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中国の「監視社会化」を考える(2)──市民社会とテクノロジー

ニューズウィーク日本版 2018年12月21日 18時0分

<一言で監視社会といっても、抑圧的なものから「安全・快適」に人々が飼いならされたものまでいろいろある。中国の監視社会はどうなのか。一つ言えるのは、都市の中国人が「お行儀よく」なってきたことだ>

第2回: テクノロジーが変える中国社会

          ◇◇◇

*第1回: 現代中国と「市民社会」

1.アーキテクチャによる行動の制限

前回の連載で述べてきたようなこと、すなわち、公権力と民間との関係性の中に立ち現れてくる、アジア的社会における市民的公共性の困難性といった課題は、現代の監視社会の進行という現実の中でどのような意味を持つことになるのでしょうか。

「監視社会」の到来

現代の洗練されたテクノロジーを通じた「管理社会」「監視社会」の到来をどのように捉えるかについては、これまで日本でも活発な議論が行われてきました。情報社会論を専門とする神戸大学の田畑暁生さんによれば、朝日新聞のデータベースに「監視社会」という言葉が初めて出現するのは1987年のことだそうですが、頻繁に使われるようになったのは通信傍受法(盗聴法)や住民基本台帳ネットワークが問題となった90年代後半のことです(田畑、2017)。特に「個人情報保護法」が成立した2003年前後には、インターネットのインフラが整備されることによって個人情報が電子化され、政府によって一元的に管理される状況を、市民相互の相互不信を招くものとして警戒する議論が盛んにおこなわれました。このような状況の中で、2002年から2003年にかけて「中央公論」誌上で連載され話題を呼んだのが批評家の東浩紀さんによる「情報自由論」です。

東さんは、かなり早い段階から、ミシェル・フーコーによる「管理社会」批判の成果などを踏まえる形で、ハーバーマスらが擁護しようとした「市民的公共性」という概念が、高度消費社会の中でその現実的基盤を失いつつあることを見据え、独自の現代社会論を展開してきました。「情報自由論」では、資本や国家がひたすら快適な生活空間を提供するという「環境管理型権力」によって飼いならされた結果、ハーバーマスらが想定していた自立した意思決定を行い、公共性を担うはずの市民たちはもはやどこにも実在しないのではないか、という問題提起を行っています(東、2007)。東さんの問題提起が「監視社会」を考える上で重要なのは、本来「市民的公共性」の脅威となるはずの「監視社会」が、「より安全で快適な社会に住みたい」という市民自らの欲望によって生まれてきたことをきちんとごまかさずに述べたからだと思います。ただ、「情報自由論」の中ではその市民自身による監視社会化、という深刻な事態に対して根本的な解決策は提示されず、「ネットワークに接続されない権利」「匿名のまま公共空間にアクセスする権利」などいくつかのアイディアが示されたにとどまりました。

その後日本では、2013年の特定秘密保護法、および2017年のテロ等準備罪(「共謀罪」)法案の成立に伴い、記事データベースにおける「監視社会」の登場回数も急増しました。特に2017年の第193回国会で成立した「テロ等準備罪法案」に対しては、政治的な活動に参加している人々を未だ起こしていない犯罪を理由に取り締まることが可能になるため、戦前の治安維持法をイメージさせるとして強い批判の声が上がりました。



ただ、総じていえば、日本では「国家権力に対する市民の監視」の強化に対する批判や反対運動が一時的な盛り上がりを見せることはありますが、「管理社会」「監視社会化」の動き一般について、それを警戒する声が社会の中で大きな広がりを持つことはほとんどなかったといえるでしょう。これは端的には街角や店舗などに設けられた監視カメラが犯罪の抑止・摘発にとって有効なものであるという認識が広がったためかもしれません。しかし、より本質的には東さんによる「監視社会」が市民自身の欲望から生まれてきた、という問題提起の正しさを示す事態のように思えてなりません。

一方、明確な「監視」の形をとらないにしても、テクノロジーの進歩やそれを牽引する企業が提供するサービスが、市民にとって「できること、できないこと」を決めていくという状況もより普遍的なものになってきます。

ローレンス・レッシグの議論

この点に関する先駆的な議論としては、なんといってもサイバー法などを専門とするハーバード大学教授のローレンス・レッシグの議論が挙げられるでしょう。レッシグは、15年以上前から『CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー』などの著作で、テクノロジーの進歩が社会における規制のあり方をどのように変えていくのか、鋭い問題提起を行っていました(レッシグ、2001)。

