1991年に北朝鮮で「拉致講義」を受けた李教授が「拉致被害者は生きている!」と証言。その講義内容と当時の日本政府の対応から、日朝首脳会談に対する日本の心構えを考察する。日本は拉致問題「満額回答」を手にしなければならない。
金丸訪朝効果で北朝鮮に留学
現在、関西大学経済学部の教授(北朝鮮社会経済論)をしておられる李英和(リ・ヨンファ)氏は、まだ同大学の専任講師だった1991年4月(~9月)に北朝鮮の朝鮮社会科学院に短期留学をした。
1990年9月26日、自民党の金丸信氏(当時、副総理)を代表とする訪朝団が金日成(キム・イルソン)主席と会い、もう一歩で日朝国交正常化にたどり着くところだった。
実は韓国は1990年9月末に旧ソ連との国交を樹立している。新思考外交を打ち出したゴルバチョフ書記長の登場により1988年のソウルオリンピックに旧ソ連は代表団選手を送り、55個も金メダルを獲得して総合1位となった。この辺りから北朝鮮は北東アジアにおける孤立化を恐れ、日本との国交正常化に活路を見いだそうとしていたということができよう。
そのような流れの中で李英和氏に北朝鮮留学のチャンスが巡ってきたのである。偶然にも関西大学では1年間の在外研究の順番が回ってきたので、李英和氏は欧米を希望せず、北朝鮮を希望してみたという。留学というよりは訪問学者の短期研修なのだが、分かりやすいので短期留学という言葉を使う。
本来なら北朝鮮から許可が下りるはずもなかったが、金丸訪朝の効果は大きく、朝鮮社会科学院に留学することが叶った。当時、「北朝鮮留学第1号」として毎日新聞が大きく報道(以後、第2号はいないので、彼が唯一である)。
しかし北朝鮮に入国してみると、あまりに極端な個人崇拝や監視社会の実態、あるいは庶民生活の経済破綻を知るに及び、北朝鮮に激しく失望したという。
危険を冒して反体制の知識人と接触したりしたので、日本に帰国するときには、万一にも拘束されたり暗殺されたりしないように、命の保険のために毎日新聞に依頼して、再度、帰国を大きく扱ってもらったとのこと。
帰国前に受けた「拉致講義」の内容
朝鮮社会科学院の教官は92年11月、李英和氏の日本帰国予定の約1ヶ月前に、突然「拉致講義」をすると言ってきた。ということは「日本に帰って、話してもいい」と理解した。教官は監視兼世話役の朝鮮社会科学院准博士。工作機関からの指示であることは明らかだった。
以下に、李英和教授が教えて下さった「拉致講義」の概要を、ほぼ原文通りに記す(したがって文中にある「私」は李英和氏本人を指す)。
1.講義の場所は宿舎の部屋の中ではなく、公園で歩きながら。秘密警察の盗聴を嫌ってのこと。拉致は、秘密警察ではなく、工作機関の犯行と管轄なので。
2.工作機関による計画的な日本人拉致作戦は、1976~1987年の間に金正日(キム・ジョンイル)の指示で実施。「それ以前とそれ以降はやっていない」と断言。(当時、後継者候補の金正日が拉致作戦を立案・指揮していた。)
3.背景は経済計画の失敗(71年~「人民経済発展6カ年計画」)。汚名挽回のため、金正日が新機軸の対南(南朝鮮=韓国)テロ作戦を発動。経済破綻で全面戦争ができなくなったので、戦争の代わりにテロを立案。
4.同作戦により急遽、対南潜入工作員の大量養成が必要になり、その訓練の一環で日本人拉致を実施。新米(しんまい)工作員の敵国への潜入訓練の場として、海岸警備の手薄な日本海側を利用。教官は「潜入訓練完遂の証拠品として"日本人"の拉致を要求したので、拉致対象の年齢・性別・職業等は問わなかった」と説明した。そのせいで、近くの浜辺で手当たり次第に拉致。当時まだ女子中学生だった横田めぐみさんが連れ去られることになった。
5.沖合の母船から5人乗りゴムボートで海岸に3人の新米工作員が潜入。空席は2名なので、拉致は最大2名までが限界。アベックの「失踪」が多いのはそのせい。
