<ベランダから落ちそうな子供を救った不法移民は、市民権と消防士の仕事を得た。だがそこから10分のサンドニ運河では機動隊600人が難民たちのテント村を撤去している。ただしこれは追い出すのではない、もっと尊厳を保てる場所に移すのだ>
パリの北部で「スパイダーマン」さながらにマンションの外壁をよじ登り、ベランダから落ちそうになっていた4歳の男の子を助けたアフリカ・マリ出身のマムドゥ・ガサマさん。この勇気ある青年が不法滞在であることがわかると、滞在許可を与えるよう署名運動が起こり、5月28日にはマクロン大統領みずからが会ってフランスへの帰化と消防士の仕事を約束した。
この美談の陰で、救出劇の現場から北東に車で10分とかからないサンドニ運河では、30日早暁機動隊員600人が出動して岸にならぶ1016人の難民たちのテント村が撤去された。
テント村の撤去は3年間で35回目だという。その中でも最大のものは2年前の2016年11月4日にあった。男の子が救出された現場から南へ歩いて10分ほどのメトロ高架下で3,800人が寝泊りしていた。この5月30日のサンドニ運河のときの3倍以上である。あの頃、1日に80人新しい難民が到着していたという。当時の内務大臣は、警察を常駐させて新しいキャンプができるのを阻止するといっていたが、また別のところにできただけだったのだ。
パリの運沿いにできたテント村を撤去する警察(3月30日)Benoit Tessier-REUTERS
不法占拠が撤去の理由ではない
よく誤解されるが、これは難民の追い出しではない。
たしかに、テント村があるために、13日に予定されていたパリ・レピュブリック広場からサンマルタン運河・サンドニ運河に沿ってサンドニ競技場とを結ぶ10km競走「大パリ大レース」も中止になるというようなこともあった。
もともとはパリと移民の多い郊外とを結ぶことで、移民が住民の中に溶け込み、住民も移民を自分たちの仲間だと思えるようにしようという志を持ったイベントだったのだが、皮肉なことに、まさに極限の移民というべき難民たちのテントがコースに並んだためにレースができなくなってしまったのである。
それはともかく、公道の不法占拠がテントの撤去の理由ではない。
5月はじめには難民が運河であいついて2名溺死する事件が起きたし、テント村や周辺の衛生状態も悪くなっている。
人としての尊厳を保てる生活ができていないからである。
難民たちは、パリ地方に用意された臨時受け入れ施設に移される。身寄りのない未成年者、女性、家族づれは特別施設にいく。難民たちは、それらの施設で一カ月ほど暮らし、亡命申請をする。そして、フランス国中の宿舎に分散される。現在亡命審査期間は平均11ヶ月。そこで認められたものは自活、ハネられた者は国外退去や強制送還となる。
昨年『パリのすてきなおじさん』という本に協力した。そのとき、救出劇の現場から真北に車で5分ほどのパリの出口、ポルト・ド・ラ・シャペルというところの難民テント村に行った。
著者の金井真紀さんは書いている。「あの人たち、なにをしているんだろ?と注意してみると、かれらはなにもしていないのだった。たとえ日向ぼっこや夕涼みでも、よしんば路上に寝ているとしても、それは意志のある行為だけど、彼らはそうではない。なにもやることがない人間が陥る無表情。ふしぎな重さと静けさだった」、まさにそのとおりだった。
慈善団体が配給した食パン、オレンジ、野菜ジュースなどの入ったビニール袋を持ったアフガニスタン出身の髯面の28歳の男性が、英語で「テントに来るか」と言った。高速道路の橋の下に太い鉄柵がならべられて隔離されている。柵の中に入ろうとすると、フランス語の流暢な若者が現れた。アラブ移民っぽい人でベルギー人だといった。どうもここを取り仕切っているブローカーの一味らしい。
難民たちはみんな祖国でブローカーに5,000ドルだ8,000ドルだという大金を渡している。ときには旅の途中でまた何度も金を取られる。彼らはイギリスでの平和と仕事、家族への仕送り、そしていつかは妻や子を呼び寄せるという夢を見てスシ詰めのゴムボートに乗り、ひたすら歩く。ところが、ようやく何カ月も何年もかかってドーバー海峡にたどり着くと、もはやその先へはいけない。地中海からフランスまでは陸続きだが、目の前は海。そして、イギリスはここを渡ってくる難民を一切受け入れない。
ブローカーさえいなければ
臨時受け入れ施設は、首都圏の24の体育館などで、キャンプ用の簡易ベッドが急いでならべられた災害の避難所のようなものだが、テント村よりはまだましだ。なにより、村を取り仕切るブローカーたちから逃れることができる。
私は不思議でならない。これほどはっきりとした元凶の一つであるブローカーたちをなぜ国際協力して取り締らないのだろうか? 奴らさえいなければ相当数の男たちはこんな旅に出ることはなかっただろう。
5月30日のテレビニュースは「すべて平穏におわり、移民たちはパリ地方の受け入れ施設に向かった」と報じた。
粗末な私物をかかえた男たちが長い列を作って、一人一人身分証明チェックをうけた。もう日は高くなっている。そして粛々とバスに乗った。ただただ無表情に。
[執筆者]
広岡裕児
1954年、川崎市生まれ。大阪外国語大学フランス語科卒。パリ第三大学(ソルボンヌ・ヌーベル)留学後、フランス在住。フリージャーナリストおよびシンクタンクの一員として、パリ郊外の自治体プロジェクトをはじめ、さまざまな業務・研究報告・通訳・翻訳に携わる。代表作に『EU騒乱―テロと右傾化の次に来るもの』(新潮選書)、『エコノミストには絶対分からないEU危機』(文藝春秋社)、『皇族』(中央公論新社)他。
