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三菱財閥創始者・岩崎彌太郎が清澄庭園をこだわって造り上げた理由

ニューズウィーク日本版 2019年5月23日 19時35分

<訪日外国人にも人気の日本庭園。なぜ歴史に名を残した人たちが日本庭園にたどり着くかを考えると、その見方も変わってくる。清澄庭園(東京)の名石コレクションには岩崎の自負が隠されているのではないか>

金沢の兼六園や岡山の後楽園、水戸の偕楽園など、人々を魅了する日本庭園は各地にあるが、訪れるのは日本人だけではない。

実際、Japanese gardens(日本庭園)に関する英語の情報はインターネットにあふれており、アメリカには日本庭園の専門誌まである。今や日本庭園は、日本を訪れる外国人にとって外せない「見るべきもの」となっているのだ。

京都を中心に庭園ガイドをしている生島あゆみ氏はこのたび、「なぜ、一流とされる人たち、歴史に名を残した人たちは、日本庭園にたどり着くのか」をテーマに執筆。『一流と日本庭園』(CCCメディアハウス)を刊行した。

庭園そのものだけでなく、それらを造った人物、深い関わりのある人物の人生を見つめた上で、庭園との結びつきを読み解いた。これ1冊で日本庭園の見方・楽しみ方が変わるというユニークな一冊だ。

ここでは本書から一部を抜粋し、3回に分けて掲載する。第3回となる今回は、三菱財閥の創始者である岩崎彌太郎と、彼が造った東京の清澄庭園について。

※第1回:利他の心に立つ稲盛和夫が活用する京都の日本庭園「和輪庵」
※第2回:京都を愛したデヴィッド・ボウイが涙した正伝寺の日本庭園

◇ ◇ ◇

岩崎彌太郎(1834年〜1885年)と
清澄庭園(きよすみていえん)(東京)

名石のコレクションとも言うべき、三菱財閥の創始者・岩崎彌太郎が造った清澄庭園。江戸時代の地下浪人から、明治に入り一大財閥を築いた岩崎が、こだわり造り上げた庭園の運命とは。

土佐藩の岩崎彌太郎

岩崎彌太郎は、土佐・井ノ口村の地下(じげ)浪人の家に生まれました。土佐藩と言えば、坂本龍馬ですが、龍馬は下級武士の家に生まれています。土佐では、上級武士が山内一豊など山内家に仕えていた家臣の子孫で、下級武士はそれ以前の長宗我部氏の家臣とすっかり線引きをされていました。岩崎彌太郎の場合は地下浪人で、さらに身分が低く、幼少期は極貧の中で育ちました。しかし、頭脳明晰だったために幼くして、儒学者・小牧米山(こまきめいざん)に弟子入りしました。

21歳のときに江戸に行き、帰国後土佐藩の執政・吉田東洋を知ったことから後藤象二郎と親しくなり、この関係が明治維新後も続くことになります。土佐で坂本龍馬と交流を持ったかどうかはわかりませんが、1865年に長崎で龍馬らが運営していた「亀山社中(かめやましゃちゅう)」が「海援隊」となり、このとき、会計を担当していたのが岩崎彌太郎です。

彌太郎の日記に、「午後坂本竜馬来たりて酒を置く。従容(しょうよう)として心事を談じ、かねて余、素心(そしん)在るところを談じ候ところ、坂本掌をたたきて善しと称える」とあります。広い世界を感じながら、長崎で龍馬は政治改革、彌太郎は商売に奔走していたのでした。

「いろは丸」で龍馬は航海に出ますが、別の船と衝突して沈没してしまいます。衝突した相手側と賠償責任の交渉をしたのも彌太郎でした。長崎では武器商人グラバーとも取引します。それが縁で、維新後、グラバーは三菱で雇われることになります。



1867年6月9日、長崎で、後藤象二郎と坂本龍馬が、睡蓮船に乗って京都に向かい出航したとき、見送りに出た彌太郎は、「不覚にも数行の涙を流す」と、日記に書き残しています。約5ヶ月後、龍馬は京都で暗殺されます。彌太郎は、志半ばで暗殺された龍馬の遺志をも引き継ぎ、海運業に邁進していくのです。

(中略)