6.金日成の名前で「拉致した日本人は絶対に殺さず、生かして平壌に連れ帰れ。拉致被害者は平壌近郊で『中の上』の暮らしをさせるから、安心して拉致して連れ帰れ」という厳命が下された。そのこころは、無関係な日本人の民間人を殺害することになれば、新米工作員に戸惑いの心理的動揺をきたし、訓練の失敗につながるおそれがあるから。したがって、拉致被害者は誰も現場で殺害されたり、日本海でサメの餌にされたりすることなく、平壌の工作機関の拠点まで生きて連れ去られた。
7.北到着後も「絶対に死なせるな」という金日成の厳命は生きた。工作機関は管理・監督責任を厳しく負わされるので、事故や病気での死亡を厳格に防いだ。「本人が死にたいと思っても、自殺もできない」という監視下で暮らした。
8.拉致被害者は工作機関の管轄区域内で5~6人一組で隔離生活させる都合上、被害者に与えられる仕事は「共通の特技」である日本語の教育係ぐらいしかなかった。したがって、何らかの特技を狙ったり、日本語教師をさせたりする目的で拉致したのではけっしてない。あくまでも訓練の証拠品。
9.作戦期間が10年余りなので、その間の上陸訓練の実施回数の分(1回最大2名)だけ拉致被害者が存在する計算になる。私はおよその人数を尋ねたが、講師は「正確には知らないが、とにかく大勢」と答えた。
(注1)91年当時は日本人拉致事件の北朝鮮犯行説は「半信半疑」で定説化していなかった。その中で、私に北犯行説を「自供」したのは驚愕の出来事だった。その当時、拉致問題解決を糸口に日朝国交樹立による賠償金狙いの戦略を既に固めていたものと見られる。賠償金獲得の動機は、91年から本格化する北朝鮮の密かな核開発の資金源だった。その目論見が2002年まで延期、ずれ込んだのは北で大飢饉(93~99年)が勃発したからと思われる。
(注2)以上の説明は日本人拉致問題の本筋に関するもので、ヨーロッパを舞台とする「よど号ハイジャック犯」による日本人留学生と旅行客拉致の「番外編」は含まれない。この番外編については、実行犯の「Y」(有本恵子さん拉致犯)から、個人的に全容の説明を聞いたが、あくまでも番外編なので今回は省略。
(注3)拉致作戦が76年に開始されたもうひとつの理由は、ベトナム戦争の終結(75年)。北はベトナム戦争が永遠に泥沼化することを願ったが、その願いに反して75年に北ベトナムの勝利で戦争が終結。米軍が韓国と日本に引き揚げ、朝鮮半島でベトナム戦争敗北の雪辱を期する事態に発展。これに慌てた金父子が非対称の対抗策としてテロ作戦を立案・発動した。
以上が李英和氏による「拉致講義」内容の説明と位置付けである。
この一部は2009年にPHP研究所で出版なさった『暴走国家・北朝鮮の狙い』で触れている。
帰国後、日本政府に知らせたが無反応
李英和氏は帰国後、日本政府に秘かに「拉致講義」の内容を伝えたが、政府側はほぼ無反応で、真剣に聞こうとさえしなかったという。
事実、金丸訪朝の時も、拉致問題は日本側が重要視しておらず、せっかくの会談だったが、そこでは日本側が取り上げなかったようだ。
一方、植民地統治時代の「賠償金」問題によって、金丸訪朝の効果は立ち消えになっていってしまう。
戦争もしてない国に、なぜ「戦後賠償」をするのかと言う国会議員が多く、金丸訪朝での共同声明は「賠償」を「償い」という言葉に置き換えたが、それでも抗議の声は絶えなかった。
こうして拉致問題は長いこと放置されたままになった。2002年の小泉訪朝が叶い、一部の拉致被害者を取り戻すことができたのは、5月7日付のコラム<中国、対日微笑外交の裏――中国は早くから北の「中国外し」を知っていた>に書いたように、新義州(シニジュ、しんぎしゅう)特区の経済開発において中国と対立したからである。だから日本に秋波を送った。それはちょうど、李英和氏が(注1)で書いておられるように、日本からの賠償金が欲しかったという時期とも一致している。
日朝首脳会談――拉致問題は満額回答を手にせよ!
