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天皇退位の顛末にみる日本の旧思想

ニューズウィーク日本版 2019年4月30日 11時25分

<202年ぶりに天皇の譲位が叶ったが、一代限りの特例なので次はどうなるかわからない。歴史的には普通のことだったのに、またカメラの前で直接国民に訴えることになるのか>

陛下が4月18日、伊勢神宮に参拝し退位を報告された。そこに長女の黒田清子さんが祭主として立ち合われた。

祭主は、古来藤波氏が務めていた。藤波氏はもともと大化の改新の立役者の藤原鎌足とおなじ中臣氏で、伊勢神宮に仕える系統を区別するためこう名乗った。久邇宮朝彦親王が明治8(1875)年に就任して以来、皇族がその任にあたった。朝彦親王は幕末の頃公武合体に奔走し、安政の大獄にあい、維新の時には幕府に通じて政府転覆を謀ったという濡れ衣を着せられて一時的に皇籍離脱させられ、その後岩倉具視が伏して謝罪したという人である。

昭和22(1947)年、神宮の式年遷宮が2年後に迫っていた。そこで、神宮側では、戦前からのしきたりで男性の皇族を祭主にしようとしたが、占領軍総司令部(GHQ)のバンス宗教課長に軍人はだめだと拒否した。皇族はみんな軍人なのでこれは事実上の祭主禁止だと訴えると、バンス課長は笑いながら「昔に戻って女子の祭主ではどうか」と提案した。

この話を伝える伊勢神宮の元少宮司杉谷房雄氏は「我々はそういう途があったのかと驚喜して直に此の線で宮内省と折衝を始めたのである。祭主問題がバンスの示唆で解決の途を開いたのは興味あることであった」と書いている。(「大東亜戦争戦中戦後の神宮」『神宮明治百年史』神宮文庫所収)

GHQバンス宗教課長の一声

結局、明治天皇の娘である北白川宮房子大妃が祭主になった。資金難もあって式年遷宮は4年延期されて昭和28(1953)年に行われたが、その時には、房子さまは既に皇籍離脱していた。それ以来皇女の旧皇族が祭主となっているわけである。

バンス宗教課長が「昔に戻って」というのは、昔祭主が女子だったと誤解していたわけではなく、そもそも天照大御神が女神であることをさしている。ときには、外国の人の方が、日本のことをわかっていることもある。また、伊勢神宮側も男子皇族でなければならないという思考停止に陥らなくてよかった。それに皇女が祭主になることでほんのり古代の斎宮の香りも漂うようになった。

この機会に、いつくか外国人の観察をみてみたい。

100年あまり前、明治33(1900年)年五月九日御雇外国人の医師ベルツ博士は、皇太子嘉仁親王の御成婚の前日に次のように記している。

「一昨日、有栖川宮邸で東宮成婚に関して、またもや会議。その席上、伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤のいわく『皇太子に生まれるのは、まったく不運なことだ。生まれるが早いか、到るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない』と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で踊らせるような身振りをしてみせたのである」(『ベルツの日記』  岩波書店)。



伊藤とは伊藤博文のことである。博士は続ける。「伊藤自身は、これを実行しようと思えばできる唯一の人物ではあるが、現代および次代の天皇に、およそありとあらゆる尊敬を払いながら、なんらの自主性をも与えようとはしない日本の旧思想を、敢然と打破する勇気はおそらく伊藤にもないらしい」

嘉仁親王が天皇となり皇太子の裕仁親王が欧州歴訪したとき、フランス陸軍の報告書は、次のように述べる。

「日本においては、天皇の影響力はその精神的威厳と見合ったものではない。そこが天皇の力でもあり、弱点でもある。天皇は政治の外、あるいは上にいるのである。政府に反対する者はいても、天皇個人が問題になることはない。また天皇も政治には絶対に干渉することはない。日本では権力は内閣、元老、軍部にある。(......)天皇は実態のない行動はするが、彼等こそが実際に考える人々なのである。」 

「いつまでも終わらない存在」

天皇がまさに崩御されんとした大正15(1926)年12月20日、クローデル駐日フランス大使は、本国外務省宛至急電報で、「多くの日本人が皇太子の余りにも明白な虚弱さをくやしがっている。現在イギリスにいるずっと頑丈で活発な秩父宮と彼を交代させようというぼんやりとした可能性があらわれている」と述べた。今でこそ理想化されているが、昭和天皇も必ずしも国威発揚にふさわしい青年だった訳ではない。退位されんとしている今上陛下も若い時には自動車を乗りまわすとかテニスをするとかまったく戦後の若者で天皇にはふさわしくないなどと言われていた。

ちなみに、このクローデル大使は、作家のポール・クローデルである。彼は随筆の中で天皇という存在について、素晴らしい言葉を残している。「日本の天皇は魂のように現存する。彼は常にそこに居るものであり、いつまでも居続けるものである。正確にはそれがどのようにして始まったのかは知られていない。だが、それがいつまでも終らないであろうことは誰もが知っている」(「明治」『旭日の黒い鳥』日本語題名『天皇国見聞記』所収)

ところが、彼がこれを書いて20年もたたない、昭和20(1945)年、この言葉を裏切りそうになった。

過去には南北朝に分裂して争うなどということもあったが、天皇そのものがなくなるということは考えられなかった。ところが、いまや天皇廃止が現実になろうとしていた。場合によっては1億玉砕で、日本というもの自体がなくなっていたかもしれない。幸い、昭和天皇が日本の伝統とご自分の責務をしっかり認識されていたおかげでギリギリのところで、踏みとどまった。 



しかし、戦後、史上最悪の事態を生み出したものに対する真摯な反省はいつの間にか消えて、今日にまで至ってしまった。

譲位の件も現在の皇室典範はふつうの法律であるから、国会で議決して改正すればいいだけの話であった。それなのに時代錯誤し、中には「憲法問題になってくる。予測はつかないが、日本の社会に大きな混乱が起こる」などとフェイクニュースを流す人もいた。めずらしく誰も忖度せず、陛下みずからカメラの前で国民に直接訴えざるをえなかった。玉音が流れたからには仕方がないという感じでようやく動き出し、結局、一代だけの特例として渋々認められた。

まあ、何はともあれ、とりあえず陛下のご希望が叶えられてよかった。

歴史上61の天皇が譲位している。125代のほぼ半分、実在が確認されている天皇に限れば半数を越える。日本の伝統にあるまったく普通のことである。

[執筆者]
広岡裕児
1954年、川崎市生まれ。大阪外国語大学フランス語科卒。パリ第三大学(ソルボンヌ・ヌーベル)留学後、フランス在住。フリージャーナリストおよびシンクタンクの一員として、パリ郊外の自治体プロジェクトをはじめ、さまざまな業務・研究報告・通訳・翻訳に携わる。代表作に『EU騒乱―テロと右傾化の次に来るもの』(新潮選書)、『エコノミストには絶対分からないEU危機』(文藝春秋社)、『皇族』(中央公論新社)他。

広岡裕児(在仏ジャーナリスト)

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