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「虐待が脳を変えてしまう」脳科学者からの目を背けたくなるメッセージ

ニューズウィーク日本版 2019年3月22日 10時35分

<児童虐待は脳に傷を負わせる。ではその子どもたちは、大人になっても悲惨な人生を送るしかないのか。どうすれば虐待経験者を救うことができるのか>

『虐待が脳を変える――脳科学者からのメッセージ』(友田明美、藤澤玲子著、新曜社)の著者である友田明美氏は、小児発達学、小児精神神経学、社会融合脳科学を専門とする脳科学者。本書が世に出ることになった経緯については、このような記述がある。

 本書は、友田の著書『いやされない傷』(診断と治療社)をベースとして、その後明らかになったことや検討を重ねてきた推論などを追加したものである。『いやされない傷』は、医学の専門書であり、もっと多くの人に読んでいただきたいという思いから本書の上梓を決意した。 執筆は、わたしがこれまでに書いてきたものや話した内容を、共著者である藤澤玲子さんがまとめ、さらにインタビューや独自の調査で説明を加えるという形で進められた。藤澤さんは、わたしの研究室で働く研究者の奥さんであり、同じグループの別の研究室の技術補佐員でもある。研究に近い位置にいながら、研究者ではない。細かい説明をすることなく執筆を進めてもらえるうえ、どうしても論文調になりがちな学者よりも一般に近い感覚で執筆してもらえるのは大変な魅力であった。(「あとがき」より)

専門的な内容であるにもかかわらず一般人の我々にも読みやすいのは、そういった理由があるからなのである。

とはいえ、友田氏(以下、著者と表記)は14年間の長きにわたり、日本で虐待された人たちの心のケアに取り組み、虐待が脳に与える影響をさまざまな角度から研究してきたという人物だ。たとえ文章的に読みやすかったとしても、その内容自体は決して"読みやすい"とくくれるものではない。

 わたしが医師として児童虐待と初めて出会ったのは、30年以上も前の1987年、まだ鹿児島市立病院の研修医だった頃のことだ。 救命救急センターで当直していた夜、3歳の男の子が瀕死の状態で運ばれてきた。状態が非常に重かったため、医長も応援に駆けつけた。非常に強い力で何度も殴られたのだろう。男の子は、頭部打撲によって頭蓋内出血していた。身体には、タバコの吸殻で付けられた無数の火傷跡と、新しいものから古いものまで様々な傷があり、虐待を受けたことは一目瞭然だった。すぐに警察へ通報し、それからの3日間、私たちは不眠不休で治療にあたった。日常的にひどい病人やけが人をたくさん見ているわたしたち医療関係者ですら、何かしてあげないとこころが折れてしまいそうであった。しかし、そんなわたしたちの願いもむなしく、その子は3日後に亡くなった。(「はじめに――児童虐待との関わり」より)

それは、テレビや新聞でしか見聞きしない児童虐待というものが、現実にあるのだということを著者に実感させた体験だった。幼い命を助けられなかったという、医師としての無力感を味わった体験でもあったそうだ。さらには、その子の親が最後まで虐待の事実を否認し続けたことも、著者に衝撃を与えることとなった。



そんな著者は2003年、小児精神医学を研究するためにアメリカへ留学している。マサチューセッツ州ボストン郊外にある、マクリーン病院の発達生物学的精神科学教室。同病院はハーバード大学の関連病院であり、全米で有数の質の高さを誇る精神科の単科病院だそうだ。

多くのセレブリティが入院することでも有名で、映画『ビューティフル・マインド』のモデルであり、ゲーム理論でノーベル経済学賞を受賞したジョン・ナッシュ博士も一時期入院していた。つまり、研究にはうってつけの環境だったわけだ。

しかし、そこを一歩出ると、待っていたのは虐待大国と揶揄されるアメリカの厳しい現実だった。日本ではまだ虐待がクローズアップされたばかりの時期だったこともあり、著者は大きな衝撃を受ける。

 マクリーン病院でのわたしのボスは、マーチン・H・タイチャーであった。わたしの永遠の師匠の一人である。タイチャーは、小児神経科医から精神科医に転身し、虐待が脳に与える影響を研究していた。面接で初めて先生に会った時、先生はこう言った。「子どもの時に厳しい虐待を受けると脳の一部がうまく発達できなくなってしまう。そういった脳の傷を負ってしまった子どもたちは、大人になってからも精神的なトラブルで悲惨な人生を背負うことになる。」この言葉が、わたしのその後の仕事人生を変えることになった。(「はじめに――児童虐待との関わり」より)

虐待が脳を変えてしまう――。当然ながら、それは目を背けたくなる事実である。しかし著者は、それを多くの人に伝え、虐待の恐ろしさを知ってもらうことこそが使命だと考えているのだという。

なぜなら虐待を未然に防ぎ、影響を最小限にしていくためには、医療や福祉のみならず、たくさんの人がお互いに支え合わなければならないからだ。そこで著者は、虐待の種類や歴史と現状、脳の役割と発達などについて解説し、やがて虐待と脳の関係という核心と向き合っていくのである。

