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話題作『ローマ』が映し出す、矛盾だらけのメキシコ

ニューズウィーク日本版 2019年2月8日 19時10分

<アルフォンソ・キュアロン監督の話題作が映す、子供時代と今の母国メキシコ>

『ROMA/ローマ』の脚本は誰も通読してはならなかった。プロデューサーのガブリエラ・ロドリゲスさえも。アルフォンソ・キュアロン監督の半自伝的作品で、極めて個人的な物語だったからだ。

「脚本自体は手元にあった」と、ロドリゲスは本誌に語る。「でも読まないでくれと言われたので、その望みを尊重した」

美しいモノクロームで撮影された本作は1月、ゴールデングローブ賞の外国語映画賞と監督賞を受賞。今年のアカデミー賞では監督賞をはじめ10部門にノミネートされており、キュアロンに3つ目のオスカー像をもたらすことになるかもしれない。

キュアロンは大作『ゼロ・グラビティ』(13年)で、メキシコ人として初めてアカデミー賞監督賞と編集賞を受賞した。一方、『ローマ』にハリウッド色は皆無だ。主演のヤリッツァ・アパリシオはメキシコ先住民族ミシュテカ出身の幼稚園教諭で、今回初めて演技に挑戦した。

彼女が演じるクレオは、子供時代のキュアロンの世話をした女性がモデル。先住民が人口の2割以上を占めるメキシコで、クレオは白人中流家庭の住み込みの家政婦として、一家の4人の子供の面倒を見ながら夜明けから夜遅くまで働き、狭苦しい部屋で寝起きしている。

クレオを通じて見えてくるのは、メキシコの社会・経済的不平等だ。クレオが予想外の妊娠をしたとき、観客は彼女に医療保険がないことを知る。住み込みで働くメキシコシティのローマ地区と、クレオの元恋人が住むスラムの激しい落差を目にすることにもなる。

そうした現実を最も効果的に示すのは、家具店の2階の窓から街路を見下ろすシーンだ。クレオはそこで、学生のデモ行進が惨事に転じる現場を目撃する。

この場面は71年に起きたコーパス・クリスティの虐殺(血の木曜日事件)を再現している。学生約120人が殺害された事件には、政府軍の支援組織である武装集団ロス・アルコネスが関わっていた。メキシコでは68年にも、一党支配体制を敷く制度的革命党(PRI)に抗議する学生が襲撃されたトラテロルコの虐殺が起きている。

「この映画は社会・経済・民族的格差を随所で描く」と、プロデューサーのロドリゲスは語る。だが、監督は「無理やり見せようとはしていない。それらはただそこにあり、感じ取るかどうかは見る側次第だ」。

近年のメキシコ政治をよく知る人なら、ピンとくる点ははるかに多いだろう。同国ではエンリケ・ペニャ・ニエト前政権下の14年、トラテロルコの虐殺の記念行事に参加しようとした学生43人が当局に拉致された。彼らの居場所は今も判明せず、大勢の国民が怒りの声を上げる。



ネットフリックスが『ローマ』の配信を開始したのは18年12月14日。メキシコ大統領に就任したばかりのアンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドールが、14年の事件の行方不明者について調査を求めると宣言した約2週間後のことだ。

家事労働者に当たった光

本作は「社会や階級、人種をめぐる私自身の罪悪感の表れだと思う」と、キュアロンはバラエティー紙に語っている。「私は白人の中流階級のメキシコ人少年で、守られた立場にいた」

自分を育てて社会の実情を教えてくれた女性、リボ・ロドリゲスをモデルにした役を演じられる人物を求めて、キュアロンは1年以上を費やした。アパリシオに巡り会ったのは、3000人をオーディションした後だ。

現在25歳のアパリシオは当時、キュアロンが誰かも知らなかった。「アルフォンソは優しく私を導いてくれた。クレオの出産や、海で子供を救う感情的に苦しいシーンに備えるために助けてくれた」

自らの役にはすぐに共感できた。「クレオは私そのもの。教師の私も子供が大好きで、ときどき過保護になってしまう」。リボ・ロドリゲスに会ったときには、同じ家事労働者だった自分の母親を思い出したという。

当初はメキシコやアメリカの家事労働者の境遇にスポットライトを当てる意図はなかったと、プロデューサーのロドリゲスは話す。だが結果的にそうなったことはキュアロンと共に喜んでおり、この問題が忘れられることのないよう、できる限りのことをしていくつもりだ。

ゴールデングローブ賞授賞式に、キュアロンは全米家庭内労働者連合(NDWA)の代表者を同伴した。NDWAは昨年11月、米連邦議会の新会期に「家事労働者の権利章典」を共同提出すると発表。成立すれば、米国内の「計200万人の家事労働者に対する保護を拡大」できると、ロドリゲスは指摘する。

「彼女たちの存在と役割が認められるのは素晴らしいことだ。政治的に重要な時期にあるメキシコ国内の多くの人にとっても意味がある」

CARLOS SOMONTE/NETFLIX

上から目線の先住民観?

