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終わりなきロヒンギャの悲劇

ニューズウィーク日本版 2019年6月27日 17時40分

<暴力が待つ故郷への帰還か泥の孤島への強制移住か――ミャンマーからの避難後も翻弄される少数民族の未来は>

「バングラデシュからミャンマー(ビルマ)に帰るのだろうか」という友人の言葉を聞いた途端、アブドゥラ(仮名、31歳)は立っていられないほどの恐怖に襲われた。心臓の音が大きくなり、額を大量の汗が伝い始める。手足が震え、視界がゆがみ、その後の記憶はない──。

18年11月15日のことだ。その日はバングラデシュ政府が定めた、ロヒンギャ難民の帰還の開始日だった。

ミャンマーのイスラム系少数民族ロヒンギャであるアブドゥラは現在、バングラデシュ南東部のコックスバザールにある難民キャンプで避難生活を送っている。17年8月末、彼の故郷であるミャンマー西部のラカイン州でロヒンギャに対する大規模な迫害が起きた。アブドゥラの村もミャンマー軍に焼き払われ、自身も気を失うまで兵士たちに殴られた。妻と義妹3人は性的暴行を受けた。命からがら隣国バングラデシュに逃れた後も体調はなかなか回復せず、半年以上も難民キャンプで寝たきりの生活を送った。

アブドゥラが故郷に帰るという言葉を耳にしたとき、よみがえったのはあの日の記憶だ。燃え盛る炎、激痛、泣き叫ぶ人々、流血したまま床に倒れた妻。

背景写真 REUTERS

気が付くと、難民キャンプの自分の小屋に横たわっていた。友人が気を失った彼を運んでくれたのだ。表では帰還計画に反対するロヒンギャたちが大規模な抗議運動を行っていた。

17年8末以降、約74万人のロヒンギャがバングラデシュに逃れた。それ以前に避難した人々も合わせると、難民キャンプのあるコックスバザールには約91万人のロヒンギャが暮らしている。

ロヒンギャ難民危機が発生した当初から、常に付きまとうのが帰還の問題だ。ミャンマー・バングラデシュ両政府はまだ国境を越える難民が絶えなかった17年11月に、ロヒンギャの帰還に向けて協力すると合意していた。当初は18年1月に帰還が始まる予定だったが、長らく実施のめどすら立たない状態だった。

故郷に帰りたくない難民

なぜ帰還のプロセスが進まなかったのか。その理由の1つに、ミャンマーの治安や社会状況が改善されておらず、ロヒンギャの帰国後の安全や法的な身分が保障されていないことが挙げられる。

ロヒンギャはミャンマーで「不法移民」と見なされ、事実上の無国籍状態にある。そのため、教育や医療、福祉の恩恵を受けられず、結婚や移動の自由も制限されている。またミャンマーでは、軍や警察によるロヒンギャへの暴力が今も散発的に起きている。



難民キャンプの生活も楽ではない。住居は簡素な小屋で、暮らしは貧しく、難民という立場では働いて収入を得ることもできない。不満を数え上げたらきりがないが、それでもここでは命が奪われることはない。

そんな切実な理由で、筆者が現地で取材したロヒンギャの人々はバングラデシュにとどまりたいと口をそろえた。ミャンマーでの恐ろしい体験は彼らの脳裏に克明に刻まれているのだ。

人道援助団体「国境なき医師団」によれば、故郷で負ったトラウマや難民キャンプでの先の見えない生活によって、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむロヒンギャ難民も多いという。

それでも、バングラデシュは何とか帰還を開始させたい。同国はまだ開発途上国に該当するし、コックスバザールは貧困層が約3割と国内でも貧しいエリアだ。しかも、難民キャンプがあるテクナフ、ウキア地域の地元住民数は約33万人。その3倍近い数の難民を受け入れて支援しているが、財政的にも心理的にも限界を迎えている。

一方、ロヒンギャを自国民と認めていないミャンマーにとっては、帰還が進まないほうが好都合だ。昨年1月、ミャンマー政府はラカイン州北部に帰還民用の一時滞在施設を建設したが、それ以外はバングラデシュに協力する動きはない。

政情も不安定で、当事国の協調もない。何よりロヒンギャ自身が帰りたがっていない。このような状況では、帰還はしばらく実行不可能だと思われていた。

だが昨年10月30日、バングラデシュ・ミャンマー両国は11月半ばに帰還を開始することに突然合意する。「強制送還される」という噂を聞きつけたロヒンギャの中には、逃亡する人や自殺を図る人もいた。第1弾の帰還が予定されていた11月15日には難民キャンプでデモが発生し、結局帰還は中止になった。

