Infoseek 楽天

中国の「監視社会化」を考える(5)──道具的合理性が暴走するとき

ニューズウィーク日本版 2019年2月27日 13時26分

<中国のなかでも新疆ウイグル自治区における監視は、社会の安定のためには人権も顧みない最も抑圧的なものだ。最新のテクノロジーを駆使して人物の特定や分類を行うなど、監視技術も進んでいる。政府によるこうした監視を監視する強い市民社会がなければ、先進国でも同じことは起こりうる>

       ◇◇◇

*第1回: 現代中国と「市民社会」
*第2回: テクノロジーが変える中国社会
*第3回: 「道具的合理性」に基づく統治をどう制御するか
*第4回: アルゴリズム的公共性と市民的公共性

第5回:道具的合理性が暴走するとき




「イプシロンは、自分がイプシロンでも気にならないのよね」レーニナは声に出して言った。

「そりゃそうだ。当然だろ。それ以外の自分を知らないんだから。もちろん僕らはイプシロンなんていやだけど、それはそういう風に条件づけられているからだよ。それに、もともと別の遺伝形質をもって生まれてきている」

「わたし、イプシロンじゃなくてよかった」レーニナはきっぱり言った。

「もし君がイプシロンだったら、条件付けのせいで、ベータやアルファじゃなくてよかったと思うはずだよ」

──オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』(大森望訳)より


日本でも、最近は中国の「監視社会化」への関心が高まっているようで、それをテーマにしたメディアの記事や新書なども目に付くようになってきました。それらの多くは、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いた、独裁者「ビッグブラザー」が至る所に設置された「テレスクリーン」を通じて人々の言動を監視するディストピア(オーウェル、2009)、あるいはドイツの政治学者、セバスチャン・ハイルマン氏が用いた「デジタル・レーニン主義」のような、中央政府に極度に情報が集中した、冷戦期におけるスターリニズムのイメージで捉えようとするもの(Heilmann, 2016) だといってよいでしょう。

『すばらしい新世界』

ところが、この連載ではこれまでそのような枠組みで中国の「監視社会化」を語ってはきませんでした。というのも私は、現在の中国社会で起きていることを、『1984年』のような冷戦期の社会主義国家における「監視社会」のイメージで語るのはかなりミスリーディングだ、と考えているからです。それよりもより便利に、快適な社会になりたいという人々の功利主義的な欲望を糧に発達しているという点で、オルダス・ハクスリーの『すばらしい世界』が描く世界の方がよほど現実に近いのではないか、と個人的には思っています。

人々が画一的で自由の奪われた生活を送る、文字通りのディストピアである『1984年』の世界に比べて、『すばらしい新世界』では人々は煩わしい家族関係や、子育て、介護などから解放され、やりがいのある仕事と不特定のパートナーとの性的関係を含む享楽的な生活を謳歌しています。

しかも、そこでは人々が己の欲望のままにふるまったとしても、決してそのことによって社会秩序が崩壊することはありません。その理由の一つとして、赤ん坊がすべて「社会的なもの」として育てられる、すなわち保育器の環境や栄養状況、並びに耳から聞かされるメッセージなどを通じて社会規範を逸脱するような欲望はそもそも抱かないように「条件付け」がなされているからです。それを支えているのが、社会階層と個人の能力をリンクさせることによって「アルファ」から「イプシロン」までのタイプが形成されて再生産され、過酷な肉体労働は最下層のイプシロンが担うなどの徹底した分業体制が敷かれているからです。

その意味では、『1984年』が20世紀初頭の社会主義のイメージに強く影響された世界観であるのに対し、『すばらしい新世界』はすぐれて資本主義的な、ある意味ではその理想形だとさえいる未来像を示している、と言えるでしょう。いずれもディストピア小説の古典的名作といわれながら、『1984年』はその後継作品を挙げることが難しいのに対し、『すばらしい新世界』の世界観はその後の多くの作品に受け継がれている──比較的最近の傑作としては伊藤計劃さんの『ハーモニー』があげられるでしょう──のも、この作品が人々に広く共有されている資本主義的・功利主義的な価値観をベースにしながら、その行き着く先を見事に暗示しているからかもしれません。 

