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日本政府はなぜ中朝首脳会談を予見できなかったのか

ニューズウィーク日本版 2018年3月30日 18時0分

日本政府は訪中したのが金正恩だと予見できなかったようだ。しかし中朝関係を中韓国交樹立時に遡れば、予見は容易だったはずだ。実は金正恩の訪中時期の可能性は3月21日から末日までの10日間と、ピンポイント的だった。

中韓国交樹立以来の中朝関係

1991年12月にソ連が崩壊するまで、北朝鮮は中ソ対立の間で漁夫の利を得ていた。ところがソ連が崩壊すると主たる後ろ盾を失ったので、中国に経済支援を求めようとした。

ところがその中国が92年に、北朝鮮にとっての目の前の敵国である韓国と国交を樹立してしまったのだ。朝鮮戦争はまだ終わっていない。休戦協定があるだけだ。しかも休戦協定第4条第60節には「締結後3ヵ月以内にいかなる他国の軍隊も南北朝鮮から撤退しなければならない」と書いてあるが、在韓米軍はいまだに撤退していない。

だから北朝鮮としては、米韓は休戦協定に違反しただけでなく、まだ交戦中であるという強い認識を持っていた。

その韓国と、北朝鮮にとって唯一の軍事同盟国となった中国が国交を樹立するというのは、最大の裏切りだ。

当時の金日成(キム・イルソン)国家主席&総書記は激怒した。

「それなら我々は中華民国・台湾と国交を樹立してやる」と怒ったのだ。

それに対して当時の中国の実際上の指導者、鄧小平は

「やるならやってみろ!それならこっちは、中朝国交を断絶してやる!」とやり返した。

そのような中朝間の大ゲンカの結果、結局は旧ソ連の肩代わりとして、中国が北朝鮮への経済支援をするということで両者は妥協することとなった。

第一次南北首脳会談前の儀式的仁義

そんな北朝鮮が韓国と南北首脳会談を行うということになってしまった。2000年、金大中(キム・デジュン)大統領の時だ。

あれだけ中国を罵倒しておきながら、その国の大統領と会談するのだから、これは何ともバツが悪い。

そこで2000年5月に金正日(キム・ジョンイル)は最高指導者就任後初めての外遊として、中国を訪問した。「悪いんですが、私もあの韓国の首脳と会談を行いますので......」という「ご挨拶」に行ったわけだ。

唯一の軍事同盟国である中国に「仁義」を切っておかないと、北朝鮮としては前に進めなかったのである。

こうして2000年6月、金正日は金大中と、歴史上初めての南北首脳会談を行なった次第なのである。

第二次南北首脳会談前の複雑な事情

第二回目の南北首脳会談が2007年10月に行われようとしていた。相手は現在の文在寅大統領が仕えていた韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領である。

このとき金正日は何としても事前に訪中しようと、あらゆる努力を試みていた。中国側は金正日のその努力を認識している。しかし金正日はこのとき既に体調が思わしくなく、2008年に遂に脳卒中で倒れてしまった。2006年1月に訪中して胡錦濤元国家主席と会談したり、経済開発地区などを視察しており、それを以て「仁義」は果たしたと考えるので、中国側としては無理をしないよう、最大限の配慮を示している。



その後回復した金正日は、まるでこの時「仁義」を欠いたことを埋め合わせるかのように、無理を押して2010年から二度も訪中を強行し、死去寸前まで中朝首脳会談を行おうと努力し続けた。

金正日が埋め合わせをした訪中

金正日の体調不良に配慮して、まず2008年6月に当時の習近平国家副主席が平壌を訪問し、胡錦濤の親書を金正日に手渡した。続いて2009年10月に、当時の温家宝首相が平壌を訪問して、やせ細ってしまった金正日を慰問している。