ところで本書において著者は、心理学者たちの見解に対して疑問を投げかけている。心理学者たちは最近まで、児童虐待の被害者は社会心理的発達が抑制され、精神防御システムが肥大するため、大人になってから自己敗北感を抱きやすいと考えていたという。

端的にいえば、精神的・社会的に十分に発達しないまま「傷ついた子ども」に成長してしまうということ。だから心理学者たちは、その傷ついた「ソフトウェア」は、治療すれば再プログラムできると考えたのだ。

トラウマを引き起こす3つの要因(生物学的要因・心理学的要因・社会的要因)の中の、心理学的要因と社会的要因を修復すればよいということになる。周囲の環境(社会的環境)を整え、どう物事を捉え考えるかという認知の方法(心理学的要因)を改善すれば完治するという発想だ。



 しかし、マクリーン病院発達生物学的精神科学教室とハーバード大学精神科学教室のタイチャーは、共同研究をしていく中で、それだけではまだ足りないのではないかと考え始めた。 子どもの脳は身体的な経験を通して発達していく。この重要な時期(感受性期)に虐待を受けると、厳しいストレスの衝撃が脳の構造自体に影響を与える。それは、ソフトウェアだけの問題ではない。いわば、ハードウェア自体、つまり脳(生物学的要因)に傷を残すのではないだろうか。(109ページより)

実際、近年の脳画像診断法の発達により、児童虐待は発達過程にある脳自体の機能や精神構造に永続的なダメージを与えるということが分かってきたのだそうだ。大脳辺縁系、特に海馬に変化が見られることは、動物実験によっても明らかになっているという。

本書ではその事例が細かく紹介されているわけだが、なかでも個人的には、虐待による神経回路への影響の大きさに衝撃を受けた。

タイチャーらが、虐待を受けて育った人とそうでない人との神経回路の違いを調べたところ、身体感覚の想起にかかわる「楔前部(けつぜんぶ)」(ここには感覚情報をもとにした自身の身体マップがあると言われる)から伸びる神経ネットワークは、虐待を受けた人のほうが密になっていたというのだ。

同じく、痛み・不快・恐怖などの体験や、食べ物や薬物への衝動にも関係する「前島部」も密になっていたというから、つまりはこうした情報が伝わりやすい脳になっているということだ。

一方、意思決定や共感などの認知機能にかかわる「前帯状回」からの神経回路は、被虐待歴のない人はたくさん伸びているのに、虐待を受けた人はスカスカの状態だったそうだ。

注目すべきは、これらの調査は病院で行われたものではなく、社会で普通に暮らしている人たちを対象にしたものだということ。どの人も18歳から25歳の調査時点ではPTSDを発症しているわけではなく、うつ病と診断されているわけでもない。大学に通ったり仕事をしていたりと、一般社会に適応している人たちだというのである。

こうした脳の変化は、疾患や障害の影響で起きたものではないということだ。にもかかわらず、トラウマの痕跡が脳に刻まれているのである。だとすれば、それが子ども時代の虐待によるものであることは、専門家でなくとも想像できることではないだろうか。

しかし、もしもそうであるなら、虐待を受けた人は、みんな不幸な人生を歩まなければならないのだろうか? この問いに対して著者は、「それはまた別の話」だと主張している。



 幼少時代に十分な愛着を築けないというのは、傾いた脆弱な土台を築いてしまうようなものだ。その上に家を建てるのは大変だ。思春期に小さな地震や嵐に遭遇するたびに、どこかしらの修理に追われることになる。脆弱な土台を持つ人が、硬い土台を持つ人よりも不必要に多くの苦労をしなければならないのは確かだ。 とはいえ、思春期が終わっても小さな工事は続けられる。感受性期後の工事は大々的なものではない。使えるリソースも限られてくる。リソースが限られた中で、一度建ててしまった家の間取りを変更するのは簡単ではない。 それでも、柱の数を増やして崩れにくくすることや、床や壁を新しくして頑丈にすることは可能である。傾いた土台をまっすぐにすることはできなくても、階段に手すりをつけて、家具を配置して...。頑強な土台を持つ人に比べれば、費用も手間もストレスも多くなるかもしれないが、住みやすく、崩れにくい家に作り変えていくことは不可能ではない。(152ページより)

虐待が脳に与える影響の研究は、まだ始まったばかり。だからこそ大切なのは、研究によって明らかになっている結果を踏まえ、どうすれば虐待経験者を救うことができるのかを考えることなのだろう。「先には明るい未来があると信じて研究を続けている」という著者のことばには、大きな期待を寄せたいと思う。


『虐待が脳を変える――脳科学者からのメッセージ』
 友田明美、藤澤玲子 著
 新曜社


[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。現在は他に「ライフハッカー[日本版]」「東洋経済オンライン」「WEBRONZA」「サライ.jp」「WANI BOOKOUT」などで連載を持つほか、「ダ・ヴィンチ」などにも寄稿。新刊『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)をはじめ、ベストセラーとなった『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)など著作多数。


印南敦史(作家、書評家)

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