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子どもの痙攣には「鳩の尻」が効く(でも鳩は死ぬ)──奇妙な医学事件簿

ニューズウィーク日本版 2019年5月30日 18時50分

<17~19世紀の医学論文には、珍談奇談が満載だった。これは現代に生きる私たちに何か役立つのか。たぶん、何の役にも立たない。ただ笑うしかない>

1850年8月13日、ロシア。1人の子どもが痙攣(けいれん)の発作を起こす。医者が呼ばれ、あらゆる手立てを尽くしたが、その甲斐もなく子どもの症状には何の変化も見られない。どうすればいいのか。悩みに悩んだ医者はとうとうある決心を下し、2羽の鳩を用意することになる。子どもの尻に、鳩の尻を押し付けるのだ......

......一体これは何の話で、何が起きているのだろうか? 奇人が大活躍するシュールな物語でも始まってしまったのだろうか?

そうではない。『爆発する歯、鼻から尿――奇妙でぞっとする医療の実話集』(筆者訳、柏書房)によれば、子どもの発作は本当にあったことだし、医者も実在の人物、さらに言うなら日付もそのままで、鳩の尻を押し当てるのは治療ということになる。つまり、恐ろしいことにこれは実話なのだ。

この治療法が効いた(かに見える)例もあれば、そうでなかった例もあるわけだが、本当に不可解なのは尻に当てられているうちに鳩が死んでしまった、ということだ。ここまでくるともう本当に意味が分からなくて、笑うしかない。細部が面白い本なのだ。

フリージャーナリストである著者のトマス・モリスは、まるで珍しい蝶をピンでとめて標本にするかのように、珍談奇談を採集して本の中で紹介している。他にもナイフを呑んだ男、水銀の入ったタバコ、享年152の老人、水陸両生幼児、爬虫類の糞を薬にする医者、などなど多種多様な逸話が取り揃えられ、さながら奇行珍事博物館の観を呈している。

そして、それらを読んでいると普段は良識や常識に覆い隠されている人間の姿が見えてくる。思慮を欠き、思い込みが激しく、滑稽で、時に驚くべき生命力を発揮し、また、信じられないようなアイデアを思いつき、嘘もつくが、どこか愛嬌もあり笑いを誘発する人間。そのような人間に興味を引かれるこの著者ならではの本だろう。

本書は、17世紀から19世紀にかけての古い医学論文がふんだんに引用され、それに著者が評言を差し挟む構成になっているが、引用された論文は真剣なだけにかえってユーモアが立ち上り、著者は歯に衣着せぬ物言いで笑いを催させる。過去の医者や患者の事跡を出汁(だし)にして笑いを取っていると言えなくもないが、これは快活で、陰にこもったものを感じさせない。「王様は裸だ」と叫ぶ子どものようなものだろう。



笑う人間がいて、笑われても許す人間がいる

ところで本書には、有益な知識や教訓などは書かれていない。そういうわけだからここでは、本書がいかに役に立たないかを紹介しておこう。

例えば、ガチョウの喉を呑み込んでしまったという子どもの話があるが、これはそうなるまでの過程が面白い。何でもガチョウの喉を笛代わりにして遊ぶのが子どもたちの間で流行っていて、それを何かの拍子で呑み込んでしまったというのだ。こんな奇習を作り出してしまうとは、まさに恐るべき子どもたちである。

子どもだけではない。「才覚ある医学研究者」であるフランチェスコ・シアレンティ氏は、胃の病気を治すために患者に動物の胃液を飲ませていたというのだ。こんな奇想を思いついてしまえるとは、人間の可能性について考えさせられるエピソードである。

さて、こんなエピソードが目白押しの本書が何かの役に立つかと言えば、それは大いに怪しい(読者が本書で主役を張るようなタイプの人であれば、話が別かもしれないが)。著者はそうした逸話の珍妙さを茶化すが、本書自体がそのような無駄と奇態の塊のようにも思える。おかしな言い方になるが、それはこの本が茶化している当の相手に似ようとしている、ということでもある。