さて、これまで述べてきたように、私は、人々のより幸福な状態を求める欲望が、結果として監視と管理を強める方向に働いているという点では、現代中国で生じている現象と先進国で生じている現象、さらには『すばらしい新世界』のようなSF作品が暗示する未来像の間に本質的な違いはないと考えています。憲法学者の山本龍彦さんは、中国の芝麻信用を例にとりながら、ビッグデータを活用した個人の信用スコアが普及するにつれ、ネガティブな評価を受けた人々の活動範囲が狭まり、階層が固定化される「バーチャル・スラム」という現象が生じる可能性がある、と警鐘を鳴らしています(山本、2018)。このAIとビッグデータを通じた「バーチャル・スラム」の固定化と、「アルファ」から「イプシロン」までのタイプが再生産されるという『すばらしい新世界』の設定までは、すでにあと少しの距離なのではないでしょうか。

そもそも、そういった「バーチャル・スラム」化の防波堤となるはずの社会近代的なリベラリズム、あるいは人権思想の前提となる「すべての人格は平等である」という前提そのものが、これまでもフーコーなどポストモダンの思想家から批判されてきたように、様々な矛盾をはらむものでした。その矛盾が、科学による道徳意識の解明や、テクノロジーによる道徳的ジレンマの解決の実装化という現実を受けて「人格の優劣」を直接「正しさ」の基準として採用する、「徳倫理」の復活としてより先鋭化してきた、という指摘もあります。



例えば、社会思想史に造詣の深い稲葉振一郎さんは、20世紀末以降、近代的リベラリズムにおける「あるべき理想的・本来的人間のイメージの共有」という暗黙の前提が自明ではなくなり、揺らいでいく中で、むしろその内実を社会的あるいは政策的に決定していく、という課題が浮上してきた、と指摘しています(稲葉、2016)。言い換えれば、現実のさまざまな問題に関する倫理的判断を行う際に、「人間」あるいは「人格」とはなにか?といった価値観の領域にまで踏み込んだ意思決定がつねに問われるような社会が到来しつつあるわけです。

稲葉さんによれば、生命倫理学に代表される応用倫理学の中で、「正しさ」の基準として「人格の優劣」を議論する、いわゆる徳倫理学が復権してきたのも、そのような「人格」をめぐる近代社会の認識の揺らぎと深いつながりを持っているのです。
 
近代的な統治の揺らぎ?

このように考えたとき、中国において、テクノロジーの急速な発展とそれを使いこなす高い「人格」を兼ね備えた主体としての共産党の権威の強化、さらにはその権威を付与する儒教的価値観の強調という現象は、決して孤立して生じているのではなく、テクノロジーと人間社会の在り方をめぐる世界的な動きとシンクロしているのだ、といえるのではないでしょうか。

さて、中国ではイノベーションが社会に「実装」される、つまりテクノロジーが社会の中で現実に機能していくスピードが先進国と比べても非常に速い、ということがこれまでも指摘されてきました(伊藤、2018)。それは、法制度の縛りによって市民が自ら新しいテクノロジーの暴走に歯止めをかける、そのような仕組みがそもそもあまり社会の中で機能していないということの裏返しでもあります。とにかく実際にテクノロジーを社会に応用して後でそれを取り締まるような仕組みを作るということが一般的になっているという背景があるわけです。

この連載でもしばしば触れてきた芝麻信用を提供するアリババ傘下のフィンテック企業、アントフィナンシャルの活動を詳しく解説した書物では、次のような指摘がなされています。「アントフィナンシャルの多くの業務は『先にやって、後で認可を得る』スタイルである。例えば、アリペイは2003年にリリースされたが、中央銀行が交付する正式な決済業務の許可証(ライセンス)は、2011年になるまで取得していなかった。中国の監督当局がフィンテック企業のイノベーションを一撃で壊滅させなかったのは、それらの革新的な業務が実体経済に与える価値を認めたからにほかならない」「中国の監督当局がイノベーションを容認してきた手法は、世界で採用されているレギュラトリー・サンドボックス方式に通ずるものがある。つまり、リスクを注視しつつ、イノベーションを容認するというやり方だ」(いずれも、廉=辺=蘇=曹、2019)。

