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日本在住外国人を対象にした日本語教育への提言 - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

ニューズウィーク日本版 2018年5月29日 18時30分

<外国人への日本語教育に予算がついて内容の充実が図られるのは良いが、各人の母語でのレクチャーを重視し、「です・ます調」を標準とすることが望まれる>

超党派の「日本語教育推進議員連盟」(会長・河村建夫元文部科学大臣)が、国内における外国人に対する日本語教育の充実を目指す「日本語教育推進基本法」(仮称)の原案をまとめたそうです。この原案では「多様な文化を尊重した活力ある共生社会の実現に資する」と明記した上で、「希望する全ての人に日本語教育を受ける機会を確保する」こと、そして「国と地方自治体が役割を分担して施策を策定し、実施する責務がある」という規定をしています。

良いことだと思います。この法律を根拠として全国における就労者、留学生、児童生徒などを対象とした日本語教育に予算がついて、質量の充実が図られることを期待したいと思います。

その際に、以下の2つの点について議論を深めることを提案したいと思います。

1つ目は、学習者の母語をどう考えるかという点です。日本における現在の日本語教育というのは、様々な国から来た人が一緒に学ぶというスタイルを取ることが多いわけです。それぞれの教育機関では、初級なら初級、中級なら中級レベルの生徒が集められるわけですが、そこには世界各国から来た人が一緒に学ぶようになっています。

そのために、共通語というのはないか、学習途上の日本語が共通語ということになります。教師が多くの場合、日本語ネイティブであることも含めて、教室内では文法や文化の説明や、作業に関するコマンドも全て日本語ということになります。

それは「イマージョン教育」であって言語教育としては理想的だという見方もあると思いますが、必ずしもそうではないと思います。せっかく予算が増えて、全国で努力が拡大するのであれば、出身国、出身文化圏の生徒を集め、母語でしっかりと日本社会、日本文化、日本の価値観や生活習慣に関するレクチャーをしてゆくべきと思います。日本の社会へとけ込んでもらうためにも、その方が効率的と思います。

母語が確立する以前の子供たちに関しては、また別の問題があります。日本に永住する資格があって、家族として具体的にその計画や見通しを持っている場合は、日本語教育の目的は「一刻も早く、日本の普通の教室で学べるレベル」へ持って行くことが至上命題になります。日本から英語圏へ留学する学生が、一刻も早くESLなどの語学教室を「卒業」して、必須単位のための授業に参加しなくてはならないのと同じことです。

一方で、日本での滞在が期間限定の場合は、日本語を頑張って伸ばすことももちろん大切ですが、帰国後の生活に備えて母語の教育が保証されなくてはなりません。アメリカに来ている駐在員家庭のお子さん方が、週末には日本語補習学校に通って、日本の教科書で勉強しているように、日本在住の外国人の子供たちも母語教育の機会が提供されるべきです。そうした教育への経済的な支援は母国の責任ですが、日本の教育機関も、そのような母語教育への理解を示して連携する体制は必要ではないかと思います。

2つ目は、どんな日本語を教えるのかという問題です。最近の日本ブームを受けて海外の「日本好き」の若者の間では、日本のドラマやバラエティで使われるテンポのいい「タメ語」、つまり「だ、である調」の言葉を一刻も早く習得したがる傾向があります。

もちろん、生きた日本語をどんどん耳から学んで行くのは、素晴らしいことですし、習得のペースも上がって行くことになると思います。ですが、その一方で、「だ、である調」には難しさもあります。まず、文法的には動詞の変化が「です、ます」よりも数倍複雑になります。

それから、「だ、である調」は「ね」とか「よ」、あるいは「わ」「よね」といった「助詞(てにをは)」と結びつくことで、感情をダイレクトに表現する機能があります。そのためもあって、非常にカラフルなニュアンスを表現することになる一方で、TPOに合った表現を正確に選ぶのは、ネイティブでも難しいわけです。

この「だ、である調」のニュアンスに関しては、世代によって、地方によって異なることもあり、日本語ネイティブの間でも「失礼だ」とか「そんなつもりじゃないのに」といったトラブルの元になります。ただし、外国人の場合は、エラーの度合いが大きいために、誤解されてトラブルになるよりは、面白いということで許されるケースが多いのも事実ですが、それはそれで問題だと思います。

これは1つの提案なのですが、そのようなニュアンスがむき出しの「だ、である調」ではなく、個人と個人が対等にお互いをリスペクトするような「です、ます調」を社会のデフォルトにして行くのはどうでしょうか?

今の若い日本語ネイティブの世代には「です、ます調」は敬語であって、パーソナルな感じがしないし冷たいというイメージを持たれているようです。ですが、それはあくまで内輪のコミュニケーションの場合であって、職場や、小売を含めた取引の現場などで、格下の人間は「です、ます」の使用を強制され、反対に目上が一方的に「だ、である」を使うのは非人間的な権力行使になる、と言いますか、それ自体がパワハラであるとも言えます。

そして、日本語の非ネイティブの場合は、「だ、である+助詞」の表現のパーフェクトなニュアンス発信・受信は大変に難しく、結局は非ネイティブとネイティブの間には薄い膜のようなものがいつまでも残るように思います。

超党派議員連盟の皆さんの言う「多様な文化を尊重した活力ある共生社会の実現」ということを具体的に実現するには、1番目の「各人の母語へのリスペクト」ということと、2番目の「です、ます調を社会のデフォルトに」ということが有効な手段になると思います。


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