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、難民が将来円滑に帰還できるよう、ロヒンギャの母国がミャンマーであると明記した身分証明書を発行しており、今年5月までに25万人が取得した。だがキャンプで働く援助関係者によれば、難民の間では「強制送還の準備か」との疑念が根強く、登録作業にてこずる場面もあったという。

難民受け入れの負担を何とか減らしたいバングラデシュ政府がいま強行しようとしているのが、キャンプから北西に約120キロ離れた国内の無人島バシャンチャールに、10万人のロヒンギャを移送する計画だ。

ベンガル湾に浮かぶこの小さな島は、10~20年ほど前に浅瀬に泥が堆積してできた「泥の島」だ。島への移送計画は15年頃から持ち上がっていたが、難民の数が急速に膨れ上がったことを受けて、バングラデシュ政府は突貫工事で島内部に受け入れ施設を建設している。防波堤と10万人分の居住施設が完成間近だ。



島内で石を運ぶ作業員 REUTERS

だが満潮時には高波に襲われ、毎年サイクロンの被害を受けている島へ難民を移送することを国際社会は問題視している。国連特別報告者の李亮喜(イ・ヤンヒ)は今年1月に島を訪ねた後、居住可能な島なのか疑問だとした上で、「難民の同意のない無計画な移住は、新たな危機を呼ぶ可能性がある」と指摘。各国の人権団体やメディアも「監獄島への強制移住」と痛烈に非難した。

受け入れ国に経済支援を

筆者が18年末にバシャンチャール島を訪ねた際は雨が降っていて、普段から波の高いベンガル湾がさらに荒れていた。この辺りの海域には海賊が出現することもあり、地元住民も島には行きたがらない。スピードボートをチャーターし、混濁した海原を進むこと1時間で島付近に到着。建設現場で働く労働者以外は上陸禁止だとバングラデシュ海軍に止められたため、島内に足を踏み入れることはできなかったが、島周辺の様子は船から観察できた。

バシャンチャールは島というよりは中州のように海抜が低く、海が荒れたらひとたまりもなく水没しそうだ。海岸沿いには何台もの重機が並び、多くの労働者の姿が見えた。ロイター通信などによれば、中国のシノハイドロ社と英HRウォーリングフォード社が防波堤の建設を請け負っており、建設費用の約2億8000万ドルは全てバングラデシュ政府が拠出しているという。

住民によれば、この辺りの島々は外界から隔絶しているため医療・教育施設が乏しく、荒天時には文字どおり孤島になるという。そんな場所に難民を閉じ込めれば、バングラデシュ社会と共生することもミャンマーに帰ることも難しくなるだろう。

バングラデシュとミャンマーは、ナフ川という自然の国境に隔てられている。帰還が実行されれば、ロヒンギャはバングラデシュ側の国境付近に設けられた一時滞在所にある船着き場から、船でナフ川を越えて故郷の村に戻る。帰還計画が頓挫しているため施設は無人のまま放置されているが、この施設から晴れた日にナフ川を望むと、対岸にはミャンマーのロヒンギャの村が見える。近いところでは1キロほどしか離れていない。

ミャンマーのラカイン州とバングラデシュの物理的な交流が始まったのは、15世紀初め頃だと言われている。バングラデシュのチッタゴン大学で長年ロヒンギャを研究する人類学者ナシル・ウディンによれば、その後500年ほどの間、対岸に暮らす人々は船で川を越えて頻繁に行き来していたという。現在の国境線が確定したのは66年で、まだ50年ほどしかたっていない。



これまで帰還は、難民問題の「最も好ましい恒久的な解決策」として国連や各国政府などによって推進されてきた。だが、難民問題に詳しい大東文化大学の小泉康一名誉教授によれば、この解決法は国家側の利己心によって生まれたものだ。

バングラデシュがそうであるように、難民受け入れ国は負担から脱するため、早く難民に出て行ってほしいと願う。いま求められているのは難民に衣食住を与え続けてそのうち帰ってくれるのを待つより、「持続可能な避難地」をつくるために受け入れ国に経済支援をすることだと、小泉は指摘する。

ロヒンギャたちに迫るもう1つの危機が雨期だ。バングラデシュは6~10月の間、モンスーン災害に見舞われる。山地を切り開いてできた難民キャンプは土壌が緩く、昨年も地滑りによって家屋を失う人や死傷者が続出した。バングラデシュのアブドゥル・モメン外相は今年4月、「モンスーンによって難民キャンプで死傷者が出たら、帰還にも島への移住にも反対した人たちの責任だ」と発言している。

今いる場所に受け入れられることも、故郷に帰ることもできない。国家のエゴに翻弄され、避難後もロヒンギャの未来は踏みにじられていく。

<本誌2019年7月2日号掲載>


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増保千尋(ジャーナリスト)

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