特に、新しい技術について一時的に従来の法規制を外して実験を行う、いわゆる「(レギュラトリー)サンドボックス方式」は、昨今先進国においてもイノベーションを生み出す環境を作る政策として次第に注目を浴びていますが、これはむしろ中国のような法の支配が弱い社会のもとでのテクノロジーへの対応というものを、先進国が模倣しているという側面があるようにも思えます。

この連載でも述べてきたように、中国において進む「監視社会化」を語る際に、中国を他者化してしまい、その影響力を切断してしまえば、「われわれ」の社会のディストピア化は防ぐことができる──現在のアメリカ政府の姿勢にはそれが濃厚ですが──という考え方は有効ではなく、むしろ危険だ、と私が考えるのも、今まで述べてきたような現状認識があるからです。むしろかの国で生じていることは、決して他人事ではなく、より大きな「近代的統治の揺らぎ」として、人類に共有されつつある今日的課題としてとらえるべきではないでしょうか。

今、新疆ウイグル自治区で何が起きているのか

さて、中国の監視社会をオーウェルが『1984年』で描いたようなイメージで語るのはミスリーディングだ、と述べてきました。しかし、どう考えてもそれに近いイメージで語ることを避けられない事態も現実には生じています。具体的には、少数民族に対する共産党の統治のあり方がそれにあたります。中でも深刻な状況にあるのが、新疆ウイグル自治区における状況です。

新疆ウイグル自治区の各地に建設された、大規模な「再教育キャンプ」と呼ばれる収容施設が世界的な関心を集めています。後述するようにこの施設は限りなく強制収容所に近いと考えられますが、ここでは中立的な用語として比較的使われることの多い「再教育キャンプ」という用語を用いておきます。また、この問題では報道機関やジャーナリストが自由な取材をすることが不可能であるため、人権団体などやその協力者が当局の目をかいくぐって行ったインタビューや、海外亡命者による証言などによってその深刻な事態が次第に明らかになっていったこと、当然のことながらそれらの証言者によって構成された事実は政府や政府系のメディアによって描かれるものとは大きな距離があることなどをあらかじめお断りしておきます。

この問題は、イスラム教徒が多数生活する新疆ウイグル自治区で、再教育キャンプとよばれる非常に大きな収容施設がいくつも建設され、その中に「イスラムの過激思想に染まって反社会的行動を起こす可能性がある」とみなされた人々が、職業訓練や法律などの「再教育」を受けるために長期間収用されている、というものです。



中国では2015年に「反テロ法」が成立し、その法律に基づいた新疆における治安維持活動が本格化します。上記の収容施設は、ちょうどのその時期、2016年初頭から建設が始まり、現自治区党書記の陳全国氏が就任した同年夏からから自治区全体に広がったといわれています。2017年になると、その存在が海外に住む亡命ウイグル人や人権団体の間に伝わっていき、ジャーナリズムを通じてその深刻さが報道されるようになっていきます。

2018年夏に開かれた国連人種差別撤廃委員会で、米国のマクドゥーガル委員がウイグル人やカザフ人をはじめとしたイスラム教徒100万人以上が収容施設に送られた疑いがあると懸念を表明し、世界的にも関心が高まりました。当初施設の存在を否定していた中国政府もその後は「再教育のために必要な施設」という主張に転じ、同年10月10日には施設建設の法的根拠となる「新疆ウイグル自治区脱過激化条例」の改正版を公布しています(1)。しかし、施設に収容されていた当事者の証言が少しずつ明るみになるのに従い、その実態が中国政府の主張するものとはかけ離れていることが明らかになっています。また、ジャーナリストによる自由な取材が許されない中で、バックパッカーや観光客として現地を訪れた人たちによる旅行記が、中国の他の都市に輪をかけた「監視」の徹底ぶり、ならびにそれがあからさまにムスリム系の少数民族をターゲットにしたものであることを伝えています(2)。

