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『天皇の憂鬱』が解き明かす、象徴天皇をかたちづくった「軽井沢」

ニューズウィーク日本版 2019年4月22日 17時10分

<平成の天皇を6つの視点から謎解きした大宅賞作家の奥野修司。今上天皇が国民に"寄り添う天皇"になった背景には、戦後の皇室の新渡戸人脈とクエーカー人脈があるかもしれない>

 平成の時代が終わろうとするにつれて、平成とはなんだったのだろうと思うのは私だけではないだろう。皇室について考えるなら、平成は、国民と共に歩もうとした時代といえるかもしれない。(「まえがき」より)

『天皇の憂鬱』(奥野修司著、新潮新書)の冒頭に書かれたこの文章を目にし、共感する人は多いはずだ。また、もうひとつ注目すべきポイントは、『ナツコ 沖縄密貿易の女王』などで知られる大宅賞作家である著者がここで、どちらかといえば読者に近い目線で今上天皇を見ている点である。

例えば1989年、陛下が昭和天皇の崩御を受けて皇太子から天皇になられたとき、著者は「なんだか頼りないな」と感じたと当時を振り返っている。どこへいくにもカメラを提げて妻や息子たちを撮影しているその姿は、当時の流行語でいう「マイホームパパ」そのものだったというのだ。

それは自身の中に「天皇といえば昭和天皇」というイメージがあったからだろうと記しているが、このことについても、同じような思いを抱いていた人は少なくないのではないだろうか。

しかし、改めて振り返ってみるまでもなく、それこそが今上天皇の魅力である。

平成は天災によく見舞われた時代であり、即位の礼の五日後に雲仙・普賢岳が爆発し、新天皇は被災者を見舞われたが、そのとき、跪いて被災者に話しかけられたことは私にとっても驚愕だった。昭和天皇にはありえなかったからだ。(「まえがき」より)

同じことは東日本大震災の際の対応にもいえるが、そこにあるのは国民に"寄り添う天皇"としてのあり方だ。ちなみに著者が"象徴天皇"とはなんだろうと考えるようになったのも、天皇の努力、バランス感覚、見えないものを大切にされる姿勢などを知ってからのことだという。

そこで本書において著者は、平成の皇室を「天災と天皇」「『生前退位』秘録」「美智子妃との交流」「戦争」「天皇家と東宮家の懐事情」「美智子妃との恋愛成就までの道のり」という6つの視点から眺めている。

そして、それぞれから象徴天皇がかたちづくられていく過程を謎解きしているのである。そのどれもが興味深いのだが、なかでもとくに心惹かれたのは、3章「なぜ軽井沢を深く愛されるのか――美智子妃、交流の記」だった。

「国民とともに」行動することを選んだ天皇は、いってみれば我々と同じ感覚で戦没者を追悼し、被災者を見舞われてきたことになる。そして、試行錯誤しながらそのスタイルに行き着くまでには、両陛下が毎年夏に滞在された「軽井沢」が大きく関わっているというのである。

 昭和六十二(一九八七)年九月、天皇(当時は皇太子)は訪米に先立ってこう述べられた。「バイニング夫人とお会いするのは九年ぶりになります。(略)思い出としては、いろいろありますが、軽井沢で泊めていただいた三日間が、思い出深いものです」 バイニング夫人とは、昭和二十一年から二十五年まで、当時皇太子だった天皇の家庭教師をつとめた女性である。彼女は『日本での四ケ年――皇太子と私』の中で、〈今年(註・昭和二十四年)の四月以来、殿下の新しい御生活の幅が広められ、私の知っている限りでも、三つの新しい経験をなさいました〉と記している。三つの経験とは、皇太子がGHQのマッカーサーを訪問したこと、軽井沢でバイニング夫人を訪問したこと、西洋の少年と過ごしたことである。 なかでも、バイニング夫人が軽井沢で借りた三井家の別荘に、天皇が三日間宿泊したことはよほど印象的だったようだ。(90〜91ページより)

なお、そのことをどう知ったのか、昭和22年に旧朝香宮の別荘を買い取った西武グループの創業者・堤康次郎は、この別荘を千ヶ滝プリンスホテルとして"提供"したのだという。翌25年から、毎年夏になるとここで過ごされるようになった天皇は、よくバイニング夫人から個人教授を受けるため別荘に招かれた。

このことに関して見逃せないのは、「殿下がバイニング夫人の別荘に泊まって、宿題などをやっていた」姿を目撃していたという学友の織田正雄のことばだ。

「彼女の教えから学んだことは多々あるのですが、なかでもよく覚えているのは昭和二十三年十二月十日に採択された国連の『世界人権宣言』(決議)です。この文面については、非常に熱心にやっていたので、強烈に残っています。 その第一条に、『すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない』と書かれています、バイニング夫人の個人授業にうかがった際にも、私や殿下を前に、熱心にその文面の意味を語っていました。殿下にもっとも伝えたかったことなのではないかと思います」(91〜92ページより)

もうひとつ、同じく学友の明石元紹の発言も引用しておきたい。

「バイニング夫人は、禁欲的でとても良心的な人でした。「自分の意思を反映させる」ことを強調していましたが、それを教える授業にこれといった教材はなく、「こういう時、あなたはどうしますか」といった事例を出して話をしました。たとえば、穂積重遠東宮大夫が入院した時です。殿下に『行きましたか』と尋ねました。『いやまだです』と殿下が答えます。『なぜ行かないのですか。お世話になっている人のために、行きたいと思うのは誰ですか』『私です』『それなら私が行きたいと言うべきではないですか』 こんな感じで、会話の中で気づきを与えるのです」 およそ戦前には想像もつかない教え方に、若き皇太子は戸惑いと共に新鮮な驚きを覚えたことだろう。(92〜93ページより)

