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ロシアW杯をプロパガンダに利用するプーチン

ニューズウィーク日本版 2018年6月19日 16時0分

<世界が注目するW杯を国威発揚に利用したいプーチン大統領――だが日本代表の試合が予定されている南部の都市ボルゴグラードにもISISのテロの影が>

ロシア大統領府の広々とした一室で、白と黒に塗り分けたサッカーボールが宙を舞った。その軌跡をじっと目で追っていたのは大統領のウラジーミル・プーチン。次の瞬間、ヘディングで見事に打ち返す。

向かい側で待つのは国際サッカー連盟(FIFA)のジャンニ・インファンティーノ会長。胸で受け止め、余裕でリフティングし、パスを返す。共に背広姿での熱演。サッカーのワールドカップ(W杯)ロシア大会の宣伝ビデオの1シーンだ。

ロシア国内の11都市で7月15日まで開かれる大会のため、ロシア政府は開催費としてW杯史上最高水準の推定190億ドルをつぎ込んだという。とりわけサッカーファンでもないプーチンが、それほどの資金を投じたのはなぜか。たぶん国際社会におけるロシアのイメージを改善するために、W杯を思い切り利用したいのだ。

イメージの改善は難しい。ロシアはシリアやウクライナでの戦争犯罪で非難され、イギリスでは神経剤を使ってロシア人元スパイを暗殺しようとしたと疑われ、アメリカやヨーロッパの選挙に干渉した疑惑もある。

それでもプーチンから見れば、世界で最も注目されるスポーツの祭典であるW杯は名誉挽回の舞台として願ってもないチャンスだ。「プーチンはロシアを強い国家として誇示したい。軍事的に強いだけでなく、国際的な水準のイベントを開催できる力があるところも世界に見せつけたい」のだと、カーネギー国際平和財団モスクワセンターのアンドレイ・コレスニコフは分析する。「冷酷な男という自身の評価も変えたいところだ」

ロシアがスポーツをプロパガンダに利用するのは、今に始まった話ではない。旧ソ連も社会主義体制の優越性を示す証拠として、選手たちの好成績を大いに宣伝したものだ。

ただし、その裏では冷酷・過酷な手も使っていた。例えば1980年の夏季五輪モスクワ大会の期間中、当局は反体制活動家や障害者など、世界の人々に見られては都合の悪い人たちを市内から閉め出した。

時代は進んで2014年、プーチンも冬季五輪ソチ大会を成功させるために手段を選ばなかった。詳細な金額は不明だが、五輪史上最高とささやかれる巨費をつぎ込んだ。反プーチン勢力は五輪がらみの大規模な不正や収賄があったと指摘したが、プーチンは新生ロシアの雄姿を披露できたと胸を張る。

帰還テロリストの脅威

なるほどロシア選手が次々と表彰台に立った。開会式と閉会式の評判も上々で、事前にはいろいろうるさかった国際メディアも一定の評価を下した。

ロシア連邦保安局(FSB)は、イスラム系武装勢力によるテロを回避できたことは欧米諸国との協力のたまものだと表明。閉会後に国家ぐるみのドーピングが発覚したが、少なくともロシア国民は気にしていない。



プーチンの4期目の大統領就任式を前に反政府活動家を拘束する警官 Tatyana Makeyeva-REUTERS

世界最高の選手たちと推定60万の外国人観光客が訪れるW杯でも、プーチンは同様の成功を目指す。ただし規模が大きい催しだけに、過激派によるテロ攻撃から反体制派の抗議行動まで、政府はさまざまなトラブルの可能性に備えている。

「聖戦士」が自動小銃を構え、爆弾が炸裂し、競技場が白い煙に包まれ、ついに狙撃銃の照準がロシア大統領に合わせられる。そして「不信心者のプーチンよ、イスラム教徒殺害の代償を払え」という文言が躍る。去る4月にテロ組織ISIS(自称イスラム国)の支持勢力によってネット上に掲出された画像だ。

ほかにも、リオネル・メッシやクリスティアーノ・ロナウドといったスター選手が首を斬られる陰惨な合成画像も拡散している。そこには「競技場はおまえたちの血に染まる」とある。

ISISは過去1年ほどの間に、イラクとシリアで軍事的に大敗を喫してきた。だがソーシャルメディアや暗号化されたメッセージを利用して、ロシア国内のシンパに「W杯観客を狙え」と呼び掛けている。

「まんまと(ロシアで)事件を起こしたら、ISISとその戦闘員や支持者にとって絶大なプロパガンダ効果が生じるだろう」。国際軍事情報会社IHSマークイットのジェーンズ・テロリズム・インサージェンシー・センター(JTIC)のマシュー・ヘンマン所長は最近の報告書でそう指摘した。

とりわけ危険と思われるのが、爆弾の造り方を学んでシリアやイラクから帰国したロシア人戦闘員だ。治安当局によると、チェチェン共和国などがある北カフカス地方の出身者を中心として、約4000人のロシア国籍者が中東でISISの戦闘に参加した経験を持つ。