海外からの相次ぐ批判に政府当局は最近になってジャーナリストの取材を受け入れ、再教育キャンプ内での生活が快適で、批判されているような「強制収容所」ではないことをアピールしようとしています。一方で、そういった視察を受け入れる際には有刺鉄線や収容者の部屋にある監視カメラ、ドアや窓に取り付けてあった鉄板などを撤去するなどの「やらせ」が行われているという指摘もあります(水谷、2019)。

パターナリズムと民族弾圧

さて、この問題はいくつかの異なる側面から語られなければなりません。

一つは、民族の独自の文化や歴史、宗教的なアイデンティティの抑圧、という側面です。そのことを象徴するのが、社会的に大きな影響力を持つ人々の施設への収容でしょう。

2018年11月、アムネスティ・インターナショナル日本などの主催で、カザフ国籍を持ち、カザフスタンで旅行会社を経営していたウイグル人、オムル・ベカリ氏の講演が東京と大阪で開催されました。筆者も大阪の講演会に参加し、オムル氏の語る収容所における凄惨な体験、特に民族としてのアイデンティティを否定され、中国共産党と習近平国家主席への忠誠の言葉を毎日繰り返させられる、という証言に言葉を失いました。「再教育」のための施設にはオムル氏のような成功したビジネスマンのほか、著名な大学教授やジャーナリスト、作家や音楽家など社会の一線で活躍する人々が多数収容されています(水谷、2018)。たとえばオムル氏とともに来日して講演を行ったヌーリ・ティップ氏の兄、タシポラット・ティップ氏は日本での留学経験があり、新疆大学の学長を務めています(長岡、2018)。

このような著名な人々が多数拘束されているということが、新疆で起きていることの「異常さ」を象徴しています。そもそも、国立大学の教授や成功したビジネスマンに後述するような縫製工場などにおける「職業訓練」が必要だとは思えないし、彼(女)らの多くは「過激思想」の持ち主などではない、体制内部でそれなりの地位を得ていた人たちだからです。そこには民族の独自の文化やアイデンティティを体現し、影響力のある人々をそれだけの理由で敵視する、という当局の姿勢がみてとれます。

第二に、この問題は経済問題としての側面も持っています。全体で100万人規模ともいわれる施設への被収容者は、上記のような社会的に発言力をもった著名人だけではありません。では、当局は何のためにそれだけの「普通の人々」を大量に収容しているのか。

ニューヨークタイムズなど英語圏の有力メディアの報道によると、新疆南部のカシュガル市や、ホータン地区ケリヤ県の収容施設とみられる建物の近くに工場が次々建設されており、施設に収容されたウイグル人やカザフ人などのテュルク系住民がそれらの工場でアパレルの縫製や、お茶の袋詰め、電子機器のアセンブリーなどに労働力として動員されているといいます(3)。

報道によると、それらの人々は一旦収容施設で「再教育」を受けた後、政府が定めた最低賃金すれすれの賃金で上記のような単純労働に従事させられています。労働者は、工場を去ることも、家族と連絡をとることも許されておらず、実質的な強制労働となっているのではないかという疑いが持たれています。また、そういった単純な労働に従事させられている被収容者の中にはかなりの高学歴を持つ人たちも含まれているということです。特にアパレル産業は新疆南部における雇用創設と貧困解消の「目玉」として政府の全面的な支援を受けていることが、中国の政府系メディアの報道などによっても確かめられます(4)。



(1)「《新疆ウイグル自治区去極端化条例》公布施行」『観察者』2018年10月10日 (https://www.guancha.cn/politics/2018_10_10_474949.shtml)
(2)安田峰俊(2019)「新疆ウイグル「絶望旅行」を終えて帰国した大学生の本音」『現代ビジネス』2019年1月12日(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59336)、林毅(2018)「漢人の天国、少数民族の地獄。「多様な」街 南新疆カシュガルレポート」『辺境通信』2018年11月7日など。
(3)"China's Detention Camps for Muslims Turn to Forced Labor," New York Times, Dec. 16, 2018, https://www.nytimes.com/2018/12/16/world/asia/xinjiang-china-forced-labor-camps-uighurs.html, "Forced labour being used in China's 're-education' camps," Financial Times, Dec. 16, 2018など。
(4)「新疆:重点支持南疆紡織服装産業発展」『中国商務新聞網』2017年8月4日(http://baijiahao.baidu.com/s?id=1597958508580666176&wfr=spider&for=pc)、 「新疆纺织服装产业强力带动南疆富余劳动力就业增收」新疆ウイグル自治区人民政府ウェブサイト、2018年4月23日(http://www.xinjiang.gov.cn/2018/04/23/148919.html)。



