孫の誕生を祝った。結果的に、これが曽我夫婦にとっては、最後の旅行になった。本間は「目元がジェンキンスさんそっくりだね」と言われて相好を崩す姿が今も脳裏に焼き付いている。

骨折の後、今も同居する長女の美花は帰宅が少し遅くなると自宅で一人きりのジェンキンスのことを心配し、帰りの車では気をもんだ。「自宅に着いて何も異常がないとホッとする」と知人に漏らしていた。

しかし12月11日、恐れていたことが現実になった。自宅前でジェンキンスが倒れているのを最初に発見したのは美花だった。ショックは大きいはずだが、通夜の日、知人に連絡して「心配をおかけしてすみません」と気丈に振る舞ったという。

帰国直後から曽我の専属ソーシャルワーカーを務めた伊藤環は、「また家族と『離れ離れ』になったひとみさんが気の毒でならない」と言う。曽我は、ジェンキンス死亡のニュースを受けて、「今は何も考えられません」とコメントするのが精いっぱいだった。

ジェンキンスは曽我と再会して日本に渡り、ようやく人間らしい生活を送ることができた。そして不自由のない穏やかな暮らしの中で、人間らしいささやかな喜びや悲しみを感じながら、数奇だった人生を全うした。

<本誌2017年12月26日号[最新号]掲載>

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山田敏弘(ジャーナリスト)

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