本来なら、世界で唯一の被爆国として、あるいは拉致被害者およびその家族を抱えている日本としては、もっと積極的に「独自の路線」で北朝鮮に接触して拉致被害者問題解決に当たっていくべきだっただろう。たとえば「北が何としても賠償金が欲しい時」あるいは「アメリカとの橋渡しを何とかしてほしい時」などのタイミングをつかんで、アメリカと親しい日本が「拉致被害者を全員返すなら、~をやってあげるが、どうだ!」といった形で、強力なカードを掲げて北朝鮮に独自に迫るというチャンスはあったはずだ。アメリカと仲良くできるのなら、北は核を放棄する可能性を秘めていた。日本に軍事力はなくとも、老獪な戦術を練ることはできたはずだろう。
6月8日、トランプ大統領と会談した安倍総理は、米朝首脳会談後に日朝首脳会談を目指し、何としても拉致問題を解決したいと表明したが、北朝鮮を巡る周辺国(特に六者協議に関係する米中日露朝韓)の中では、最後に回ってしまった。今となってはただひとえに、トランプ大統領が日本のために「拉致問題を解決しなければ~しないぞ!」と金正恩委員長に迫ってくれるのを待つしかない。
それでもなお、このコラムに書いた「拉致講義」が、日朝交渉に当たり、参考になることを祈る。日本は絶対に「拉致問題は解決済み!」というゼロ回答をもらってこないようにしなければならない。
この「拉致講義」とその経緯を知ることにより、日本はどんなことがあっても「満額回答」を手にしなければならないことが理解できるはずだ。
拉致被害者は生きているのである!
しかし、人の命も時間も不可逆だ。
拉致されてから既に40年以上も経っている。人命救助の際に優先すべきは「時間」だったのではないだろうか。
[執筆者]遠藤 誉
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会科学研究所客員研究員・教授などを歴任。著書に『習近平vs.トランプ 世界を制するのは誰か』(飛鳥新社)『毛沢東 日本軍と共謀した男』(中文版も)『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など多数。
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
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遠藤誉(東京福祉大学国際交流センター長)
金丸訪朝効果で北朝鮮に留学
現在、関西大学経済学部の教授(北朝鮮社会経済論)をしておられる李英和(リ・ヨンファ)氏は、まだ同大学の専任講師だった1991年4月(~9月)に北朝鮮の朝鮮社会科学院に短期留学をした。
1990年9月26日、自民党の金丸信氏(当時、副総理)を代表とする訪朝団が金日成(キム・イルソン)主席と会い、もう一歩で日朝国交正常化にたどり着くところだった。
実は韓国は1990年9月末に旧ソ連との国交を樹立している。新思考外交を打ち出したゴルバチョフ書記長の登場により1988年のソウルオリンピックに旧ソ連は代表団選手を送り、55個も金メダルを獲得して総合1位となった。この辺りから北朝鮮は北東アジアにおける孤立化を恐れ、日本との国交正常化に活路を見いだそうとしていたということができよう。
そのような流れの中で李英和氏に北朝鮮留学のチャンスが巡ってきたのである。偶然にも関西大学では1年間の在外研究の順番が回ってきたので、李英和氏は欧米を希望せず、北朝鮮を希望してみたという。留学というよりは訪問学者の短期研修なのだが、分かりやすいので短期留学という言葉を使う。
本来なら北朝鮮から許可が下りるはずもなかったが、金丸訪朝の効果は大きく、朝鮮社会科学院に留学することが叶った。当時、「北朝鮮留学第1号」として毎日新聞が大きく報道(以後、第2号はいないので、彼が唯一である)。
しかし北朝鮮に入国してみると、あまりに極端な個人崇拝や監視社会の実態、あるいは庶民生活の経済破綻を知るに及び、北朝鮮に激しく失望したという。
危険を冒して反体制の知識人と接触したりしたので、日本に帰国するときには、万一にも拘束されたり暗殺されたりしないように、命の保険のために毎日新聞に依頼して、再度、帰国を大きく扱ってもらったとのこと。