レッシグは、市民の行動を規制するのに、「法」「規範」「市場」「アーキテクチャ」という4つの手段があることを指摘します。このうち、最後の「アーキテクチャ」を通じた行動の規制とは、公園のベンチに仕切りを設けることによってホームレスの人々がそこに寝転がりにくくするなど、インフラや建造物等の物理的な設計を通じて、ある特定の行動を「できなくする」ことを指します。レッシグは、コンピュータとインターネットによって生み出されたサイバー空間について、大手企業が提供するアーキテクチャを通じた規制によって、自由で創造的な行動が制限される度合いが強まっている、と警鐘を鳴らしたのです。

レッシグの指摘で重要なのは、法を通じた規制にはいわゆるお目こぼしがつきものだけれども、アーキクチャにはそういった「抜け穴」が生じにくい、という点でしょう。特にサイバー空間においては、インターネットのアーキテクチャ、すなわちコードが、ほぼ完全にそこでの人々のふるまいを制約しています。だから、むしろ市民と政府が協力し、法的規制によって大手IT企業が市民の自由な言論や行動を恣意的に規制しないよう、一定の縛りをかけていこう、ということを述べています。ここでは、あくまでも民間企業が資本主義の論理に基づいて提供するアーキクチャが人々の自由を奪わないよう介入していくのが、法や市民社会の役割だということになります。



しかし、そこで一つの疑問が生じます。アーキテクチャによる人々の行動の制限は、民間企業──それがいかに巨大であれ──による「恣意的な規制」だから、問題とされなければならないのでしょうか? アーキテクチャを通じた規制が、より幅広い「民意」を背景にして行われ、ある種の「公共性」を実現するという可能性はないのでしょうか。すなわち、自立した市民が自らの手で作り上げる「法」によって私利私欲の追求に歯止めをかけ、「みんなの幸福」を実現しようとするのが「市民的公共性」の理念だとしたら、それとは異なる形の、すなわち法的な規制が十分に働かない領域で人々の「自分勝手な振る舞い」をそもそもできないようにする、すなわち、アーキテクチャの設計を通じた「公共性」のあり方を考えることも可能なのではないでしょうか?

2.「ナッジ」に導かれる市民たち

上記のような問題を考える上で非常に重要なのが、行動経済学の理論的研究業績で2017ノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラー、および憲法学者のキャス・サンスティーンなどが唱えている「ナッジ」、そしてその背景にある「リバタリアン・パターナリズム」という考え方です。「ナッジ」とは、アマゾンなどのインターネットの購買サイトで過去の購買履歴や閲覧情報などに基づいてAIが「お勧め」してくれるような「助言」をイメージすると分かりやすいかもしれません。ナッジが適切なものであれば、消費者がより良い──自己の効用を高めるような──消費行動を実現し、より幸福になる可能性が高まることを行動経済学や認知科学の知見を生かして主張したのがこの二人による『実践行動経済学』という本です。

たとえば、学校にあるカフェテリア方式の食堂におけるメニューの並び方は、子どもたちの食事の選択に重要な影響を与えます。最初におかれたメニューほど選ばれやすいからです。どうせならば、選んだメニューが子どもたちの健康を促進させるようあらかじめ考えて並べるべきではないのでしょうか。また、このメニューの並べ方を各種の政府による制度設計に置き換えてみれば、適切な制度設計が行われるかどうかは、やはり人々の「幸福度」に大きな影響を与えるはずです。だとするなら、それがパターナリスティックな介入であり、「選択の自由」を奪うからといって、例えば最初から全くのランダムにメニューを並べるべきだ、と主張するのはばかげているのではないでしょうか?