この、低賃金での就労施設の建設、という側面は、先ほど見た社会的に影響力を持つ人々の収容とセットで考えなければならないでしょう。つまり、新疆で起きている事態の不条理さを民族の言葉、そしてマジョリティの言語である漢語の双方で理性的に語れる人々、あるいは民族の伝統文化を受け継ぎ、そのアイデンティティやプライドを象徴する人々の言葉や活動を奪い、テュルク系の人々をただ無力な単純労働力として生かしていこう、という当局の意図がそこには伺えるからです。なによりも、現地政府のトップ自身が、このような「職業訓練」が、社会の秩序安定のために要請されているということを明確に述べています(5)。

そして第三の側面が、監視テクノロジーを駆使した統治のいわば「実験場」としての側面です。この点については、テクノロジーを通じた「監視」が、政府による人々の生活へのパターナリスティックな介入と強く結びついていることを指摘しておきたいと思います。

例えば、新疆では2014年から「民族の融和」と貧困削減を名目に、地方政府の役人がテュルク系住民の家庭に滞在し、「親戚のような付き合い」をするというプログラム(「訪恵聚」)が広く実施されたことが報告されています(6)。ウイグル人家庭を訪問する役人は、その一家の主の言動について子どもに対して聞くよう政府のマニュアルで推奨しているといいます。というのも「子どもは真実を語る」ため、彼(女)らの発言がその両親に「再教育」の必要があるかどうかを判断する有力な材料になるからです(7)。

これは、具体的な「人」を介した、いわば古典的な手法による生活への介入ですが、2016年ごろからは、住民のスマホにスパイウェアのインストールを義務付けるなどICT(情報通信技術)を用いた個人情報の収集(8)、さらにはDNAや虹彩のデータ、および話し声や歩き方などのいわゆる生体情報の収集が行われるようになります。これらも民生の向上、というパターナリスティックな介入と結びつけられて行われています。例えばDNAサンプルなどは、多くの人が無料で受けた健康診断プログラム「Physicals for All(全民健康体検)」の際に収集されたのではないか、と考えられています(9)。

中国政府は、この検査によって同意なしにDNAの採取は行われることはないと反論しています。また、刑事訴訟法など中国の法律においても、こうした生体情報の収集は、犯罪の容疑者でなければ行われないことが定められています(Human Rights Watch , 2018:98)。しかしヒューマン・ライツ・ウォッチなどの人権団体は、検査を受けたすべての個人からDNAサンプルが採取されており、その際にインフォームドコンセントも、DNAサンプルが求められている理由の説明も義務づけられていない、と報告しています(10)。

このような生体情報の収集は、例えば特定の民族をターゲットにした犯罪防止プログラムの実施に用いられることが予想されます。例えば、ニューヨークタイムズ紙の報道によると、2016~17年ごろにかけて採取されたとされるウイグル人の血液・DNAの解析には米サーモ・フィッシャー社の機器ならびに米国の著名な遺伝学者が提供したDNAサンプルが用いられたとのことです。中国の政府機関による研究グループは遺伝子情報を用いて民族・人種間の区別を行う研究を行っており、さらにその研究成果を用いて「犯罪現場で容疑者のDNAからその民族・および居住地域を推論することを可能にするシステム」の開発で特許出願を行っていたと同紙は伝えています(11)。