広岡裕児(在仏ジャーナリスト)
パリの北部で「スパイダーマン」さながらにマンションの外壁をよじ登り、ベランダから落ちそうになっていた4歳の男の子を助けたアフリカ・マリ出身のマムドゥ・ガサマさん。この勇気ある青年が不法滞在であることがわかると、滞在許可を与えるよう署名運動が起こり、5月28日にはマクロン大統領みずからが会ってフランスへの帰化と消防士の仕事を約束した。
この美談の陰で、救出劇の現場から北東に車で10分とかからないサンドニ運河では、30日早暁機動隊員600人が出動して岸にならぶ1016人の難民たちのテント村が撤去された。
テント村の撤去は3年間で35回目だという。その中でも最大のものは2年前の2016年11月4日にあった。男の子が救出された現場から南へ歩いて10分ほどのメトロ高架下で3,800人が寝泊りしていた。この5月30日のサンドニ運河のときの3倍以上である。あの頃、1日に80人新しい難民が到着していたという。当時の内務大臣は、警察を常駐させて新しいキャンプができるのを阻止するといっていたが、また別のところにできただけだったのだ。
パリの運沿いにできたテント村を撤去する警察(3月30日)Benoit Tessier-REUTERS
不法占拠が撤去の理由ではない
よく誤解されるが、これは難民の追い出しではない。
たしかに、テント村があるために、13日に予定されていたパリ・レピュブリック広場からサンマルタン運河・サンドニ運河に沿ってサンドニ競技場とを結ぶ10km競走「大パリ大レース」も中止になるというようなこともあった。
もともとはパリと移民の多い郊外とを結ぶことで、移民が住民の中に溶け込み、住民も移民を自分たちの仲間だと思えるようにしようという志を持ったイベントだったのだが、皮肉なことに、まさに極限の移民というべき難民たちのテントがコースに並んだためにレースができなくなってしまったのである。
それはともかく、公道の不法占拠がテントの撤去の理由ではない。
5月はじめには難民が運河であいついて2名溺死する事件が起きたし、テント村や周辺の衛生状態も悪くなっている。
人としての尊厳を保てる生活ができていないからである。
難民たちは、パリ地方に用意された臨時受け入れ施設に移される。身寄りのない未成年者、女性、家族づれは特別施設にいく。難民たちは、それらの施設で一カ月ほど暮らし、亡命申請をする。そして、フランス国中の宿舎に分散される。現在亡命審査期間は平均11ヶ月。そこで認められたものは自活、ハネられた者は国外退去や強制送還となる。
昨年『パリのすてきなおじさん』という本に協力した。そのとき、救出劇の現場から真北に車で5分ほどのパリの出口、ポルト・ド・ラ・シャペルというところの難民テント村に行った。
著者の金井真紀さんは書いている。「あの人たち、なにをしているんだろ?と注意してみると、かれらはなにもしていないのだった。たとえ日向ぼっこや夕涼みでも、よしんば路上に寝ているとしても、それは意志のある行為だけど、彼らはそうではない。なにもやることがない人間が陥る無表情。ふしぎな重さと静けさだった」、まさにそのとおりだった。
慈善団体が配給した食パン、オレンジ、野菜ジュースなどの入ったビニール袋を持ったアフガニスタン出身の髯面の28歳の男性が、英語で「テントに来るか」と言った。高速道路の橋の下に太い鉄柵がならべられて隔離されている。柵の中に入ろうとすると、フランス語の流暢な若者が現れた。アラブ移民っぽい人でベルギー人だといった。どうもここを取り仕切っているブローカーの一味らしい。
難民たちはみんな祖国でブローカーに5,000ドルだ8,000ドルだという大金を渡している。ときには旅の途中でまた何度も金を取られる。彼らはイギリスでの平和と仕事、家族への仕送り、そしていつかは妻や子を呼び寄せるという夢を見てスシ詰めのゴムボートに乗り、ひたすら歩く。ところが、ようやく何カ月も何年もかかってドーバー海峡にたどり着くと、もはやその先へはいけない。地中海からフランスまでは陸続きだが、目の前は海。そして、イギリスはここを渡ってくる難民を一切受け入れない。
ブローカーさえいなければ
臨時受け入れ施設は、首都圏の24の体育館などで、キャンプ用の簡易ベッドが急いでならべられた災害の避難所のようなものだが、テント村よりはまだましだ。なにより、村を取り仕切るブローカーたちから逃れることができる。
私は不思議でならない。これほどはっきりとした元凶の一つであるブローカーたちをなぜ国際協力して取り締らないのだろうか? 奴らさえいなければ相当数の男たちはこんな旅に出ることはなかっただろう。
5月30日のテレビニュースは「すべて平穏におわり、移民たちはパリ地方の受け入れ施設に向かった」と報じた。
粗末な私物をかかえた男たちが長い列を作って、一人一人身分証明チェックをうけた。もう日は高くなっている。そして粛々とバスに乗った。ただただ無表情に。
[執筆者]
広岡裕児
1954年、川崎市生まれ。大阪外国語大学フランス語科卒。パリ第三大学(ソルボンヌ・ヌーベル)留学後、フランス在住。フリージャーナリストおよびシンクタンクの一員として、パリ郊外の自治体プロジェクトをはじめ、さまざまな業務・研究報告・通訳・翻訳に携わる。代表作に『EU騒乱―テロと右傾化の次に来るもの』(新潮選書)、『エコノミストには絶対分からないEU危機』(文藝春秋社)、『皇族』(中央公論新社)他。
広岡裕児(在仏ジャーナリスト)