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脳の快感を呼ぶASMR(自律感覚絶頂反応)って何?

ニューズウィーク日本版 2019年1月16日 16時40分

<ささやくような声や音で心地よくなり、眠くなる――この現象が今、注目を浴びて研究やビジネスにつながり始めた>

もじゃもじゃ頭の男がキャンバスに向かい、「この木は小さいけどハッピーで......」などと低い声でつぶやきながら絵筆を動かしていく。それだけのテレビ番組に、中学時代のクレイグ・リチャード(48)は夢中になった。1983年にPBS(公共テレビ放送網)で始まった『ボブの絵画教室』だ。リチャードは学校から帰るとテレビの前に座り、画家ボブ・ロスの筆さばきに見入り、つぶやきに聴き入ったという。「催眠術みたいな感じで、心が安らいだ。そして必ず番組の途中で眠りに落ちた」

見ているだけで、頭や上半身にひどく心地よい、ぞくぞくするような感覚が訪れたとリチャードは言う。似たような感覚は、妹が本を読むのを聞いていたときにもあった。「優しくて小さな声でね、聞いているうちに、こっちはいつも寝てしまった」

その感覚に名前があると知ったのは30年後だ。リチャードはバージニア州のシェナンドア大学で生物薬学の教授になっていた。そして5年前に、何げなく聴いていたポッドキャストで初めて「ASMR」という言葉を聞いた。ASMRの体験者には「ボブ・ロスを好きな人が多かった。頭がむずむずしたんだって。『これだ!』と思った」とリチャードは言う。

ASMRは「自律感覚絶頂反応」の英語の頭文字を取ったもの。心地よさは、さまざまな感覚を通して引き起こされる。「私の場合は、誰かがページをめくったり、紙に鉛筆で何か書いたりするときの擦れる音に反応する」と言うのは、ニュージャージー州で統合ヒーリング・タッチ療法の施術を行うカレン・シュワイガー。「美容院で髪を洗ったりブラッシングしてもらうときとか」も感じるそうだ。

ASMR熱は10年頃からインターネットやYouTubeの世界で高まってきた。ヘルスケア従事者のジェニファー・アレンがASMRという言葉を提唱し、フェイスブックでASMRのグループを立ち上げたのがきっかけだ。リチャードも14年にASMR研究プロジェクトをスタートさせて、これまでに2万人以上を調査。ウェブサイトのASMR Universityでも関連した研究を集めている。

彼の新著『ざわめく脳』はASMRの歴史と、ASMRを生じさせる方法を紹介した初のガイドブック。その方法は、脳神経の検査を受けるふりをする、布をこすって音を出す、などなど。妙な話だが、出版のタイミングは完璧。今ではYouTubeにASMR関連の動画が1300万以上もあり、その世界でセレブになった人もいる。

家具メーカーのイケアはASMRを取り入れたプロモーション動画を公開した。ファッション誌Wはサルマ・ハエックなどの有名人がささやき声でインタビューを受ける動画を発表。18年6月にはコメディアンのブランドン・ウォーデルが、ひそひそ声でジョークを飛ばす世界初のASMRアルバムをリリースした。



優しく話し掛けられそっと触られ思いやりのあるまなざしで見られると、脳はリラックスして安全だと感じる PHOTO ILLUSTRATION BY C.J. BURTON

不眠症の治療に応用も

それだけではない。ASMRを何かに役立てようとする研究も少しずつ始まっている。同じ6月にイギリスのシェフィールド大学とマンチェスター・メトロポリタン大学の研究チームが、ASMRの生理学的効果に関する初の研究成果を発表している。

「ASMRはリラックスや鎮静の感覚で、人と結ばれているという感じを増すことが分かった」と、論文の共同執筆者ジュリア・ポエリオは言う。そうであれば、いずれは不眠症などの治療にASMRを応用できそうだ。

リチャードも、ボブ・ロスのように人を安心させる優しい声で話す。ASMRとは何か、初めてその定義が試みられた日を彼は覚えている。07年10月29日だ。その日、SteadyHealthという健康に関するウェブフォーラムのメンバーが「変な感覚が気持ちいい」というスレッドを立ち上げた。すぐに多くの反応があった。「頭のオーガズム」という用語の提案もあった。

ロスの番組に快感を覚えたという人も多かった。「何度も何度も見た」とシュワイガーは言う。「彼が絵を描くのを見て、彼の声とキャンバスを走るブラシの音を聞くと本当に落ち着いた。私はずっと不安を抱いて生きてきたので、神の恩寵のように感じた」

ロスは1995年に世を去ったが、今も慕われている。「彼はASMRのゴッドファーザーね」と事業を引き継ぐボブ・ロス社の社長ジョーン・コワルスキは言う。「ASMRという言葉がまだなかった頃から彼に夢中になる人は多かった」。番組を見ながら眠ってしまう人がいても、彼は気にしなかったという。「『申し訳ないけど、最後まで見たことはないんです。始まって10分くらいで寝ちゃうんで』と言ってくる人もいた」そうだ。

リチャードは科学者だから、ASMRは生理的な反応だと考え、ネットで論文を探した。しかし見つからない。当時分かっていたのは、ASMRが強い快感をもたらすこと、「頭のオーガズム」と呼ばれることはあっても性的な体験ではないこと、くらいだ。

「今は『ASMRエロティカ』とかで検索すると、セクシーにささやく動画がたくさん見つかる」と言うのは、ASMRスパ「ウイスパーロッジ」の共同設立者メリンダ・ラウ。でも本来のASMRが持つのは「興奮ではなく鎮静の効果だと思う」という。



なぜASMRで気持ちが落ち着くのか。リチャードは生理的に引き起こされる反応だと確信している。例えば人気のささやき動画「ジェントル・ウィスパリング」の声を聞くと、赤ん坊をなだめようとするときの母親の声によく似ている。「私たちは生まれたときから、ああいう声で落ち着くようにできている」と、彼は考える。

サルの毛づくろいと同じ?