このような生体情報の収集を通じた個人のプロファイリングにより、新疆では特定の人々を何らかの属性を持った集団として抽出するセグメント化が究極まで進んでいると考えられます。そして特定のセグメントに「犯罪率が高い」などのレッテルを貼り、常に監視の対象とする、果てはその自由を奪う。さらにはそういった一連の行為を社会の安定化のために仕方がないのだ、というデータ至上主義的な「予測原理」によって正当化を行う。これらの今新疆で起きていることがらはすべて、前回の連載でも触れたような「アルゴリズム的公共性」が肥大化した社会において生じるであろう悪夢のような事態のイメージに、見事に一致するのではないでしょうか。

中国の「監視社会化」に関心を持つこと

これまで見てきたような新疆ウイグル自治区の異様な状況について明らかなのは、そこでは社会を安定させる、といった目的が疑うことのできないものとして与えられており、全てはその目的を実現するために行われている、ということです。しかし、それは前回の連載で述べたような、「道具的合理性」に過ぎません。社会の安定性の向上という目的を、多くの人々の人権をないがしろにし、苦痛を与えてまで実現することが果たして本当に「正しい」のか、ということはそこでは決して問われないからです。そういった「メタ合理性」の立場から治安の目的自体を問うのは、本来はジャーナリストや学者それに作家など、知識人の役割です。しかし、すでにみたようにウイグル人の有力な知識人層はことごとく拘束されています。かといってマジョリティである漢人の知識人も、いつ災いが自分の身に降りかかるかどうか分からない状況の下では、事実上この問題について発言することは不可能に近いといってよいでしょう。このような状況が新疆ウイグル自治区においていわば「道具的合理性の暴走」ともいうべき現象をもたらしているように思います。


(5) 「新疆维吾尔自治区主席就新疆反恐維穏状況及開展職業技能教育培訓練工作答記者問」『中国新疆』2018年10月16日(http://www.chinaxinjiang.cn/zixun/xjxw/201810/t20181016_570748.htm)。
(6)「"訪恵聚",中国基層治理的新疆探索」『鳳凰網』2016年08月29日(http://news.ifeng.com/a/20160829/49854900_0.shtml)
(7)「中国の公務員はなぜウイグル族の家庭を占拠するのか」CNN(日本語)、 2018年12月1日( https://www.cnn.co.jp/world/35129485.html)。
(8)"China Forces Muslim Minority to Install Spyware on Their Phones" BLEEPING COMPUTER, July 24, 2017(https://www.bleepingcomputer.com/news/government/china-forces-muslim-minority-to-install-spyware-on-their-phones/).
(9)「中国:少数民族からDNAサンプルを数百万人規模で採取」ヒューマン・ライツ・ウォッチウェブサイト、2017年12月13日 (https://www.hrw.org/ja/news/2017/12/13/312755)。2017年12月には、新疆の全体で74.1%、カシュガル市では99.47%がこの検査を受けたと報じられている。「新疆:2017年全民健康体検工作全部完成」中華人民共和国中央人民政府ウェブサイト、2017年11月2日(http://www.gov.cn/xinwen/2017-11/02/content_5236389.htm)、「新疆喀什市推進全民免費健康体験」『中国共産党新聞網』2017年12月12日(http://cpc.people.com.cn/n1/2017/1212/c415067-29701818.html)。
(10)前述記事「中国:少数民族からDNAサンプルを数百万人規模で採取」。
(11) "China Uses DNA to Track Its People, With the Help of American Expertise," New York Times, Feb. 21, 2019, (https://www.nytimes.com/2019/02/21/business/china-xinjiang-uighur-dna-thermo-fisher.html) . サーモ・フィッシャー社は批判を受け新疆での機器の販売を停止したとされる。



さて、この辺でこの連載のまとめに入りたいと思います。これまでの連載では、まず中国社会が西欧とは異なり「公」と「私」の分裂が解消しがたく、市民的公共性の実現が困難だという伝統を抱えているということを指摘しました。そして、近年の中国では「公」と「私」のズレを、利便性を重視したアーキテクチャに人々が自発的に従うことによって解消させる方向に向かいつつあるのではないか、その結果中国社会は次第にお行儀よく、予測可能になっているのではないか、という問題提起を行いました。

