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1杯のコーヒーから始まる感謝の旅

ニューズウィーク日本版 2019年1月18日 17時0分

<体を張ったリポートで知られるジャーナリストが自分の飲むコーヒーに関わった人全員を洗い出しお礼を伝えた体験記>

ニューヨークに住むジャーナリストのA・J・ジェイコブズは、決して信心深いわけではない。でも夕食は感謝の祈りで始めることにしている。野菜を育ててくれた農家、それを店に運んでくれたトラック運転手、スーパーのレジ打ち担当者......。

3人の息子たちは、毎度あきれたような顔をする。ついにある晩、末っ子が言った。「そんなこと言っても、誰にも聞こえてないんじゃないの」

確かに。自分が日々手にするものがそこにたどり着くまでには、数え切れない人の働きがあるのに、自分はその多くを知りさえしない。感謝の祈りなんて上っ面にすぎないのかもしれない。もっとリアルな感謝をしたい――ジェイコブズは思った。

そこで彼は、自分がコレなしでは生きていけないと思うもの、すなわち1杯のコーヒーを選び、それが自分の手元に届くまでに関わった人全員に感謝するというプロジェクトを開始。その珍道中をまとめた著書『サンクス・ア・サウザンド』が18年11月に刊行された。

ジェイコブズはこれまでにも、『聖書男(バイブルマン) 現代NYで「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記』(邦訳・CCCメディアハウス)など、体を張った実験を本にしてきた。そこに共通するのは、一見奇妙な挑戦の最後には、感動的な結果(と爆笑)がもたらされること。『サンクス・ア・サウザンド』も例外ではない。

「現代は部族主義と孤立主義が高まっていると言われるが、実のところ私たちは世界の多種多様な人たちと複雑に絡み合っている」とジェイコブズは語る。

『サンクス・ア・サウザンド』のポイントは、コーヒー1杯に関わっている人全員を洗い出すだけでなく、彼らに感謝の気持ちを伝えることだ。巻末の謝辞には1000人もの名前が挙げられている(17世紀に悪魔の飲み物とされたコーヒーに洗礼を授けたというローマ法王クレメンス8世もその1人だ)。

ひどく無感動な反応も

旅の出発点となったのは、ニューヨークのアッパー・ウェストサイドにある自家焙煎コーヒー豆店「ジョー・コーヒー」。そして終着地はコロンビアの山岳地帯のコーヒー農家だ。ジェイコブズはそこで彼らと一緒にコーヒー摘みをさせてもらう。

その間には思わぬ人たちが大勢登場する。トラック運転手に衛生指導員、倉庫で重いコーヒー豆の袋を運ぶのに欠かせない荷台を作る会社。「荷台にこんなに感謝すると思わなかった」とジェイコブズは語る。「アメリカの木材の46%が荷台に使われているんだ!」



コーヒーカップに付けるカバー、スリーブを発明したジェイ・ソレンセンとの出会いには特に感動した。「世界中の無数の指を不快な熱さから守る仕掛けが、コーヒーをこぼしてやけどしそうになった男に発明されたなんて最高の話じゃないか」と、ジェイコブズは言う。

感謝の方法はいろいろある。相手に直接伝える場合もあれば、電話をかけたり、メールや手書きの感謝状を送ることもある。その反応は、ハグから困惑までいろいろだ。「倉庫のコーヒー豆に虫がつかないようにしてくれてありがとう」と、害虫駆除会社に電話をしたときは、電話口の女性がひどく無感動で、「どういたしまして」と言うと、さっさと電話を切ってしまった。



ジェイコブズは、行動が思考を形成すると考えている。つまり感謝の言葉を口にすることが、実際に感謝する気持ちを育むというのだ。だが、それは言うほど簡単ではない。

『サンクス・ア・サウザンド』には、ジェイコブズが心理学者に相談する場面がある。エクソンモービルのCEOに感謝しなければならないが、どうしてもその気になれない。「あれはキツかった」とジェイコブズは語る。「ジョーの店にコーヒー豆を運ぶトラックは、エクソンのガソリンを使っていた。あの会社が地球環境に与えている影を考えると、口先だけでも感謝するのは難しかった」

だが心理学者がうまいアドバイスをくれた。ジェイコブズが感謝すれば、エクソンのCEOはハッピーな気分になるかもしれない。「そうしたらもっと社会的な行動を取ろうと考えて、世界の資源を略奪して莫大な利益を上げようという意欲は薄れるかもしれない」というのだ。

ジェイコブズはインタビューの最中、大切そうにコーヒーを飲んでいた。「もともと食べ物をすごく味わって食べるタイプじゃない。でも、このコーヒーを作るために無数の人が膨大な時間をかけていることを知ってからは、少なくとも2秒間は、その酸味と舌触りと甘みを味わうようにしている」

何事もよく味わい、感謝の気持ちを持つこと――。その哲学を、ジェイコブズはあらゆる場面で実践しようとしている。「その努力をしなければ、人生はあっという間に過ぎて行ってしまう。そして気が付いたらおしまいになってしまうからね」

<本誌2018年01月15日号掲載>



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メアリー・ケイ・シリング

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