なかでも試合開催都市で、モスクワから約400キロのニジニノブゴロドは危険だ。5月4日には警官3人がISIS戦闘員との銃撃戦で負傷している。

集合住宅の一室に立て籠もった戦闘員は治安部隊に殺害されたが、その場所からわずか十数キロの所に、アルゼンチンやイングランド、スウェーデンなどの代表が試合に臨むスタジアムがある。同市では今年2月と昨年11月にも、襲撃を計画したISIS戦闘員らが治安部隊に射殺されている。

ロシア国内でイスラム系武装勢力の動きを監視しているネットメディア「カフカスの結び目」のグリゴリー・シュベドフ編集長によれば、南部各地の開催都市も危険だ。

最近も北カフカス地方でロシア正教会が襲われたように、ISISは可能な限りセンセーショナルな標的を選ぼうとしている。同地方との境界の町ボルゴグラードは特に心配だ。



モスクワで華々しく行われたワールドカップ開会式(6月14日) Maxim Shemetov-REUTERS

ソチ五輪の時とは違う

ボルゴグラードでは昨年11月、ISISに触発された襲撃事件が発生し、警官2人が入院するほどの刺し傷を負った。同市ではイングランド、ナイジェリア、サウジアラビア、日本などの試合が予定されている。また4年前にはイスラム系武装勢力2人による自爆テロで34人が犠牲になった。犯行を主導した武装組織「カフカス首長国」は消滅したが、その残党は今もISISに忠誠を誓っている。

ロシア政府はこのような脅威に備えてテロ対策を強化してきた。FSBのアレクサンドル・ボルトニコフ長官によると、今年1~4月だけでテロの準備をしていたと疑われる189人を検挙した。化学薬品など危険物質を扱う工場の一部は大会期間中の休業を命じられている。

ソチ五輪でテロを封じ込めたのだから今度も大丈夫だと、治安当局は言う。だが当時と今では決定的な違いがある。「ソチ五輪の頃はまだISISがロシア国内で活動していなかった」と、シュベドフは言う。「残念ながら今は、特に北カフカスで極めて活動的になっている」

プラハ国際関係研究所のマーク・ガレオッティは、五輪に比べてW杯では潜在的な標的が格段に多いと指摘する。「ソチの会場は狭い範囲に集まっていたが、W杯の会場は全国に散らばっている。競技場近くのバス停を狙っても大事件になる」

W杯を自己主張の場にしようとする存在はテロリストに限らない。ロシア国内の反体制派も、この機会に世界の注目を集めようとしている。反政府勢力への弾圧や露骨な人権侵害を、世界に訴えたいからだ。

ロシア政府はそうした反体制派のもくろみを恐れているようだ。外国のマスコミの前でデモを発生させないため、ロシア当局は試合が開催される都市での抗議行動を7月25日まで禁止した。また反政府派の訴えが表に出ないように、できる限りの手を尽くしている。

例えば反体制派の指導者アレクセイ・ナワリヌイは5月15日にデモ関連の微罪で逮捕され、1カ月も拘留された。汚職問題を追及する2人の仲間も5月後半に身柄を拘束された。彼らの罪状は、デモについてツイートしたことだった。

「ワールドカップは、プーチン大統領の永遠なる治安帝国の祝典になるだろう」と言うのは、反プーチン派の女性パンクバンド「プッシー・ライオット」のマリア・アリョーヒナだ。「観客たちは、デモの参加者が殴られ、刑務所や警察署で拷問され、政治犯がとても多い国にいることを認識してほしい」

ウクライナの映画監督オレグ・センツォフはそうした政治犯の1人。テロを計画した容疑で15年に軍事裁判で懲役20年の実刑判決を受けたが、センツォフに言わせれば、それは彼がロシアによるクリミア併合に抗議したことへの報復だ。

検察は、センツォフと共同被告のアレクサンドル・コルチェンコが与党・統一ロシアのクリミア支部と共産党事務所の入り口に何度も放火したと告発した。2人とも無罪を主張しており、反政府派は容疑を裏付ける証拠が薄弱だと主張している。



人権団体は、ウクライナ人70人近くが政治犯として、ロシアや占領下のクリミアで監禁されていると訴えているが、ロシア政府は否定している。W杯開催1カ月前の5月14日には、獄中のセンツォフが「ロシア領内で拘束されているウクライナ人政治犯全員の釈放」を求めてハンガーストライキを始めた。

他の活動家も活発に動いている。5月には14の人権団体がFIFA宛ての公開書簡に署名し、人権擁護団体「メモリアル」のチェチェン支部長オユブ・ティティエフを解放するよう、ロシアに圧力をかけてほしいと呼び掛けた。

なおチェチェンでの試合は組まれていないが、首都グロズヌイではエジプト代表チームがキャンプを張っていた。

来賓はいなくてもいい

60歳のティティエフは今年1月、大麻約170グラムを所持した容疑でチェチェン警察に逮捕された。彼の支持者によれば、これはチェチェン共和国のラムザン・カディロフ首長によるでっち上げだ。チェチェンのアプティ・アラウディノフ副内相はこれまでも、同様の手法で警察を動かし、カディロフの「敵」を何人も陥れてきた。