折しも、日本がポツダム宣言を受諾したあとも天皇の地位が定まらず、「退位論」が現実味を帯びていた時期。昭和23年に東京裁判の判決が近づくと、当時のメディアはさかんに「天皇退位」を取り上げた。

さらにA級戦犯が、皇太子の誕生日に絞首刑にされている。皇太子が軽井沢を訪れたのはその翌年だった。皇太子がバイニング夫人から、「将来、何になりたいか」と尋ねられ、「私は天皇になる」と答えたのも、天皇家を取り巻く厳しい状況があったからなのかもしれないと著者は推測している。

しかし、軽井沢はそうした厳しい現実をすっかり忘れさせてくれる場所だったということだ。やがて彼の地で正田美智子(当時)と出会ったことを考え合わせても、充分に納得できる話である。

ところで「象徴天皇」ということばを読み解いていくと、GHQに押し付けられたのではなく、国際的リベラリストで昭和天皇の信頼が篤く、クエーカー(キリスト教の一派で絶対的平和主義で知られる)教徒でもあった新渡戸稲造にたどり着くのだという。

そのことについて解説しているのは、新渡戸稲造の研究で知られる拓殖大学名誉教授の草原克豪だ。

「新渡戸は昭和六年に英国で出版された英文『日本』の中で、〈天皇は、国民の代表であり、国民統合の象徴である〉と述べています。 その三十一年前にアメリカで出版された名著『武士道』においても、天皇が〈国民的統一の象徴〉(原文では〈Symbol of National Unity〉)であることを強調していました。アメリカはこうした新渡戸の天皇観を参考にしながら、戦後の象徴天皇制の基礎作りをしたものと思われます」(119ページより)

「クエーカーはもともと慈善事業に熱心で、戦後の日本の復興事業にも積極的に協力していたので、当時の日本におけるクエーカー人脈の果たした役割は軽視できないものがあります」と草原は言う。 実際、現憲法に大きな影響を与えたマッカーサーの副官ボナー・フェラーズは新渡戸と同じクエーカー教徒であり、当然新渡戸の本は読んでいたといわれる。ちなみに、天皇の人格形成に影響を与えたといわれるバイニング夫人もクエーカー教徒である。 新渡戸は軽井沢に別荘を構え、いまも新渡戸通りにその名を残す。(119〜120ページより)

新しく定められた象徴天皇を支えたのは、戦後、宮内庁長官になった田島道治であり、侍従長になった三谷隆信だが、このふたりは新渡戸の門下生。田島は新渡戸家の近くに別荘を持っており、皇后と同じく、戦時中は軽井沢に疎開していた。また、終戦直後の文部大臣で天皇の『人間宣言』を起草した前田多門とも交流があったそうだ。

戦後の皇室を支えた人物としては、前田多門の他に安倍能成(学習院院長)、田中耕太郎(最高裁判官)の名がしばしば登場するが、大正7(1918)年、新渡戸が後藤新平と軽井沢夏季大学を開設した際、その運営にあたったのが前田多門と鶴見裕輔(衆議院議員)らだったという。

天皇が皇后と初めて出会われた軽井沢会テニスコートのトーナメントにおいて、小泉信三(慶應義塾長)とともに見学していたのが田中。田中は小泉と親交が深く、軽井沢の万平ホテルでよく会っていたという。

田中は新渡戸の門下生ではないものの、人格的、思想的影響を受けていた。また田中と親しかった安倍も軽井沢に別荘があり、天皇を野上弥生子(小説家)の別荘に案内したりしている。

さまざまな人名が登場するが、こうして見てみると、戦後の皇室には新渡戸人脈とクエーカー人脈が深く張り巡らされ、軽井沢がひそかな舞台となっていたことが理解できる。新憲法下で象徴天皇制が決まると、彼らが旧体制の人脈を排除して新たな人脈を形成していったということだ。

平成二十五(二〇一三)年、皇后は七十九歳の誕生日に際して、日本における女性の人権の尊重を現憲法に反映させたベアテ・シロタ・ゴードンや「五日市憲法草案」にふれられた。「五日市憲法草案」とは、明治憲法の公布(明治二十二年)に先立って、農民や市民が寄り合って書き上げた憲法草案で、現在の憲法に近いといわれる。改憲の空気が広がる中で、この憲法草案をあえて「世界でも珍しい文化遺産」と評価するところに、両陛下のリベラルな発想を感じる。それは、こうした人脈と無縁ではないだろう。(121ページより) 

また、平成6(1994)年6月、ホワイトハウスで行われた歓迎式典で天皇が、19世紀の開国から、日米の戦争と戦後の歴史に触れつつ、「前世紀末、後に国際連盟の事務次長をつとめることとなった新渡戸稲造博士は、自分の若き日の夢を『太平洋の橋』になることとして海を渡り、貴国の地にまいりました」と、わざわざ個人名をあげて述べられた。このことからも、新渡戸の影響がうかがえると著者は指摘している。

確かにこれは、国民とともに平成を歩んできた天皇の原点として、非常に重要なトピックスだと言えるのではないだろうか。

いずれにしても、あと少しで平成が終わろうとしている今だからこそ、ぜひ読んでおきたいところだ。

『天皇の憂鬱』
 奥野修司 著
 新潮新書


[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。現在は他に「ライフハッカー[日本版]」「東洋経済オンライン」「WEBRONZA」「サライ.jp」「WANI BOOKOUT」などで連載を持つほか、「ダ・ヴィンチ」などにも寄稿。『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)をはじめ、ベストセラーとなった『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)など著作多数。


印南敦史(作家、書評家)

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