これは別に不名誉なことではない。笑う人間がいて、笑われても許す人間がいる。そうでなければ生まれにくい笑いもあるだろうからだ。そもそも笑われるのが我慢ならない暴君相手には、「王様は裸だ」と叫ぶことはできない。うまく笑われる、というのもこれはこれで大事なことではないか。

印象的なセンテンスを対訳で読む

以下は『爆発する歯、鼻から尿』の原書と邦訳からそれぞれ抜粋した。

●'Cigarettes Mercurielles. Bichloride of mercury, 4 centigrammes; extract of opium, 2 centigrammes; tobacco deprived of its nicotine, 2 grammes.' These cigarettes are recommended in syphilitic ulcerations of throat, mouth, and nose.
(「水銀タバコ。塩化水銀(Ⅱ)四十ミリグラム、アヘンのエキス二十ミリグラム、ニコチンを抜いたタバコ二グラム」。喉や口や鼻にできた梅毒性潰瘍にはこれが良いとのことだ)

――水銀タバコの製法。何と19世紀に行われていた治療法である。そもそも健康のためにタバコが奨励されていた一時期があったということだ。現在の常識と照らし合わせてみると、世の中の変化というものをまざまざと思い知らされる。

●It would be foreign to my purpose to detail here the various animals I put in requisition in the course of this investigation, or the animal products I examined during a prolonged inquiry. It is enough to state that I found in the excreta of reptiles agents of great medical value in numerous disease where much help was needed.
(長きにわたる探求の過程で調べることになった動物や動物から産出される物体の一々をあげつらうのは、目的から外れることになる。ここでは爬虫類の糞が、非常に多様な病気に効く薬剤になるとだけ言っておけば十分だろう。まさに助けが必要とされていた分野だ)

――尾籠(びろう)な話で恐縮である。これも19世紀の医師が考案したという治療法で、引用はその医師の著書からのもの。きっと当時この医者にかかった患者も困惑したことだろう。

●His work requires him to rise early, and on one occasion after striking a match to see the time, and when holding it near his mouth, an eructation of gas from the stomach took place. To his consternation the gas took fire, burned his face and lips considerably, and set fire to his moustache.
(彼は仕事柄早起きだった。あるとき、時計を見ようとマッチをすり、それを口もと近くに持っていたのだが、おくびが出た。そこで彼は驚愕の事態に立ち至ることになる。胃から放出されたガスに火がついたのだ。顔と唇には相当の火傷を負うことになったし、口ひげにも火がついた)

――恐らく本書でも指折りの鮮烈な記述。20世紀前半には同種の事例が、いくつも確認されているというから、世の中何があるか分からない。この本では同じ症状の人間が3人紹介されているが、そばにいた人間の驚きは如何ばかりか。

◇ ◇ ◇

時に突拍子もないことを思いつく人間がいて、それが大なり小なり常識としてまかり通ってしまう、という事態はいつ、どこででも起こり得る。だからこそ「王様は裸だ」と叫ぶのは大事なのだろうし、そこから引き起こされる笑いも貴重なのだろうが、それは笑いを許容する態度が前提となる。

少なくとも、そういう態度のほうが好ましいことは確かだ。本書を読めば肩の力も抜けて、大らかな気持ちになれるかもしれない。

『爆発する歯、鼻から尿
――奇妙でぞっとする医療の実話集』
トマス・モリス 著
日野栄仁 訳
柏書房


トランネット
出版翻訳専門の翻訳会社。2000年設立。年間150~200タイトルの書籍を翻訳する。多くの国内出版社の協力のもと、翻訳者に広く出版翻訳のチャンスを提供するための出版翻訳オーディションを開催。出版社・編集者には、海外出版社・エージェントとのネットワークを活かした翻訳出版企画、および実力ある翻訳者を紹介する。近年は日本の書籍を海外で出版するためのサポートサービスにも力を入れている。
https://www.trannet.co.jp/

日野栄仁 ※編集・企画:トランネット

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