このような議論をするとき重要なのが、全ての選択肢と情報を考慮したうえで合理的な判断を下す「エコノ(経済人)」と、限られた情報の下でしばしば非合理的な選択を行ってしまう「ヒューマン(普通の人)」の区別です。一言で言って普通の人にとって「選択の自由」はそれほどありがたいものではありません。普通の人が「自由」に振舞おうとしても、かならず感情や雰囲気、周りの人々の決定に左右されます。例えばカフェテリアでおいしそうだが高カロリーのメニューが最初に並べられれば、ついそれを手にとってしまいます。その結果、後でカロリーのとりすぎを後悔する、つまり自分にとって不利な選択をする事がよくあります。



そこで政府がなすべきことは、よく練られた制度設計によって普通の人の「選択しないという選択」をサポートしてあげることだというのが、セイラーやサンスティーンの立場です。つまり直接的な所得の再分配や市場にゆがみを与える規制といった「大きな政府」を批判するリバタリアニズム(自由至上主義)の立場と、あくまでも食堂のメニューの並べ替えや、社会保障制度に加入する際のデフォルトのオプションを工夫することによって、より望ましい選択のインセンティヴを与えよう、というパターナリズム(温情主義)の組み合わせが、彼等が依拠するリバタリアン・パターナリズムの立場だといっていいでしょう。このリバタリアン・パターナリズムこそ、先ほどみたような、法的な規制が不十分な下で人々の自分勝手かつ愚かな振る舞いを「そもそもできないようにする」という形での「公共性」のあり方を基礎付ける思想の一つだといえるでしょう。

ただ、リバタリアン・パターナリズムに対してはこれまでも、突き詰めていくと、民主主義の根幹に触れるような問題を含んでいるという批判がなされてきました。「民意の反映であればたとえ愚かな選択であっても受け入れる」のが民主主義の精神であるとするなら、リバタリアン・パターナリズムは明らかにそれとは相容れない契機を持つからです。例えば......本当に望ましいナッジやアーキテクチャを設計できるだけの人材を調達できる仕組みを、政府部門であれ、民間部門であれ持つことができるのでしょうか。また、仮にそれができたとして、人々の行動を左右するナッジやアーキテクチャの設計から排除され、自らはそれに従うだけになった人々との「不平等」は民主主義の基盤を掘り崩すのではないでしょうか。さらに、リバタリアン・パターナリズムは監視社会化とも密接なかかわりを持っています。より多くの市民にとって望ましいナッジを提示しようとするなら、市民の行動パターンや嗜好に関するデータを政府ができるだけ多く入手しておいたほうがよい、ということになります。そういった市民の個人情報を政府が入手し、それに基づいて政策が行われる、という社会のあり方は、言うまでもなく「監視社会」そのものだからです。

政府が進めようとしている動きを「監視」

そこで、今後そういった人々の暮らしをよくするナッジやアーキテクチャを政府が提供する機会が増えていくとして、その決定のプロセスに、市民の側がどの程度主体的にかかわり、政府が進めようとしている動きを「監視」していくべきか、という問題意識が生じてきます。

これに関して、法哲学を専門とする大屋雄裕さんが次のような議論をされています。大屋さんは、将来への主観的な不安に備える安心のシステム(セキュリティ)がそれ自体人々の「自由かつ民主的な」欲求から生まれている以上、「安心」を保証するためのアーキテクチャ=監視システムの導入は避けられない。そして、テクノロジーの進歩によって幸福と自由とのトレードオフが顕在化した状況、すなわち19世紀的な「自由で平等な個人」が作り上げる市民社会の「夢」が「危機」に瀕する中で、来るべき次の世界の在り方を模索すべきだとして、以下のような三つの社会像を提示しています。



三つの社会像

1つ目は、「新しい中世の新自由主義」です。簡単に言えば、私企業が提供するアーキテクチャによって人々の行動が制限され、「法」や政府によるコントロールが効かなくなってしまった結果、ある意味で初期の資本主義に似た弱肉強食の世界、すなわち「力のあるものが勝つ」「自分の身は自分で守れ」といった自己救済の世界に戻ってしまうような事態だと考えればよいでしょうか。

2つ目が「総督府功利主義のリベラリズム」です。「総督府功利主義」は功利主義に批判的な見解で知られる哲学者、バーナード・ウィリアムズが用いた用語ですが、これはちょうどビックデータが「善良な」一部の人々、および彼(女)らによって運営されている公権力によって集中的に管理されており、それを基に社会を制御するアーキテクチャが決められてしまい、多くの人がそれにただ従うだけ、そういうイメージの社会です。こういった社会の具体的イメージについて、大屋さんは「個人の『情報処理能力や判断能力の弱さ』を克服するために、各人が自由に振る舞うとしても社会全体の幸福が自動的に実現する社会を、アーキテクチャ的に制度として実現するというモデル」だと表現しています(大屋2014、224ページ)。

