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「給料よりやりがい」の中吊り広告が炎上した理由 - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

ニューズウィーク日本版 2019年6月13日 17時45分

<労働者一般の利害と対立する企業側の論理をそのまま展開していることに気付いていない>

阪急電鉄の中吊り広告が批判を呼び、取り止めになりました。これは、8両編成の全車両を「はたらく言葉たち」という書籍から抜粋したメッセージ広告で埋めた「ハタコトレイン」という企画です。これは、阪急電鉄と、同著を発行したコンサルティング会社パラドックスの共同広告事業のようです。

具体的には、「毎月50万円もらって毎日生きがいのない生活を送るか、30万円だけど仕事に行くのが楽しみで仕方がないという生活と、どっちがいいか。 研究機関研究者80代」とか、「私たちの目的は、お金を集めることじゃない。地球上で、いちばんたくさんのありがとうを集めることだ。 外食チェーン経営者40代」など、吊り広告に掲げられた言葉が多くの人に不快感を与えたのです。

この広告ですが、どうして多くの人が不快感を持ったのでしょうか? 30万とか50万という金額を自分の給与とくらべて不愉快になった人も多いようですが、それだけではありません。給料よりやりがいを大事にせよという「押し付けがましさ」、そこに多くの人が違和感を覚えたのだと思います。

その「押し付けがましさ」はどこから来ているのかというと、時代への無理解がそこにあるからです。現代という時代は人々が「ワーク・ライフ・バランス」つまり「仕事」と「生活」の両立を目指して試行錯誤をする時代です。

つまり、生活をする存在である労働者の利害と、業績を追求する企業の利害は、基本的に相反します。その上で、お互いが正直に交渉し、合意がなければ転職したりして、何とか「生活」と「仕事」のバランスを獲得する、そうでなければ個々人の幸福は実現しないし、次世代を育むこともできない、ようやく社会がその認識を共有し始めた時代です。

それにも関わらず、まるで昭和や平成中期までのように「企業側の論理」が垂れ流しになっているわけで、そんな広告を満員電車の中で読まされれば、不愉快になるのも当然です。

では、どうしてこのパラドックスというコンサルティング会社は、そのような広告プロモーションを行ったのかというと、ターゲット顧客はあくまで法人、つまり企業側のようです。個々の企業のニーズに応じて、ブランディング、つまり企業ブランドのイメージを高めるサービスを有償で請け負う、それがこの企業のビジネスだからです。



そこで気になったのが「インナーブランディング」という考え方です。この企業は、やや極論をするならば「50万ではなく30万の給与でやる気を持って働いてもらいたい」とか「ありがとうという謝辞のやり取りに囲まれて、もっと頑張ってほしい」というメッセージを「企業から労働者に効率よく伝える」ための「内輪向けの忠誠心向上」を「インナーブランディング」だと考えている、そんな印象を持ったからです。

仮にそうであれば、これは大きな勘違いです。「インナーブランディング」というのは、2002年前後に、ハーバードのビジネススクール周辺で流行りだした思想です。それは、企業が社会貢献などのブランドイメージ発信を続けている場合に、企業内部の労働者がそのブランドの核となる思想を発信できるインフルエンサーになれば、企業のブランド発信力は飛躍的に高まる、そんな考え方です。

ですから、この「ハタコトレイン」の企画にあるような、下手をすると「やりがいの搾取」になりかねないような発想は、「インナーブランディング」とは無縁のものです。つまり、企業の求心力を高めて忠誠心を集め、生産性を向上しよう、そのためのメッセージを労働者に効果的に伝えようというのは、「インナーブランディング」とは言わないのです。

どうしてそんな勘違いが起きたのか、それはやはりデフレ経済が影を落としているのだと思います。同じように企業哲学を言語化し、新鮮で統一性のあるビジュアルを導入するにしても、本来のインナーブランディングというのは、労働者には労働市場で決定する水準あるいはそれ以上を分配した上で、さらに積極的に企業哲学のインフルエンサーになってもらう、つまり拡大志向の経営思想のはずです。

ですが、オープンな労働市場が成熟しておらず、その一方で消費における価格選好が厳しいデフレ経済の中では、賃金水準を抑制する一方で、企業哲学を忠誠心に変えて一方的な生産性向上に利用しようという、経営側の動機が強くなります。このコンサル会社は、そこにビジネスチャンスを見出しているのかもしれません。

だとすれば、その思想は労働者一般の利害とは鋭角的に対立するものです。そこに気付かずに、不特定多数が注目する媒体である「編成貸し切り広告」を展開してしまったところに、このキャンペーンの問題があると考えられます。

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