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ミャンマー軍家系で仏教徒の私が、ロヒンギャのために戦う理由

ニューズウィーク日本版 2018年10月27日 13時0分

<ミャンマーのエリート軍家系に生まれた仏教徒の男性が、人権活動家となって少数民族ロヒンギャのために戦う理由とは>

現代の「ホロコースト」とも言われるロヒンギャ弾圧――。昨年8月に新たに勃発したミャンマーのイスラム系少数民族ロヒンギャに対する虐殺は、いまなお続いている。

バングラデシュとの国境沿いに逃れた数十万人とも言われるロヒンギャは難民キャプでの生活を余儀なくされており、かつて住んでいた祖国の村は焼き討ちにあい戻る場所も失った。

こうしたロヒンギャ弾圧に対して国連をはじめとする国際社会は非難の声を上げ続けているが、その中に稀有な人物がいる。いまやロヒンギャ弾圧の先頭に立つともいえるミャンマー軍の家系に生まれ、仏教徒でもあるモンザルニだ。(編集部注:ミャンマー人は姓名の区別がない)

現在はイギリスを拠点に、カンボジア虐殺文書センター(DC-Cam)フェローや欧州過激主義研究センター(EuroCSE)諮問委員などを務めながら、人権活動家として広く活動している。

軍の家系に生まれた仏教徒の彼がなぜ、ロヒンギャ保護を訴え、活動するに至ったのか。そこには3度にわたり味わったミャンマー軍に対する失望と、アウンサンスーチーへの絶望が影響していた。本誌記者・前川祐補が、その数奇な半生の軌跡を聞いた。

***


――生い立ちを教えてほしい。

生まれは1963年。ネウィン将軍によるクーデターの1年後だ。故郷はマンダレーという古都で、日本でいうと京都のような街だろうか。京都ほど美しくはないが。

――子供の頃、ロヒンギャについてどのように考えていたのか。

正直、ほとんど知らなかった。ロヒンギャに対する最初の大規模弾圧が行われた78年は15歳で、高校一年生だった。ただロヒンギャという言葉も存在も全く知らなかった。ロヒンギャが多く居住する地域(ラカイン州)に住む人を除けば、当時多くのミャンマー人にとってそれが普通のことだった。その理由はおそらく、政府がその頃からミャンマーにロヒンギャはいないという言説を作り始めていたからだと思う。

――ロヒンギャを最初に認識したのはいつ頃だった?

04年から05年ごろだったかと思う。



――わりと最近の話だ。

そうだ。もちろん、その前から徐々にロヒンギャという言葉を耳にするようにはなっていたが、詳しく知らなかったので彼らが抱えていた問題はまだ私の人生にとってさほど意味のあることではなかった。国際会議でロヒンギャの人に会う機会もあったが、挨拶を交わした程度だった。私の関心がミャンマー全体の民主化に向いていたので、特定の少数民族に対する意識はあまり高くなかったことも影響したと思う。

ロヒンギャ問題の深刻さに気付いたのは08年ごろ。弾圧を受けた少数民族に対するボランティア活動をしていた英国人の妻を通じてのことだった。彼女はロヒンギャを研究していて、彼らとの人脈もあった。

08年か09年ごろ、学者の間でロヒンギャに対する「人道上の罪」が叫ばれたことがあり、私はロヒンギャの人権に関する報告書を手にした。それが、ロヒンギャ弾圧を批判する活動を始めたきっかけだ。

――その時の感情は?

ミャンマー政府に対する怒りと悲しみでいっぱいだった。

――ロヒンギャ弾圧を非難する声は国際社会を含めて多数ある。だがあなたの立場は非常にユニークだ。

確かに。そもそも私はロヒンギャではない、仏教徒のミャンマー人だ。ご存知の通り、多くの仏教徒ミャンマー人は積極的、非積極的にかかわらず政府のロヒンギャ弾圧を支持している。

さらに、私は軍の家系に生まれ育った。軍はロヒンギャ弾圧を主導する中心的存在の1つだ。

――子供時代から軍に対して疑問を持っていた?

そうではない。今でこそ私は軍をファシストと呼んでいるが、幼少期は軍の家系に生まれたことがとても誇らしかった。私の叔父は空軍のエリート戦闘機パイロットで、ネウィン将軍の専属VIPパイロットを務めたこともある。その他、親戚には多くの軍高官がいた。

実際、当時多くのミャンマー人にとって軍人になることは最も栄誉あることだった。ミャンマー人は愛国心が強く、植民地支配に対する反発も強かったので、国家に対する愛情を示す最高の手段は軍に入ることだと思われていた。「ミャンマー的武士道」とでもいうのだろうか。そうした精神が支配的だった。

――自身は入隊を考えなかった?

考えたことはあったが、私は学生の頃から英語に堪能で、その技能が生かせる職に就きたいと思っていた。



――軍に誇りを持っていたにもかかわらず、「敵」であるロヒンギャを擁護するようになったのは?

その前に、ミャンマーにおける学生の民主化運動について話す必要がある。

88年にミャンマー各地で大規模な学生運動が起きたとき、私は既に地元の大学を卒業し、英語教師の仕事をしながらアメリカの大学に行く準備をしていた。

実は本格的に渡米する前、私は観光で日本を訪れていた。学生運動が起きたとき、私は新宿区の中落合に住むミャンマー留学生たちとしばらく一緒に暮らしていた。そこでテレビを通じて学生運動で国が騒乱の中にいることを知った。

――その時どう感じた?

悲しくて涙が出てきた。誇りを感じていた軍人たちが、無抵抗な学生を殴打し、射殺している事実を受け入れることができなかった。その時テレビから聞こえてきた学生の叫び声を今も覚えている。

私は軍の家系に育ったが、軍が全てにおいて清廉潔白とは思っていなかった。民主的でないことが行われていることも聞いていた。それでも、汚職にまみれていた警察や政治家と比べれば、はるかに規律と統制のとれた存在だと信じていた。

ところが、テレビを見ながらそんな尊敬の念は消え去った。どうしたら自国民に対してここまで非人道的で冷酷なことができるのかと強く憤った。

――そして渡米した。

アメリカで学生をしながら、小さなフォーラムを主催してミャンマーの軍事政権や民主化運動について話をしていた。始めは小さなフォーラムだったが、そのうち主要なシンクタンクでも講演するようになり、徐々に顔を知られるようになっていた。

ミャンマー軍の圧政に反対するため、アメリカ国民にミャンマー製品のボイコットを訴えたこともあった。そうした活動は、98年に博士号を取得するまで続けていた。だが、それを知ったミャンマー政府から目を付けられ始めた。

ーー具体的には。

95年か96年頃だったと思うが、民主化を訴える私たちの活動がアメリカの新聞に掲載されたことがある。それを見た駐米ミャンマー大使館から電話がかかってきた。

内容は明らかな脅迫だった。身の危険を感じ始めたので、アメリカ政府に亡命申請を行い、政治難民になった。

それを知ったミャンマー軍は私のことを祖国の新聞に書きたて、家族に対するいやがらせも始まった。父親が当局に尋問を受けたこともある。軍に知り合いが多くいたことが幸いしたのかは分からないが、虐待されるようなことはなかったらしい。

それでも私の不安は続いたが、そのうち軍に対する怒りの方が勝るようになり、家族に対する懸念は薄れていった。虐待を受けている学生と民主化に対する感情の高ぶりを抑えることができなかった。それ以降、私はしばらく家族との通信を絶った。傍受されて家族に被害が及ぶリスクを考えてのことだ。

<インタビュー後編に続く>



前川祐補(本誌記者)

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