そして3つ目が「万人の万人による監視」、大屋さんの言葉を借りれば「ハイパー・パノプティコン」です。これは、テクノロジーの進化を通じて「監視」が社会のいたるところで行われるようになった結果、人々がエリート層や政府も含めて「監視されるもの」として平等になり、その平等性への一般的な信頼ゆえに社会の同一性と安定性が保たれる、といった状況をイメージすればいいでしょう。

結局、ある程度テクノロジーによる幸福や安全の追求が進んだ社会において、近代的な価値観、すなわち特定の価値観を持った個人を差別・排除しないことに価値を置く、リベラリズムの価値観にコミットするのであれば、「社会を構成する全員が等しく監視の目にさらされ、そのようなものとして平等であるような社会」の象徴としての、ハイパー・パノプティコンを受け入れざるを得ないのではないか、というのが大屋さんの問題で提起です。それは決して心踊るような理想的な社会ではないかもしれないけれども、どれも耐え難いように思える三つの選択肢の中では少なくともいちばん「まし」なものである、というわけです。

以上のような「監視社会」に関するこれまでの議論を踏まえた上で、そろそろ現代の中国の話に移っていきたいと思います。



3.「お行儀のよい社会」になる中国の大都市

2014年に中国政府が「社会信用システム建設計画要綱(2014-2020)」を公表して以来、中国で急速に進むビッグデータの蓄積とその管理、およびそれらを結びつけた「社会信用システム」の構築について関心が高まっており、日本でも関連する報道が増えてきました。すでに中国ではジョージ・オーウェルの小説『1984』さながらの、政府がすべてを監視するような社会が構築されつつあるような印象を与える報道も目立ちます。

ここで、少し整理をしておきましょう。現在の中国において、ビッグデータを用いた「社会信用」はその提供主体や目的の面で二つに大きく分けられます。先行したのはIT大手であるアリババ傘下のアント・ファイナンスが開発した「芝麻信用(セサミ・クレジット)」をはじめとした、民間企業が提供する信用スコアです。これは基本的にはインターネット上の商品や信用の取引を円滑に進める目的で開発されたものです。

中国ではクレジット決済を含めた信用取引が極めて未発達でした。不渡りなどの法制度が未整備であることに加え、零細な企業の参入が相次ぐ産業構造により、企業同士が長期的取引関係を結びにくかったからです。もともと、アリババが開発した独自の決済システム支付宝(アリペイ)は、第三者の仲介機能によってインターネット取引における「信用の壁」を乗り越えたところにその画期性がありました。「芝麻信用」などの信用スコアはそれを一歩推し進めたもので、取引を仲介するプラットフォームに蓄積されるデータから割り出される個人や企業の「信用度」を、一目でわかるスコアに置き換え、信用取引にかかる審査などのコストを大きく引き下げることを狙ったものです。

一方、地方政府が主体となり、市民の個人情報と行動を管理し、問題行為をさせないようにするための「社会信用システム」についてもいくつかの都市で試験的な運用が始まっています。たとえば2018年の11月20日には、北京市で約2200万人の市民に対し、複数の行政部門から集めたデータを用いて、行動や評判に対する表彰や懲罰を行うシステムが運用を開始する、という報道がなされました。

ただし、現状ではまだ全国で統合されたシステムが存在するわけではありません。やはり2018年の3月には国家発展改革委員会によって、5月1日から「信用度」が低い市民は飛行機や鉄道のチケットが買えなくなる、という通達が出され、中国国外でも注目を集めました。これは、チケットやパスポートの偽造、著しい迷惑行為などの問題行動を起こした人物に懲罰を与えることを目的としたものですが(もっとも、同様の行政処分は2014年ごろから始まっていましたが)、現在は都市ごとに運用されている社会信用システムの、全国レベルにおける統合に向けた試みという意味もあると見られます。

また、現時点では民間会社が提供する信用スコアと(地方)政府の運用する社会信用システムは結びついていないことにも注意が必要でしょう。すなわち、後者の評価が下がるような問題行為を起こした人物が信用スコアを下げ、タオバオ(アリババグループが運用する通販サービス)などで買い物ができなくなる、ということも現状では生じていないのです(ただし、一部の都市で政府の提供する市民の行動を評価してスコア付けするプログラムの作成をアント・ファイナンスが請け負う動きはあるようです)。