メモリアルは旧ソ連の反体制派が1989年に設立した団体で、ソ連時代の弾圧だけでなくプーチン時代の権力乱用も暴き、国際的に高く評価されている。

チェチェンにおける最近の弾圧は、昨年12月にカディロフのインスタグラムのアカウントが閉鎖されたことがきっかけとされる。「アカウントの閉鎖は、カディロフのイメージを損ねるものだ」と、メモリアルの創設者オレク・オルロフは言う。「カディロフは自分の邪魔をする者は抹殺せずにおかない」

17年に新たな人権ポリシーを採択したFIFAはティティエフの逮捕を気に掛けているとしたものの、エジプト代表の拠点をグロズヌイから移せという要求は拒否した。

メモリアルは、ティティエフが国際的に注目されることによって、プーチンがチェチェン当局に彼の釈放を命じざるを得なくなることを願っている。メモリアルのチェチェン支部を運営していたカティヤ・ソキリアンスキアは、「W杯の成功はロシア政府にとって非常に重要だから」と言う。「国際機関、特にFIFAがティティエフの事件を大きく取り上げてくれれば、プーチンが介入して彼を解放するかもしれない」

ロシアの反政府勢力の一部がワールドカップを利用して抗議の声を上げる一方、国際的なボイコットを呼び掛けて、プーチンのもくろみを台無しにしたい反体制勢力もある。

だが代表チームの派遣を拒否した国はない。3月に起きた元二重スパイの在英ロシア人セルゲイ・スクリパリの暗殺未遂事件でロシアを非難しているイギリスも、ワールドカップに出場するチャンスを失うことには二の足を踏んだ。イングランド代表が大会をボイコットする代わりに、イギリスは公式代表団の派遣を拒否。王室も今回の大会には顔を見せない。

しかし、プーチンはそんなことは気にしない。「彼は西側との険悪な関係に慣れている。来賓はいなくても構わない。重要なのはサッカー選手が来ることだ」と、カーネギー国際平和財団のコレスニコフは言う。



ロシアの力を世界に誇示

もう1つ重要なことは熱狂的なファン、とりわけロシア人ファンのマナーだ。近年、スタジアムで極右のサポーターがナチスの紋章「ハーケンクロイツ」をスタジアムで掲げる事件が起きている。10年には北カフカスのイスラム系若者グループによるファン殺害事件をきっかけに、1000人以上のフーリガンや超国家主義者がモスクワの赤の広場で暴動を起こした。

ロシアのサッカー関係者は、人種差別対策としていくつかの措置を講じている。17年にはロシア代表チームの元キャプテンだったアレクセイ・スメルティンを差別撤廃大使に任命した。

だが問題は解消されていない。3月にサンクトペテルブルクで行われたフランスとの国際親善試合では、ロシアのサポーターがポール・ポグバやウスマン・デンベレなどのアフリカ出身選手に人種差別的なやじを飛ばした。FIFAはロシアサッカー協会に3万ドルの罰金を科した。

「ここ数カ月の事件は、ロシアのファン文化に人種差別がどれほど深く根付いているかを示している」と、サッカーにおける人種差別に対する監視活動を行うパベル・クリメンコは言う。

フランスでユーロ2016が開催された際に、イングランドのサポーターと乱闘事件を起こしたロシア人フーリガンは国内でも恐れられている。だが多くの専門家は、今回は治安部隊がそのような暴力を許さないとみている。W杯ロシア大会はプーチンにとって、あまりにも重要だからだ。

フーリガンに詳しい情報筋によれば、警察は騒動を起こしそうな連中に対し、ロシアの国際イメージに害を及ぼすようなことがあれば長期刑が科される、と警告しているという。

この大会に関しては、イスラム過激派や地政学に関する話題が多過ぎて、スポーツイベントであることが忘れられがちだ。

ロシアは世界一のサッカー選手が自国でプレーすることに興奮しているが、ロシア代表チームが優勝する可能性はほとんどないと言っていいだろう。ロシアはワールドカップ参加国ではランキング下位のチームで、ソ連崩壊以来、上位争いに食い込んだことはない。

ロシア政府も試合の行方を左右することはできないが、それ以外の点ではFIFAの助けも借りて、何事も運任せにしたりはせず、隅々まで細心の注意を払っている。

そのいい例が、プーチン大統領とFIFAのインファンティーノ会長が登場した宣伝ビデオだ。インファンティーノのサッカーの技量は印象的だったが、プーチンの能力に関しては、優れた映像編集でかなり誇張されているらしい。

「ロシアにはこの大イベントを成功させる力がある。それを世界に見せつける。それが全てだ」と、ロシアの著名な作家でサッカー愛好家のビクトル・シェンデロビッチは言う。「サッカー自体は二の次。プーチンにとって、一番大事なのはプロパガンダだ」

<本誌2018年6月26日号掲載>




マーク・ベネッツ(ジャーナリスト)

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