Infoseek 楽天

宿敵イスラエルがシリア人負傷者を救う「善き隣人作戦」

ニューズウィーク日本版 2018年10月10日 17時30分

<ゴラン高原と接するシリア南部でイスラエル軍が人道支援活動を展開、シリア住民の意識の変化に希望がほのみえる>

シリア人のハニは幼い頃、「ちゃんと夕食を取りなさい。さもないとシオニストが血を吸いに来るわよ」と母親に脅かされたものだ。

そんな彼が妻子と共に内戦の戦火から逃れる途中、同胞のシリア兵に撃たれて負傷。国境地帯にいたイスラエルの衛生兵に、イスラエルの病院で治療を受けたいと訴えた。イスラエル兵は銃弾を浴びて顔半分を失ったハニが武器を隠し持っていないか確かめると、イスラエル北端の都市ナハリヤのガリラヤ医療センターに移送する手配をした。

それから2年。ハニは何度目かの再建手術を受けるため、今も入院中だ。なぜイスラエルでの治療を望んだのか。「以前にここで治療を受けたシリア人から、アラブ諸国と違って、イスラエルでは手厚いケアを受けられると聞いていたからだ」

シリアは隣国イスラエルを国家として承認していない。1948年のイスラエルの建国以来、両国は一貫して敵対関係にあり、イスラエルのパスポートではシリアに入国できない。

そのイスラエルが長引く内戦に苦しむシリアの人々に支援の手を差し伸べたことで、この地域の住民感情が変わり始めた。シリアのバシャル・アサド大統領が自国民を虐殺する一方で、イスラエルは「善き隣人作戦」を掲げて、シリア南部の人々に医療と人道支援を提供。これをきっかけに、シリアはもとより、周辺のアラブ諸国の人々のイスラエル観も変わるかもしれない。「長年のいがみ合いにようやく解決の糸口がみえてきた」と、宗教や宗派の枠を超えてシリア難民の支援に取り組むシャディ・マルティニは言う。

とはいえ、中東ではあらゆる事柄が一筋縄ではいかない。イスラエル占領下のゴラン高原と接するシリア南部の緩衝地帯は、シリア内戦勃発後ずっと反政府派の支配下にあった。だが今年7月、アサド政権側がこの一帯を奪還すると、イスラエルは援助を停止。住民の一部はイスラエル軍がシリア政府軍の猛攻から自分たちを守ってくれると期待していたため、裏切られたという思いも広がっている。

イスラエル軍が「善き隣人作戦」の概要を公表したのは昨年7月。公式にはこの作戦は16年に開始されたことになっているが、立案者のマルコ・モレノ元中佐によると、12年には既に細々と活動を始めていたという。

11年3月のシリア内戦勃発で、イスラエル軍が真っ先に懸念したのは国境地帯の不安定化だった。「反政府派内部でテロ組織が主導権を取る恐れがあった」と、モレノは説明する。「それを防ぐには今までとは違うアプローチが必要だと考え、善き隣人になろうと思いついた」



ユダヤ人も援助を支持

イスラエル軍は手始めに個々の活動家や支援ワーカーと手を組み、その後シリアの穏健な反政府派と連携するようになった。シリア政府軍の元兵士らが結成した「自由シリア軍」もその1つ。「われわれは彼らに人道支援を約束した。その代わり反政府運動がテロ組織に乗っ取られないようにしてくれ、と」

13年以降、イスラエルの国営病院で治療を受けたシリア人負傷者は5000人を超える。加えて国境地帯でイスラエル軍が運営する野戦病院などで、少なくとも7000人が治療を受けた。イスラエル当局は、17年だけで3100万ドル余りの対シリア支援を行ったと発表している。

ガリラヤ医療センターではこれまでに2500人のシリア人を治療してきたが、うち1000人はこの1年に運び込まれた人たちだ。イスラエルで手厚い看護を受けたという話が口コミで広がり、シリア人患者がどっと押し寄せるようになったと、外科医のエヤル・セラは話す。セラが治療した子供の母親は、「わが家では、イスラエルという言葉は禁句でした」と打ち明けたという。