もちろん、これまで民間企業に蓄積されてきた個人の信用情報を政府が管理する動きは当然ながら存在します。中でも注目されるのが、今年2月に政府系のインターネット金融協会と、芝麻信用を含む8つの民間企業が出資して発足した「信聯(正式名は百行征信用有限会社)」です。政府は信聯に初めて個人信用情報ビジネスのライセンスを与え、急速に拡大するP2Pの融資などインターネット金融の拡大に伴う個人信用情報の市場取引に伴うインフラ整備と不正行為の防止を図ろうとしています。この「信聯」の発足により、アント・ファイナンスなどの民間企業が独立した個人信用情報ビジネスを展開することは事実上不可能になりました。

「監視」をめぐる状況

さて、報道によっては、あたかも中国政府がすでに国家が個人情報を一元的に管理する「社会信用システム」の青写真をすでに描いており、民間企業の提供する「社会信用スコア」もその中に組み込まれているような印象を与えるものもありますが、それは明らかにミスリーディングだといえるでしょう。民間企業が運用する社会信用スコアは、その企業にとって大きな利益を生む財産であり、その他企業や政府のシステムとの統合はそう簡単には進まないと考えられるからです。ただし、注目しておきたいのは、現在の中国では、レッシグが警鐘を鳴らしたような「大手民間IT企業が提供するアーキテクチャが人々の行動を左右する」という状況、及びサンスティーンらが推し進めようとしている「温情主義的な政府が制度設計によって市民を善導する」という動きが、ほぼ同時かつ急速に進行している、ということです。

次に、カメラを使った文字通りの市民に対する「監視」をめぐる状況についても触れておきましょう。近年中国の大都市を訪れた機会がある人なら、駅などの公共施設及び信号機周辺、さらに商業施設の出入り口などいたるところに多数の監視カメラが無造作に設置され、通行する人々に向けられているのにぎょっとした人も多いでしょう。もちろん、日本だってすでに街中に多くの監視カメラが張り巡らされているのですが、日本では人々に威圧感を与えないようなるべく目立たない形での設置が好まれるのに対し、中国ではむしろこれ見よがしに「監視しているぞ」ということを誇示するような設置がされていることが多いように思います。

カメラの設置だけではなく、画像を認識する技術も急速に進化しています。ここでは、今年の9月にAIを使って個体認識を行う技術を開発している新興企業を訪問した際の話をしたいと思います。この企業の社員は平均年齢が26歳と非常に若く、ほとんどが清華大学とか北京大学といったトップクラスの大学を卒業していて、「中国で1番頭が良い企業」と自他共に認めるようなところです。



この企業を訪問すると、オフィスに設置された監視カメラが様々な角度から捉えた訪問者の画像が大きなモニターに大きく表示されます(下の写真:写っているのは筆者)。これは個人を特定化しているわけではなく、短髪でリュックを背負っている、青い長袖シャツを着ている、などいくつかの特性を写真から抽出して蓄積し、膨大な匿名データをある特徴をもったいくつかのカテゴリーに分類する「セグメント化」のために行っているものです。さらに、このビルの入り口に設置された監視カメラが道行く無数の歩行者を四六時中撮影しており、この人は男か女か、何歳ぐらいか、というデータを常に集めています。そうやってできるだけ多くのデータを集め、セグメント化のための精度を上げていく、ということをやっているわけです。

AIによる顔認証のテクノロジーは、カメラに映りこんだ人物がどういう人なのか、ということを特定化、アイデンティファイするものです。この技術を使えば、蓄積された個人データと照合してその人を特定化することができますし、犯罪者や指名手配犯のリストに載っている人物であれば、そのリストと照合して特定化し、逮捕したりすることもできます。

つまり、同じAIを用いた顔認証といっても「匿名を前提としたセグメント化」と「顕名性に基づいた同定化」という異なるベクトルのものが存在するわけです。

もう一つ重要なものとして、動体認識、すなわち人々の動作をAIが認識してその特徴を記録することに関する技術があります。たとえば無人コンビニなどで、人がその中でどのような動きをするか、ということをパターン化してそのデータを保存する。30代の男性がビールを買った後にどんなおつまみを買うか、などということを全部データとして蓄積していく、ということです。あるいは、歩き方の癖を記録してプロファイリングしておき、暗くて顔がよく分からない場合でも監視カメラに映った人物を特定化し、犯罪者の拘束につなげるといったことも可能になります。この3つの技術を開発し、実際のビジネスや、上記の「社会信用システム」のような行政による統治技術などとも連動して利用できるようなシステムの開発に向けて、若くて優秀な技術者を要するベンチャー企業がしのぎを削っているわけです。