帰国前に受けた「拉致講義」の内容
朝鮮社会科学院の教官は92年11月、李英和氏の日本帰国予定の約1ヶ月前に、突然「拉致講義」をすると言ってきた。ということは「日本に帰って、話してもいい」と理解した。教官は監視兼世話役の朝鮮社会科学院准博士。工作機関からの指示であることは明らかだった。
以下に、李英和教授が教えて下さった「拉致講義」の概要を、ほぼ原文通りに記す(したがって文中にある「私」は李英和氏本人を指す)。
1.講義の場所は宿舎の部屋の中ではなく、公園で歩きながら。秘密警察の盗聴を嫌ってのこと。拉致は、秘密警察ではなく、工作機関の犯行と管轄なので。
2.工作機関による計画的な日本人拉致作戦は、1976~1987年の間に金正日(キム・ジョンイル)の指示で実施。「それ以前とそれ以降はやっていない」と断言。(当時、後継者候補の金正日が拉致作戦を立案・指揮していた。)
3.背景は経済計画の失敗(71年~「人民経済発展6カ年計画」)。汚名挽回のため、金正日が新機軸の対南(南朝鮮=韓国)テロ作戦を発動。経済破綻で全面戦争ができなくなったので、戦争の代わりにテロを立案。
4.同作戦により急遽、対南潜入工作員の大量養成が必要になり、その訓練の一環で日本人拉致を実施。新米(しんまい)工作員の敵国への潜入訓練の場として、海岸警備の手薄な日本海側を利用。教官は「潜入訓練完遂の証拠品として"日本人"の拉致を要求したので、拉致対象の年齢・性別・職業等は問わなかった」と説明した。そのせいで、近くの浜辺で手当たり次第に拉致。当時まだ女子中学生だった横田めぐみさんが連れ去られることになった。
5.沖合の母船から5人乗りゴムボートで海岸に3人の新米工作員が潜入。空席は2名なので、拉致は最大2名までが限界。アベックの「失踪」が多いのはそのせい。
6.金日成の名前で「拉致した日本人は絶対に殺さず、生かして平壌に連れ帰れ。拉致被害者は平壌近郊で『中の上』の暮らしをさせるから、安心して拉致して連れ帰れ」という厳命が下された。そのこころは、無関係な日本人の民間人を殺害することになれば、新米工作員に戸惑いの心理的動揺をきたし、訓練の失敗につながるおそれがあるから。したがって、拉致被害者は誰も現場で殺害されたり、日本海でサメの餌にされたりすることなく、平壌の工作機関の拠点まで生きて連れ去られた。
7.北到着後も「絶対に死なせるな」という金日成の厳命は生きた。工作機関は管理・監督責任を厳しく負わされるので、事故や病気での死亡を厳格に防いだ。「本人が死にたいと思っても、自殺もできない」という監視下で暮らした。
8.拉致被害者は工作機関の管轄区域内で5~6人一組で隔離生活させる都合上、被害者に与えられる仕事は「共通の特技」である日本語の教育係ぐらいしかなかった。したがって、何らかの特技を狙ったり、日本語教師をさせたりする目的で拉致したのではけっしてない。あくまでも訓練の証拠品。
9.作戦期間が10年余りなので、その間の上陸訓練の実施回数の分(1回最大2名)だけ拉致被害者が存在する計算になる。私はおよその人数を尋ねたが、講師は「正確には知らないが、とにかく大勢」と答えた。
(注1)91年当時は日本人拉致事件の北朝鮮犯行説は「半信半疑」で定説化していなかった。その中で、私に北犯行説を「自供」したのは驚愕の出来事だった。その当時、拉致問題解決を糸口に日朝国交樹立による賠償金狙いの戦略を既に固めていたものと見られる。賠償金獲得の動機は、91年から本格化する北朝鮮の密かな核開発の資金源だった。その目論見が2002年まで延期、ずれ込んだのは北で大飢饉(93~99年)が勃発したからと思われる。
(注2)以上の説明は日本人拉致問題の本筋に関するもので、ヨーロッパを舞台とする「よど号ハイジャック犯」による日本人留学生と旅行客拉致の「番外編」は含まれない。この番外編については、実行犯の「Y」(有本恵子さん拉致犯)から、個人的に全容の説明を聞いたが、あくまでも番外編なので今回は省略。
