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完璧としか言いようがない、イチロー選手の引退劇 - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

ニューズウィーク日本版 2019年3月22日 14時50分

<「史上最高の野球選手」の引退を地元日本での公式戦勝利で飾らなければならない――マリナーズの選手たちもそのプレッシャーを感じていた>

今回の東京ドームにおける、「アスレチックス対マリナーズ」のMLB開幕戦は、米国東部時間では2試合とも午前5時半試合開始という時間帯でしたが、メジャーなスポーツ専門局「ESPN」が全米中継をしていました。

中継では、まだイチロー選手の引退が発表される前の第1戦の段階から、アナウンサーのコメントの半分はイチロー選手についてで、第1戦の途中でベンチに下がって以降も、試合の流れを紹介しながら、ずっとカメラはイチロー選手の表情を追っていました。

そのコメントは、歴史に残る名選手であるというような生易しいものではなく、「オールタイム・ベスト」つまり史上最高の選手だという形容が続けられました。日本向けの外交辞令ではありません。アメリカ国内のアメリカの野球ファン向けの全国中継のコメントとしてです。

なぜそこまで最高の評価がされているかと言うと、俊足を生かした積極走塁、鋭いスイングスピード、強肩を生かした外野守備など、何を取っても一級レベルだということは間違いないと思います。ですが、それだけではありません。また、日本では過大に語られる、シーズン最多安打記録や、10年連続200安打という記録が評価されているだけでもありません。

真摯な取り組みの姿勢への尊敬

何よりもアメリカの野球界にとって、その俊敏なプレースタイルは「薬物に汚染されたパワーヒッティングの時代」に清新な風を吹き込み、多くの少年少女ファンに希望を与えたことは特筆されるべきと思います。また、何よりも厳しい自己管理、真摯な練習姿勢など、イチロー選手は2000年代以降、アメリカの子供たちの人種を超えた尊敬の対象となっていました。

今回、第2戦の8回に、引退が明らかになる中でベンチに退くイチロー選手は、マリナーズのナインと次々に抱擁を交わしました。菊池雄星選手の涙は、アメリカでも有名で「見ていて泣かされる」という形容で報じられていますが、その他の若手の選手たち、それこそイチロー選手がヤンキースやマリーンズに去った後に球界入りした人々も、同じように涙ぐんでいました。

それは単に、大記録を持つ大選手だというだけでなく、やはり清新なプレースタイルと真摯な野球への取り組み姿勢への尊敬があり、それ以上に、子供の頃から憧れていたスーパーヒーローがバットを置くということに、誰もが深い感動とともにこの瞬間を迎えた、そのような意味合いもあるのです。

私はイチロー選手のキャリアにおいては、日本のメディアが「安打数、安打記録」にこだわることもあってか、出塁率を犠牲にしたり、結果的にチームの優勝という歓喜を経験できないままの引退になったりしたことに、多少の疑問を感じていました。少なくとも、オリックス・ブルーウェーブ時代には「がんばろう神戸」というドラマを含めたリーグ2連覇と1回の日本一を経験しているわけで、MLBでも同じような輝きを歴史に残して欲しかったからです。

ですが、そんな想いは、今回の引退劇を見ていて完全に吹っ飛んでしまいました。



今から思えば、昨年の春、久しぶりにマリナーズに復帰しつつも、シーズン序盤で登録から外れた時点で、「この日」へのシナリオは準備されていたのでしょう。引退はせず、選手登録からは離れて練習を続け、結果的に「引退試合」となったこの「東京シリーズ」に備えたのです。

結果的に、十分な打撃力は戻らないまま春を迎え、スプリング・トレーニング(オープン戦)でも結果は出せませんでした。それでも、球団はイチロー選手を使い続け、特別に拡大された登録枠で一軍登録をして、東京シリーズに帯同させたのです。

起用方法が注目されましたが、結果的にスコット・サービス監督は、2試合ともに先発で起用し、第1戦では2打席、引退試合となった第2戦では4打席、バッターボックスに立たせました。

これは非常に難しい判断だったと思います。低迷の続くマリナーズは、今年こそポストシーズン進出への期待がかかっています。そんな中で、結果の出ないイチロー選手を無理に使って試合に負けることは許されないのです。第2戦に先発した菊池雄星選手が、勝ち投手の権利まであと1アウトのところで交代させられたのもそのためです。菊池投手だけでなく、全選手がそのことを理解していた、そんな雰囲気もありました。つまり「イチロー選手が出場し続けるためには、試合をリードしていなければならない」というプレッシャーです。

「野球の神様」の微笑み

非常に冷めた見方をすれば、イチロー選手の引退試合は公式戦というガチンコでなくてはならないが、力の衰えたイチロー選手を起用し続けて試合に負けることはファンも許さないし、イチロー選手も不本意――それならば勝つしかない、そんなプレッシャーです。

なぜそんな面倒なことをしたのかというと、それは「名誉」の問題なのだと思います。イチロー選手のような偉大な名選手の名誉を表現するには、公式戦という場が必要であり、また出身国のファンに囲まれたエモーショナルな儀式も必要だったのです。そして結果的に引退試合となったイベントを成功させることで、協力したマリナーズの選手たちも、そしてあくまで真剣勝負を挑んできたアスレチックスの投手たちも、真剣にその儀式に参加することで、名誉を確保したのでした。

引退会見で「自分は元イチローになる」と述べて、自分は監督には向かないので子供たちの指導者になりたいと語ったコメントも、まさに野球の神様が微笑むような輝きに満ちたものでした。今回の引退劇は、まさに完璧としか言いようがなく、そこにこの不世出の大選手の人格が反映していたのだと思います。

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