「優しく話し掛けられ、そっと触れられ、思いやりのあるまなざしで見られると、私たちの脳はこの人なら自分を守ってくれると認識し、これで安心だと感じる」と、リチャードは言う。

そのせいか、ASMRビデオの声優は大半が女性だ。また12年にはニュースサイトのバズフィードに、ASMRは霊長類の動物が毛づくろいをし合うときの快感と関係がありそうだとする記事が載った。そうであれば、ASMRでも脳内物質のオキシトシン(別名「愛のホルモン」)が増えるといった生理的反応が起きているのかもしれない。

ただし、全ての人がASMRで落ち着くわけではない。なかにはささやき声を不快に感じる人もいる。同じ音でも、反応や感じ方は人それぞれだ。それでもリチャードの推測では、10人に4人はASMRでリラックスでき、2人は「脳がぞくぞくするような」強い陶酔感に浸れるそうだ。

「今後は客観的な実験法を研究する必要がある」と英バーススパ大学の心理学者アグニェシカ・マカーリンは言う。彼女の17年の研究によると、ASMRに反応する人は共感覚者と性格が似ている。共感覚とは、音や数字に特定の色を感じる知覚現象のことだ。「病気治療への応用の可能性を探る研究も進むだろう」と彼女は言う。

『ボブの絵画教室』を患者に「処方」する精神科医もいるらしいと、ボブ・ロス社のコワルスキは言う。「薬を処方するかのように処方箋を書いているところが目に浮かぶ」と、彼女は笑う。

処方箋がなくても、ASMRに癒やしを求めることはできる。例えばASMR動画をたくさん投稿しているユーチューバーのアリー・マークには、現に約50万のチャンネル登録者がいる。なかには「外国の戦場から帰還した元兵士たち」もいて、「私の動画のおかげで癒やされた、ずっと眠れなかったのにようやく眠れた、といったコメントが寄せられている」そうだ。ちなみに彼女は、今やASMR動画だけで生計を立てている。

筆者が体験した極上の効果

私の部屋で、見知らぬ女が私の顔を化粧用ブラシでくすぐっている。環境音楽をバックに、彼女は使用中の道具をささやき声で説明する。タコみたいに何本も足がついた器具で頭皮をマッサージされる頃には、私は夢心地で雲間を漂っていた......。



この女性チア・リン・クワはウィスパーロッジから派遣されてきた。前出のラウと、劇作家のアンドルー・ホフナーが共同で設立したウィスパーロッジにはASMR体験の「イマーシブ(没入型)シアター」がある。これは10人限定のセッションだが、別に一対一の「ウィスパー・オンデマンド」もあり、料金は45分100ドルから。エステのマッサージ並みの料金だが、(少なくとも私には)エステと同じくらいの効果があった。実を言えば、私は子供の頃からASMRのような感覚を覚えていた。

シンガポール出身で26歳のラウも10代の頃に、YouTubeで不思議な映像を見つけた。その動画をこっそり見ていると、厳格な家庭で暮らすストレスが減ったという。

「そんな動画を見ているなんて、恥ずかしくて人に言えなかった」と振り返るラウはある晩、映像のコメント欄をヒントに「ASMR」を検索してみた。「そしたら同じ感覚を持つ人が大勢いて、ああ自分はおかしくないんだと安心できた」

大学では美術を専攻し、卒業論文のテーマはASMR。やがてイマーシブシアターに夢中になったことから、ホフナーと出会った。ホフナーはASMRを知らなかったが、自身が主宰する没入型パフォーマンス『ハウスワールド』の観客には、期せずしてASMR効果を及ぼすことがあったようだ。

「ウィスパー・オンデマンド」を受けるときは「ささやきとボディータッチに性的な含みはない」ことを確認し、服を脱がないという誓約書にサインする。クワは手近なテーブルにブラシやタコ型マッサージ器を置く。それを見ただけで、私はわくわくした。

音楽が流れ、彼女がささやき始めた瞬間、部屋の分子構造が変わる。気まずさが消えて心が静まり、なんというか......守られている気がする。

最初はかすかなぞくぞく感も、次第に強くなってくる。ブラシでなでられてうっとりし、くしで頭皮を刺激されて恍惚とする。サルが毛づくろいでこんな快感を味わっているのなら、来世はサルに生まれたい。

そして時間の感覚が消えた頃、かなたからクワの声がする。「セッションは終わりです。ローズマリーのミストをひと噴きしましょうか」

ああ、もちろん。もっとぞくぞくさせてくれ。

<本誌2018年01月15日号掲載>



※2019年1月15日号(1月8日発売)は「世界経済2019:2つの危機」特集。「米中対立」「欧州問題」という2大リスクの深刻度は? 「独り勝ち」アメリカの株価乱降下が意味するものは? 急激な潮目の変化で不安感が広がる世界経済を多角的に分析する。


ザック・ションフェルド(カルチャー担当)

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