統治テクノロジーの進化

さて、こういった統治テクノロジーが進んだことによって中国社会はどう変わりつつあるのでしょうか。まず言えるのは、特に大都市を中心に「お行儀の良い社会」になりつつあると言うことです。以前から仕事などで中国に行く機会が多かった方が、現在の大都市を訪問すると如実にその変化を感じるのではないかと思います。たとえば「人民日報」には、中国の人口10万人あたりの殺人件数は2017年が0.81件と、殺人発生件数の最も低い国の一つになったと書かれています。暴行罪の件数は2012年より51.8%減少し、重大交通事故の発生率は43.8%減少、社会治安に対する人々の満足度は、2012年の87.55%から2017年の95.55%に上昇したと(「『人民網日本語版』2018年01月25日」)。



言うまでもなく「人民日報」は中国共産党の機関紙ですから、これはプロパガンダの一種ではあるのですが、一方でこれらはあながち嘘でもないと私は思います。特に殺人だとか暴力的な犯罪が劇的に減っているというのは、中国に長く住んでいる人々の中からも実感として聞かされるところです。タクシー運転手にまつわるトラブルも昔は多かったのですが、今は配車アプリによって常にレイティングされ、評価されているので、あまり変なことができないわけです。要は、「向社会的行動の点数化」、つまり人々がより社会のためになるような行為を行うと、それが可視化されて自分の利益になっていく仕組みが社会の中に実装されつつある、ということなのでしょう。

先ほど述べた芝麻信用の話に戻しますと、この社会信用スコアの問題点の一つは、なぜ上がったり下がったりするのか、それがよくわからないということにあります。この芝麻信用は利用する際にSNSを通じた交友関係や学歴も入力することになっていますが、どの程度重みづけされてスコアが計算されるのかは公表されていません。たとえば私自身、この夏に北京に行く前の芝麻信用のスコアは577点だったのですがが、3週間滞在して、いろんなサービスを使っているうちに1点上がって578点になりました。しかし、なぜ上がったのかはよくわからない。

こういった、「よくわからないシステム」によって行動が評価されて、それが何らかの形で自分に利害を及ぼすようになる。つまり、再帰的な行動評価のシステムがブラックボックスになっていると、人々はいわゆる「自発的な服従」といわれるような行動をとるようになってきます。つまり、それによって恩恵を得られるので、みんなおとなしく従う、という状況が生じてくるわけです。

中国社会と言うと、一時期のイメージとしては非常にアグレッシブで、カオスのようなエネルギーにあふれている、決まりがあってもみんな守らないで自分勝手な解釈で行動する、そういう民間のエネルギーにあふれている社会だ、というのが一般的なイメージだったと思いますが、実はこのところ大都市に限って言うと、「行儀がよくて予測可能な社会」になりつつあるように思います。こういったテクノロジー、アーキテクチャの導入による中国社会の変化を、前回の連載でのべたような「市民社会」の問題とどうつなげればよいのか。次回は、この点を議論したいと思います。


参考文献
東浩紀(2007)「情報自由論2002-2003」『情報環境論集 東浩紀コレクションS』講談社
大屋雄裕(2014)『自由か、さもなくば幸福か』筑摩選書
大屋雄裕(2018)「確率としての自由―いかにして<選択>を設計するか」『談』第111号
セイラー、リチャード=キャス・サンスティーン(2009)『実践行動経済学』日経BP社
田畑暁生(2017)「事件報道が『加担』する監視社会―権力見張る側面強化を」『Journalism』第329号
レッシグ、ローレンス(2001)『CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー』翔泳社

[執筆者]梶谷懐
神戸大学大学院経済学研究科教授。専門は現代中国経済論。1970年大阪府出身。神戸大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。最新刊の『中国経済講義-統計の信頼性から成長のゆくえまで』(中公新書)、『日本と中国経済』、『日本と中国、「脱近代」の誘惑』ほか、著書多数
ウェブサイト:http://www2.kobe-u.ac.jp/~kaikaji/
ブログ「梶ピエールの備忘録。」http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/



梶谷懐(神戸大学大学院経済学研究科教授=中国経済論)

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