岩崎彌太郎と清澄庭園

清澄庭園は、私の大好きな庭園の一つです。隅田川から水を引いて池を造った、明治期の回遊式林泉庭園です。暑い夏の夕暮れに訪れたとき、清々しい風が吹きわたりなんとも心地よく、立地条件の良さをあらためて感じました。また、あらゆる地方から運ばれてきた名石が、まるで宝石箱のように散りばめられています。石好きにはたまらない庭園です。

この辺りは江戸期において、比較的新しく開拓された場所でした。隅田川の水運や木場の発展などから、江戸中期に急速に成長した場所だそうです。深川八幡を中心に、独特の「イキ」の文化が築き上げられました。特に、深川猟師町が誕生して、「いなせ」な地域社会の発端になったようです。

私が着目した点は、かつてこの地に、豪商・紀伊国屋文左衛門の別荘があったと伝えられていることです。これはただの偶然でしょうか? 紀伊国屋文左衛門は、江戸中期の豪商です。幕府御用達の材木商として巨万の富を得、その豪遊ぶりも有名でしたが、政権が代わると衰退していきました。

私の推測ですが、歌舞伎の題材にもなった江戸時代の商人の成功者・紀伊国屋文左衛門に対して、彌太郎はそれなりの敬意を持っていたのではないでしょうか。だから、この地に自分の庭園を造ろうと思ったのではないでしょうか。

――江戸時代後期には下総国関宿城主・久世大和守(くぜやまとのかみ)の下屋敷でした。明治時代になり、多くの大名屋敷・土地が荒廃する中、岩崎彌太郎は残存する風景と水運の利便さが大規模造園に適することを見て、直ちにこの土地を取得しました。巨岩と老樹の庭に憧れた彌太郎は、名石があると聞けば人を派して日本全国から石を収集し、隅田川から水を引き入れた潮入の大泉水を設け「深川親睦園」として公開しました。施工半ばだった兄の遺志を継ぎ、庭園を完成に導いたのは17歳違いの弟、彌之助でした。彌之助は会社の隆盛にともない、さらに内外に誇れるような名園を意図して改修を行いました。庭園内に豪著な洋館と日本館を新築し、築庭には、京都から茶匠・磯谷宗庸を招いて指揮にあたらせ、庭石と池泉を整えた大規模改修を行い、1891(明治24)年、池を周遊しながら次々と展開する景色を楽しむ回遊式林泉庭園を完成させました。――(清澄庭園パンフレットより)

豊臣秀吉の項にも書きましたが、岩崎彌太郎の場合も、庭造りの完成を待たずに亡くなっています。富を得て43歳で庭を造りはじめ、7年後の50歳でその生涯を終えています。庭園の完成も、弟に託して亡くなっています。権力を掌握した者はどうして晩年に庭を造り始め、完成前に亡くなってしまうのでしょうか?



彌太郎は、社員達の憩いと交流の場として、そして賓客の接待の場所として、清澄庭園を造り始めます。企業家が美術品収集などに財を投じる傾向の中、社員のために庭を造り活用するというのは、極めて新しい発想でありました。そしてこのことが、次の時代の企業家である松下幸之助、稲盛和夫に受け継がれ、日本の経営者の庭造りの流れを組むものになったと思います。

また、同パンフレットには、岩崎彌太郎が夢の庭を実現したと記されています。

――「わが心には渓山丘壑を愛す。事業上憂悶を感ずる時は立派な庭園を見に行く。(中略)他に特別の趣味もないが、これが余の唯一の趣味である『岩崎彌太郎伝(下)』より」――

彌太郎は、無類の庭園好きであったのです。明治11年となる1878年、ここ清澄に約3万坪(10ヘクタール)の敷地を買い取りました。実は彌太郎は、同時期に三つの大名屋敷・庭園を購入し、独自の庭園に造り上げています。「旧岩崎邸庭園」(東京都台東区)、「六義園」(東京都文京区)、そして「清澄庭園」です。清澄庭園には、三菱汽船会社の蒸気船を使って全国の名石・奇石を収集し、隅田川の水路より庭園に運び込んできたのです。