コーパス・クリスティの虐殺の最中に産気づいたクレオは雇い主のコネのおかげで、病院で行列に並ばずに済む。しかし誰もが彼女ほど幸運ではない。

メキシコ労働社会保障省が17年12月に発表した報告書によると、同国の家事労働者の98%は今も医療保険の対象外で、保育や無料の医薬品、年金に手が届かず、日給は8ドル未満だ。メキシコ国家差別防止協議会の15年の報告では、調査対象の家事労働者1243人のうち33%が先住民族出身者として差別を受けていると回答。25%が独自の言語で話すことを雇い主に禁じられていた。



一方、ロペス・オブラドール政権の誕生以来、いくつかの進展もみられる。メキシコ国家最高司法裁判所は昨年12月、家事労働者200万人超を社会保障の対象とする事業の策定を承認。ロペス・オブラドールは同月、家庭内労働者の国際労働基準であるILO(国際労働機関)の「家事労働者条約」を批准すると宣言した。

ロペス・オブラドールは就任当初から、先住民にスポットライトを当てることに力を入れてきた。大統領就任式の日も、国会議事堂で宣誓した後、広大な憲法広場(ソカロ)に移動して、無数の人々が見守る前で先住民から浄化の儀式を受けた。

とはいえ、ロペス・オブラドールが楽観的な公約をきちんと守れると考えるメキシコ人は決して多くない。世論調査会社デ・ラス・エラス・デモテクニアが12月半ばに行った調査によると、彼が大統領として成功すると考えるメキシコ人は30%しかいなかった。

ロペス・オブラドールは、大統領就任後3年間は新たな借金も増税もしないと約束したが、公約を実現するためには増税が避けられないと、OECD(経済協力開発機構)は見る。例えばロペス・オブラドールは、80億ドルを投じて南部の遺跡を結ぶ「マヤ観光鉄道」を建設する計画を公約の1つにしてきた。

「平等と進歩に向けた改革、とりわけ先住民のための改革が実現することを心から願っている」とアパリシオは言う。「でも夢を語るだけでは意味がない。具体的な行動が伴わなければ」

先住民は政治にほとんど影響力を持たず、貧困に苦しむコミュニティーも少なくない。根深い人種差別も存在する。16年のバズフィードの調べによると、メキシコで最も売れている雑誌15誌の表紙に先住民が登場することはめったにない。

CARLOS SOMONTE/ASSOULINE PUBLISHING

それだけにアパリシオにとっては、先住民クレオを主人公に据えているだけでも、『ローマ』は意義深く感じられる。「メキシコでは、私のように肌の黒い人間がファッション誌の表紙を飾るのは重大な出来事だ」。彼女は12月にヴォーグ誌メキシコ版の表紙を飾った。

だが、キュアロンが特権的な白人の目線で先住民を描いていると批判する声もある。ニューヨーカー誌の映画評論家リチャード・ブロディは、『ローマ』は「アッパーミドル階級の知的映画人が労働者階級を描くとき陥りがちなステレオタイプ」にあふれていると酷評した。この手の映画に出てくる労働者は、「口数が少なくて天使のように純粋無垢で、自己表現をする能力も意思もないことが美徳のように描かれる」というのだ。



これに対してプロデューサーのロドリゲスは、「(キュアロンには)自分の記憶を描く以外の意図はなかった」と強調する。「(口数の少ない家政婦は)キュアロンが記憶する彼女だ。そして記憶が事実とは限らないことを彼は否定するつもりはない」

アパリシオも、『ローマ』には好意的な意見と批判的な意見の両方があることを認める。「でも、少なくともこれによって、多様性を表現する重要性が語られるようになった」

クレオは71年に起きた学生虐殺事件を目撃する CARLOS SOMONTE/NETFLIX

クレオの役作りに協力したキュアロン家の元家政婦リボ・ロドリゲスは、『ローマ』の仕上がりに大いに満足しているようだ。プロデューサーのロドリゲスは、ニューヨーク・フィルム・フェスティバルで、リボと一緒に『ローマ』を見たという。

「リボは大泣きしていた。(キュアロンが)レッドカーペットを歩くときは、『私のベイビー、本当に立派になって!』と言っていた。彼女にとってはいつまでも可愛い子供なのだ」

<本誌2019年02年12日号掲載>



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ロバート・バレンシア、アンナ・メンタ

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