イスラエルの多くの病院と同様、ガリラヤ医療センターでもスタッフの半数はユダヤ人、半数はアラブ人だ。「ユダヤ人とアラブ人が仲良く一緒に働いているのを見て、シリア人の患者は驚き、イスラエルへの見方を変える」と、セラは言う。

このセンターでは、退院するシリア人には帰国後に配慮して、ヘブライ語ではなくアラビア語で書かれた医療記録を渡す。負傷の程度によって、イスラエル人患者よりシリア人患者の治療を優先することもよくある。

首都ダマスカス近郊の東グータも陥落 Dia al-din Samout-Anadolu Agency/GETTY IMAGES

当初「善き隣人作戦」には、シリア人以上にイスラエル軍関係者のほうが懐疑的だった。「既存の枠から外れたアイデアはなかなか受け入れられない」と、モレノは言う。「軍隊は愛と平和の組織ではないから」

セラも最初は抵抗を感じたが、今ではシリア人患者の受け入れを「ごく当然のこと」と思っている。イスラエルの世論も同様だ。イスラエル民主主義研究所が7月に実施した世論調査では、イスラエルのユダヤ人の78%がシリア人への人道支援を支持。ただし、シリア難民の受け入れを拒否する政府の姿勢を支持する人も80%に上った。シリア人患者は治療が終わりしだい出国を迫られる。

受けた恩義は忘れない

イスラエルの援助はただの善行ではなく、戦火の飛び火を防ぐ現実的な戦略でもある。この戦略は奏功し、イスラエル兵はシリアの反政府派から1発の銃弾も浴びていない。



ここ数カ月、シリア南部の国境地帯でロシア空軍の支援を受けた政府軍の猛攻が続くなか、住民たちは仇敵イスラエルを頼りにするようになった。シリア内戦の勃発地ダルアーが政府軍の手に落ちると、民間人ざっと30万人がヨルダン、イスラエルとの国境を目指し、そのほかにも多数のシリア人がイスラエルとの国境のシリア側で野営生活を始めた。

「今ではシリア人は本当の敵を知っている。敵はイスラエルではなく、アサドであり、イランとロシアだ」と、シリアの反政府活動家ムサ・アブ・アルバラアは言う。

7月17日、200人余りのシリア人が国境のフェンス沿いにデモ行進を行った。政府軍の攻撃から自分たちを守ってほしいとイスラエルに訴えるためだ。

国境地帯でシリア人の大規模なデモが起きたのは、11年5月以来のこと。前回は1000人の参加者のうち100人がフェンスを越えてイスラエル兵を襲撃し、シリア人1人が死亡、イスラエル兵1人が投石で重傷を負った。

7年の歳月を挟んで起きた2つのデモの違いは、人々の意識の変化を物語っている。「私たちはイスラエルの攻撃からではなく、アサドとロシアの攻撃から逃れるために家を捨てる羽目になった」と、シリア人活動家モハメド・シャラフは言う。「今まで悪玉だと教え込まれてきたイスラエルが私たちを助けてくれた。だからロシアの空爆に脅かされる今、イスラエルに保護を求めているのだ」

シリアの反政府派の一部には、イスラエル軍がシリア政府軍を撃退してくれると期待する向きまであった。

「アサド政権にはロシアに加えてイランも付いているから、イスラエルは政権側がこの地域を支配することを警戒し、反政府派を支援してくれるだろうと人々は考えた」と、難民支援に取り組むマルティニは説明する。「もちろん、そんな展開にはならず、失望感が広がった」

それでも「以前と比べれば、人々の意識は大きく変わった」と、マルティニは言う。「みんなイスラエルに助けてもらったことを忘れていない」

ガリラヤ医療センターで退院の日を待つハニは、「平和になってシリア人とイスラエル人が互いの国を行き来できるようになるといい」と話す。「私もまたこの国に来たい。難民としてではなく、旅行者として」

<本誌2018年10月09日号掲載>



ヤルデナ・シュワルツ

この記事の関連ニュース