清澄庭園の石コレクション

庭園図を見ると、庭の中心に大きな池があり、中の島、鶴島、松島が浮かび、涼亭(1909年築)という数寄屋造りの建物やあずまやなど、庭園の絶景を見られる場所が点在しています。庭園内でもっとも高い築山は、園内のどこからも見えて、これは富士山を表しています。池の周りを歩きながら、そして当時は池に舟を浮かべて、季節に応じて多種多様に変化する美しい景色を観賞できる庭です。

巨石や奇石などを注意深く鑑賞していると、「どうして、こんな石をたくさん持って来られたのだろうか」「水路が確保されていたからだろう」「重い石を運ぶのには、それなりの船(汽船)でなくてはならない」など自問自答しているうちに、岩崎彌太郎―三菱財閥―海運業という構図が見えてきました。彌太郎は、これほどの石をこの庭に持って来られたのは、海運業王の自分だからこそなのだと、自負したかったのではないでしょうか。自分の力をアピールしたいという権力者の気持ちが、庭園造りに現れているのです。

庭石にも色々あります。まずは、景石(けいせき)と言って、自然石の形態のいいものを飾りに配置させました。特に、伊豆磯石(いずいそいし)(安山岩)という変化のある立石は、中国の庭園に見られる太湖石(たいこせき)のような風貌があります。また、波の浸食によって表面に縞模様などが表れる、海岸から採集された紀州青石(結晶片岩の中の緑泥の石片岩)も使われています。清澄庭園の正面口から入って、池のほとりが池の正面と思われますが、景石は、池の西側に沿って重点的に置かれていて、磯の荒々しさを表現しています。多くの石は、安山岩、花崗岩、結晶片岩という黒や灰色の石ですが、中には、佐渡赤玉石など、赤色のチャート(岩石)もアクセントに据えられています。



庭の正面から右に歩き始めるとすぐに、水の上を歩く「磯渡り」ために置かれる「飛石(とびいし)」があります。普通「沢渡り」と言いますが、清澄庭園の場合、池の水際に大ぶりの石が敷き詰められ、荒磯を思わせる配置なので「磯渡り」と称されています。磯渡りの中ほどには船着場があり、長方形の仙台石(粘板岩)が二枚、船着石として設置されています。建物前の靴を脱ぐ場所に踏み台のように置かれる沓脱石(くつぬぎいし)には、伊豆川奈石(安山岩)などが使われ、踏み台として乗る前に、思わず立ち止まりそうな美しい色形をしています。その他、山燈籠、層塔(そうとう)、水鉢、石碑、石仏群など石を用いた景物(けいぶつ)がいろいろありますが、この庭園では厳選されたものを効果的に配置していて、散策をより特別なものにしています。

清澄庭園と三菱が辿った運命

二代目として彌太郎の後を継いだのは、17歳下の弟・彌之助でありました。彼は、進歩的知識人であり、社名を「三菱社」として鉱業や造船業を中心に事業の多角化をはかり、三菱財閥をさらに大きく発展させます。それとともに、国内外に誇れる名庭をと意図して、財を投じて清澄庭園をより完成度の高い庭にしていきます。

三代目は、岩崎彌太郎の息子・岩崎久彌です。福沢諭吉の慶應義塾に入り、その後、父が開設した三菱商業学校に転じ、英語、簿記、法律、経済を学びます。アメリカのペンシルバニア大学に5年間留学後、三菱社の副社長に就任します。

久彌の時代に関東大震災が起こり庭園も被災しますが、庭園にたくさんの被災者を迎え入れ、人々を救いました。関東大震災を契機として、清澄庭園は岩崎家から東京都に寄付されます。第二次世界大戦の東京大空襲で建物は焼失しましたが、関東大震災のときと同様、近隣住民の避難場所として多くの人命を救いました。

清澄庭園は、災害や戦争のときの避難場所として新たな役割を担うことになりました。美しい庭園が燃えたり破壊されたりするのは悲しいことですが、人々を救う場所に変わり得ることは、庭の役割として認識しておきたいことだと私は思います。

※第1回:利他の心に立つ稲盛和夫が活用する京都の日本庭園「和輪庵」
※第2回:京都を愛したデヴィッド・ボウイが涙した正伝寺の日本庭園


『一流と日本庭園』
 生島あゆみ 著
 CCCメディアハウス




ニューズウィーク日本版ウェブ編集部

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