(注3)拉致作戦が76年に開始されたもうひとつの理由は、ベトナム戦争の終結(75年)。北はベトナム戦争が永遠に泥沼化することを願ったが、その願いに反して75年に北ベトナムの勝利で戦争が終結。米軍が韓国と日本に引き揚げ、朝鮮半島でベトナム戦争敗北の雪辱を期する事態に発展。これに慌てた金父子が非対称の対抗策としてテロ作戦を立案・発動した。
以上が李英和氏による「拉致講義」内容の説明と位置付けである。
この一部は2009年にPHP研究所で出版なさった『暴走国家・北朝鮮の狙い』で触れている。
帰国後、日本政府に知らせたが無反応
李英和氏は帰国後、日本政府に秘かに「拉致講義」の内容を伝えたが、政府側はほぼ無反応で、真剣に聞こうとさえしなかったという。
事実、金丸訪朝の時も、拉致問題は日本側が重要視しておらず、せっかくの会談だったが、そこでは日本側が取り上げなかったようだ。
一方、植民地統治時代の「賠償金」問題によって、金丸訪朝の効果は立ち消えになっていってしまう。
戦争もしてない国に、なぜ「戦後賠償」をするのかと言う国会議員が多く、金丸訪朝での共同声明は「賠償」を「償い」という言葉に置き換えたが、それでも抗議の声は絶えなかった。
こうして拉致問題は長いこと放置されたままになった。2002年の小泉訪朝が叶い、一部の拉致被害者を取り戻すことができたのは、5月7日付のコラム<中国、対日微笑外交の裏――中国は早くから北の「中国外し」を知っていた>に書いたように、新義州(シニジュ、しんぎしゅう)特区の経済開発において中国と対立したからである。だから日本に秋波を送った。それはちょうど、李英和氏が(注1)で書いておられるように、日本からの賠償金が欲しかったという時期とも一致している。
日朝首脳会談――拉致問題は満額回答を手にせよ!
本来なら、世界で唯一の被爆国として、あるいは拉致被害者およびその家族を抱えている日本としては、もっと積極的に「独自の路線」で北朝鮮に接触して拉致被害者問題解決に当たっていくべきだっただろう。たとえば「北が何としても賠償金が欲しい時」あるいは「アメリカとの橋渡しを何とかしてほしい時」などのタイミングをつかんで、アメリカと親しい日本が「拉致被害者を全員返すなら、~をやってあげるが、どうだ!」といった形で、強力なカードを掲げて北朝鮮に独自に迫るというチャンスはあったはずだ。アメリカと仲良くできるのなら、北は核を放棄する可能性を秘めていた。日本に軍事力はなくとも、老獪な戦術を練ることはできたはずだろう。
6月8日、トランプ大統領と会談した安倍総理は、米朝首脳会談後に日朝首脳会談を目指し、何としても拉致問題を解決したいと表明したが、北朝鮮を巡る周辺国(特に六者協議に関係する米中日露朝韓)の中では、最後に回ってしまった。今となってはただひとえに、トランプ大統領が日本のために「拉致問題を解決しなければ~しないぞ!」と金正恩委員長に迫ってくれるのを待つしかない。
それでもなお、このコラムに書いた「拉致講義」が、日朝交渉に当たり、参考になることを祈る。日本は絶対に「拉致問題は解決済み!」というゼロ回答をもらってこないようにしなければならない。
この「拉致講義」とその経緯を知ることにより、日本はどんなことがあっても「満額回答」を手にしなければならないことが理解できるはずだ。
拉致被害者は生きているのである!
しかし、人の命も時間も不可逆だ。
拉致されてから既に40年以上も経っている。人命救助の際に優先すべきは「時間」だったのではないだろうか。
[執筆者]遠藤 誉
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会科学研究所客員研究員・教授などを歴任。著書に『習近平vs.トランプ 世界を制するのは誰か』(飛鳥新社)『毛沢東 日本軍と共謀した男』(中文版も)『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など多数。
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
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遠藤誉(東京福祉大学国際交流センター長)