脳卒中から何とか回復した金正日は、2010年8月に訪中し胡錦濤と会談した。そしてこの吉林省や黒竜江省および江蘇省揚州を視察している。

吉林省では長春にも立ち寄っているのだが、このとき筆者は、自分の生まれ故郷である長春市の大学の学長から招聘を受けていて、胡錦濤が宿泊していた同じ賓館に、ちょうど宿泊していたというあまりに偶然の経験をしている。したがって、この前後の金正日の動きと中国側の対応を、目の前で見ており、印象が深い。

最後の中国への公式訪問は2011年5月。

逝去はその7カ月後の2011年12月だった。死去寸前まで訪中して、2007年第二回南北会談に際しての仁義の欠如を補おうとしていた。

第三次南北首脳会談前の「仁義」

こうして、第三次南北会談が今年4月に行われようとしているのだから、当然のことながら、会談前の仁義を切ることは十分に予見できたはずである。

それも、金正恩が南北首脳会談を行うと示唆したのは3月1日だ。

3月5日からは中国では全人代(全国人民代表大会)が始まっている。会期は3月20日まで。

その間に南北首脳会談は4月に行われると南北で合意がなされていた。

となれば、もし金正恩が訪中するとなれば、3月21日から3月31日までの10日間しかない。

ピンポイントで絞られていた金正恩の訪中時期

つまり金正恩が仁義を切るために訪中する時期というのは、3月21日から31日の間という、ピンポイントで絞られていたはずだ。

だから筆者は3月27日のコラム「金正恩氏、北京電撃訪問を読み解く――中国政府高官との徹夜の闘い」で書いたように、3月27日の早朝の時点で、「訪中している北朝鮮要人は金正恩だ」と、「断定形」で書いてしまったのである。

それは、以上のような1992年以来の動きを観察してきた「直感」あるいは肌感覚のようなものが決断を促したのだったが、それでも万一間違えたら、これで社会生命を失うと、内心は怖かった。コラムを発表してから、韓国および中国の公式発表があるまで、生きた心地はしなかった。他のメディア同様、なぜ「金正恩か」と「か」を入れなかったのかと自責の念にさいなまれた。それだけに、やはり金正恩だったと判明した時には、もう他のことはどうなってもいいと思うほどに安堵したものだ。



日本政府に欠けていたもの

だというのに、日本政府ともあろうものが、27日の夜に至ってもなお、訪中した北朝鮮要人が誰であるかを確認できずにいたというのは実に残念だ。もしかしたら確認は出来ていたが、発表できないでいたのかもしれないと、善意に解釈することもできる。

しかし、情報網と分析力に欠けていたのではないかという印象は否めない。

分析力が欠如したのは、北朝鮮問題を分析する際に、目前の現象ばかりに目を奪われて、そもそもの北朝鮮問題の根源はどこにあるのかを見ようとしない傾向にあることが一つ指摘される。

それは朝鮮戦争の休戦協定が、どのように米韓によって破られてきたのかを直視する勇気を持っていない日本全体の空気のせいでもあると筆者の目には映る。

この盲点を描いたのが『習近平vs.トランプ 世界を制するのは誰か』第3章「北朝鮮問題と中朝関係の真相」だ。日本人全体として、この事実を認めたがらない傾向にある。その感情は理解できる。

しかし日本政府は、そこに「感情」を入れたがらない。

感情を入れたが最後、偏見が生まれ、真実を見る目が濁り、次に何が起きるかという予見もできないのである。

予見ができなければ、日本は必ずハシゴを外される。日本が外交的失敗に陥ることを最も懸念する。

それがどれだけ国益を損ねるか、今後の未来予測のためにも反省を促したい。そして、今後そのようにならないことを心から期待したいと思う。

[執筆者]遠藤 誉
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会科学研究所客員研究員・教授などを歴任。著書に『習近平vs.トランプ 世界を制するのは誰か』(飛鳥新社)『毛沢東 日本軍と共謀した男』(中文版も)『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など多数。


※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

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遠藤誉(東京福祉大学国際交流センター長)

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