ただそのことは、企業や政府がビッグデータに基づいて行う「このように振る舞えばより幸福になりますよ」という提案(ナッジ)やアーキテクチャに対する懐疑、またそのことが人間の尊厳を奪ってしまうことの制限と監視を行うはずの市民社会の基盤を欠いたまま、道具的合理性のみに基づいた統治の技術がどんどん進化していくことの危うさをはらんでいます。中国社会ではすでにそういった「道具的合理性」、それに支えられた「アルゴリズム的公共性」の暴走が現実に起きつつあるのではないか。その最大の象徴が新疆ウイグル自治区における再教育キャンプに象徴されるテュルク系住民に対する自由のはく奪の問題なのではないか。この連載は、そういった問題群についてささやかながら警鐘を鳴らしたつもりです。

ただ、繰り返しになりますが、そういった「道具的合理性の暴走」は中国のような社会主義の一党独裁国家だから起きることで、そうではないわれわれの社会とは無関係なのだ、と考えることはできないでしょう。より便利に快適になりたいという人々の欲望を吸い上げる形で人々が好みや属性に従ってセグメント化・階層化され、お互いに関心を持たなくなることで、階層が固定化される。さらには階層の固定化を社会の安定化のために仕方がないのだ、という現状追認的なイデオロギーで正当化する。これはどの社会でも起きうることだと考えられるからです。

現代の監視社会化について考えることは、つまるところ我々の社会におけるテクノロジーをどう使いこなすかを考えることに他なりません。そして、私たちが肯定するかどうかにかかわらずAIを含むテクノロジーはどんどん進歩していきます。このようにテクノロジーやそれを社会実装したアーキテクチャが人々の行動パターンや、考え方までも大きく変えつつあるからこそ、やはり中国で起きていること、特に新疆ウイグル自治区で起きていることに、私たちは少しずつでもその関心を向けていくべきだと私は考えています。 

特に、テクノロジーがもたらす利便性に肯定的であったり、中国におけるビジネスの面白さに魅せられたりしている人たちこそ、この連載で述べたような、少々気が滅入るような問題に対しても関心を──決して排他的なナショナリズムの観点からではなく、中国の人々と『良き隣人」として付き合っていくためにも──持っていただきたいと考えています。私はテクノロジーについても民族問題に関しても決して専門家ではないのですが、こういった観点から今後も関心を持ち、必要に応じて発言を続けていきたいと考えています。

(梶谷懐氏の連載記事は加筆の上、ジャーナリストの高口康太氏との共著としてNHK新書から出版の予定です。ご期待ください)。

参考文献
伊藤亜聖(2018)「加速する中国のイノベーションと日本の対応」『nippon.com』2018年4月16日(https://www.nippon.com/ja/currents/d00403/)。
稲葉振一郎(2016)『宇宙倫理学入門―人工知能はスペースコロニーの夢を見るか』ナカニシヤ出版
オーウェル、ジョージ『1984年』高橋和久訳、早川書房
ハクスリー、オルダス『すばらしい新世界』大森望訳、早川書房
長岡義博(2018)「ウイグル絶望収容所で「死刑宣告」された兄を想う」『ニューズウィーク日本版』2018年11月8日(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/11/post-11257.php)
水谷尚子(2018)「ウイグル収容施設の惨状」『週刊金曜日』12月14日号
水谷尚子(2019)「共産党の網をかいくぐりウイグル支持の輪は広がる」『ニューズウィーク日本版』2019年2月22日(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/02/-12-12.php)
山本龍彦編著(2018)『AIと憲法』日本経済新聞出版社
廉薇=辺慧=蘇向輝=曹鵬程(2019)『アントフィナンシャル―1匹のアリがつくる新金融エコシステム』永井麻生子訳、みすず書房
Heilmann, Sebastian (2016)," Leninism Upgraded: Xi Jinping's Authoritarian Innovations," China Economic Quarterly, Vol. 20, pp.15-22.
Human Rights Watch (2018) "Eradicating Ideological Viruses" China's Campaign of Repression Against Xinjiang's Muslims, September 2018.




梶谷懐(神戸大学大学院経済学研究科教授=中国経済論)

この記事の関連ニュース