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嫌われることを気にしない中国人 「Mr.嫌われ力」の勝算と誤算

ニューズウィーク日本版 2018年9月4日 17時45分

<人から何を言われようが自分のやり方を曲げない――。そんな中国人のなかでも、卓越したビジョンと胆力で中国を発展に導いたのが鄧小平だ。彼は国際社会でひんしゅくを買う祖国を予想していたか。本誌9/4発売号「『嫌われ力』が世界を回す」特集より>



※本誌9/11号(9/4発売)は「『嫌われ力』が世界を回す」特集。気が付けば、ニュースの主役はイラっとさせる人ばかり。目覚ましく活躍する「逸材」が嫌われるのはなぜか。彼ら「憎まれっ子」こそが時代を変えるのはなぜか。

中国人は「嫌われること」を気にしない。人から何を言われようが自分のやり方を曲げない。それは、自分の人生で頼りになるのが結局は自分(と家族)という考えが頭に染み付いているからだ。

政治家がその国の国民の水準や特質を表すとすれば、大躍進運動や文化大革命で国民に塗炭の苦しみを味わわせた毛沢東を筆頭に、歴代の中国共産党指導者は確かに「嫌われること」を気にしない人物ぞろいだ。終始、毛に逆らったと思われないよう気を使っていた周恩来や、江沢民(チアン・ツォーミン)の影にさいなまれ続けた胡錦濤(フー・チンタオ)は少数派。鄧小平はなかでも際立って他人の評価を気にせず、わが道を行く政治家だった。

鄧は3度失脚しても復活した男としてしばしば「不倒翁(起き上がりこぼし)」になぞらえられる。ゲリラ戦のさなかに派閥争いに巻き込まれ、毛沢東を支持した果ての1回目の失脚。そして文化大革命の荒波の中で「資本主義に走る実権派」と名指しされ、今度は毛に全ての職を解任されて南部の江西省に送られた2回目の失脚。だが、より彼の「嫌われ力」を示しているのが76年の3回目の失脚だ。

71年、後継者だったはずの林彪国防相がクーデターを計画したのちにモンゴルで墜落死。いよいよ後継者の心配をせねばならなくなった毛に呼び戻されて、鄧は73年に北京へと戻った。第1副首相に就任し、国民生活を向上させるためのさまざまな手を打っていたが、あからさまに文革を否定する態度を取ったことがやがて毛の逆鱗に触れ、76年に3回目の失脚に追い込まれる。この時、鄧は毛や取り巻きに迫られても決して自分の考えを変えなかった。

当時の中国ではカリスマ、あるいは神に近い存在だった毛とその取り巻きにあえて逆らうことができたのは、鄧が2つのはっきりとしたビジョンを持っていたからだろう。1つは毛の命がおそらくは長くないこと、もう1つは社会主義を事実上放棄して資本主義の道を歩むことが、中国の国力と中国人の生活水準を向上させる上で避けられないこと──だ。

卓越したビジョンと他人の評価を気にしない「嫌われ力」ゆえ、鄧は中国のトップに立った。その彼が最も「嫌われ力」を発揮したのが、ほかでもない89年6月4日の天安門事件だった。



国際社会の注視と圧力をものともせず、民主化を求める学生と市民を武力で鎮圧した真意は謎とされる。ただ、ハーバード大学名誉教授のエズラ・ボーゲルは著書『現代中国の父 鄧小平』(邦訳・日本経済新聞出版社)の中で、鄧の言葉をこう引用している。「弾圧をするのは、改革開放を継続して中国を現代化するために平和で安定した環境が必要だからだ」

中国は天安門事件後、「平和で安定した環境」の下で世界史上例を見ない規模の経済成長を達成した。EV(電気自動車)が世界一普及し、キャッシュレス社会がどの国よりも早く庶民の現実になった今の中国を見れば、鄧はさぞ満足だろう。自らの価値観の正しさを証明するこれ以上の例はない、と。

ただし、「嫌われること」を気にしないあまり、中国は世界でも有数の「嫌われる国」になってしまった。他国の価値観や指摘に開き直るその姿勢は、国際社会でひんしゅくを買っている。怒涛の成長が続く間、あるいはその余韻が十分残っているうちはいい。しかしスピードが鈍ったときには、他国の「報復」が待ち構えている。

その点はさすがの鄧も予想していなかったかもしれない。

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長岡義博(本誌編集長)

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