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アポロ計画50年 「月に挑んだ男たち」が語る人類最大の冒険

ニューズウィーク日本版 2019年7月18日 19時2分

<月面着陸という前代未聞のミッションに挑んだ宇宙飛行士4人が、宇宙探査の過去と現在そして未来を語る>

その距離、実に38万4400キロ。それは人類が成し遂げた最も長い旅であり、その記録は今も破られていない。彼らを乗せた巨大な宇宙船に積まれたコンピューターの性能は、今なら小学生も持っているiPhoneにすら及ばない。演算速度は1メガヘルツを少し超える程度だった。今はギガ単位だから、文字どおり桁が違う。

ジョンソン宇宙センターの管制室ではもっぱら男たちが、もっぱら昔ながらの道具(人の頭脳と紙と鉛筆)を頼りに働いていた。今のスパコンは秒単位で軌道計算をこなすが、当時は気の遠くなるような時間がかかった。

1969年7月20日にニール・アームストロングが人類として初めて月面を歩いてから50年がたつ。月に行った人間は彼を含めて24人。月面を歩いた人は12人を数えるのみだ。

彼らは偉大な探険家と称賛され、マルコ・ポーロやコロンブスと肩を並べる存在となった。だがアポロ計画の偉業も、今や遠い歴史上の出来事。子供たちは宇宙飛行士を月まで運んだ古めかしい乗り物を、未知の大陸を発見すべく嵐の海に乗り出した15世紀の木造船を見るのと同じ目で見つめる。

しかし月への旅は、本人たちの想定以上に宇宙飛行士を変えた。月の地平線から青い地球が昇る姿を見たのも、この地球がいかに小さくはかないものかを体感したのも彼らが最初だった。彼らが月の軌道を回っていた頃、地上ではベトナム戦争が続き、米ソ両国は軍拡競争に明け暮れていた。アポロ計画自体も冷戦の落とし子だった。

しかし月への旅は国家間の対立も国境も超える興奮をもたらした。帰還後に世界の24都市を訪れたアポロ11号の乗組員たちは、どこでも紙吹雪と歓呼に迎えられた(あいにくモスクワを訪れる機会はなかったが)。

最後の月面着陸(アポロ17号)は72年の12月11日だったが、その頃にはアポロ計画への関心も薄れ、最後に月を歩いた男の名(ハリソン・シュミットとユージン・サーナン)を記憶にとどめた人は多くなかった。当時のアメリカでは大統領の犯罪(ウォーターゲート事件)が世間を騒がせていた。ベトナム戦争は終息に向かい、アメリカは敗北へと突き進んでいた。アメリカは「世界の警察官」たる特別な国だという一種の例外主義は、この頃から揺らぎ始めていたのかもしれない。

人類が月に降り立ってから半世紀。この間に地球は、そしてアメリカはどう変化したのだろう。

去る3月、科学的な探険を支援する「エクスプローラーズ・クラブ」のイベントにアポロ7号から17号の宇宙飛行士8人が集まった。今もかくしゃくとした彼らが会場となったニューヨークのホテルに姿を見せると、自撮り棒を手にしたファンが群がった。その後のセッションではバズ・オルドリン(月面に降り立った2番目の人物だ)が、着陸船の故障をフェルトペンで直したエピソードを披露した。オルドリンとアームストロングを司令船から見守っていたマイケル・コリンズは、運んできた実験用マウスが月の風土病に感染しないかと心配でたまらなかったと語った。

イベント終了後、本誌はコリンズとチャーリー・デューク、アル・ウォーデン、ラッセル・シュウェイカートに話を聞いた。以下はその抜粋だ。



チャーリー・デューク
当時 アポロ13号と17号の打ち上げ時は月着陸船パイロットの交代要員としてスタンバイした。アポロ16号で月へと飛び立ち、月の土を踏んだ10人目の人物となった。
現在 月から帰還した後、信仰に目覚めた。80年代に妻ドティーとキリスト教団体「デューク・ミニストリー・フォー・クライスト」を設立。テキサス州在住。

マイケル・コリンズ
当時 69年7月16~24日にニール・アームストロング、バズ・オルドリンと共にアポロ11号に搭乗。司令船の操縦士として、史上初の月面着陸を見守った。
現在 国務省を第2の職場に選び、国立航空宇宙博物館の館長も務めた。現在はフロリダ州で読書と運動を楽しむ生活を送り、6月にはボストン・レッドソックス戦の始球式を務めた。

アル・ウォーデン
当時 71年7月26日~8月7日にアポロ15号に搭乗し、司令船エンデバーの操縦士を務めた。
現在 NASAを75年に退職した後、科学技術の分野で特別優秀な学生を支援する「宇宙飛行士奨学金基金」の会長を11年まで務めた。自伝『地球へと落ちて』で帰還後の経験を振り返り、今も精力的に講演を行っている。フロリダ州在住。

ラッセル・シュウェイカート
当時 69年3月3 ~13日に月着陸船のパイロットとしてアポロ9号に乗り組んだ。月着陸船の有人飛行試験を行ったのは9号が初めてだった。
現在 小惑星との衝突から地球を守るため、02年に元宇宙飛行士や研究者と共に民間団体「B612財団」を立ち上げ、名誉会長を務めている。カリフォルニア州在住。



BETTMANN/GETTY IMAGES

ケネディの掲げた「ゴール」に皆が協力

マイケル・コリンズ 彼(ケネディ大統領)の指示は非常に明快だった。60年代の終わりまでに月に人間を着陸させ、安全に地球に帰還させよというのだ。つまり、やらなければならないことと、それをいつやらなければならないかははっきりしていた。私たちに託された課題は、それを「どうやるか」だった。

私たちは10年間、このテーマに必死に取り組んだ。どうやって60年代末までに人類初の月面着陸を実現させるか。ケネディが言ったとおりに。

チャーリー・デューク ケネディの言葉を聞いて、私は頭を振った。「無理に決まってる。アラン・シェパードが(アメリカ初の有人宇宙)飛行でやっと宇宙空間に15分滞在できたところなのに、月に宇宙飛行士を送ろうって言うのか? ずいぶん大胆な発言だ」

私は懐疑的だった。だが国中が力を貸してくれた。翌年、私はマサチューセッツ工科大学(MIT)に通い始めたが、MITでは既にアポロの誘導航行システムの構築が始まっていた。私もそれに携わった。仕事の中で何人かの宇宙飛行士と会ったが、あれほど情熱的で前向きに「自分たちはやり遂げられる」と考えている人たちは初めてだった。その高揚した気持ちに、私も影響された。「大丈夫、私たちはやれる。成功させてみせる」とね。

ラッセル・シュウェイカート 非常に緊張感漂う時代だったが、私たちはケネディの設定した目標を達成することだけに目を向けていた。ある意味では皆が心を一つに努力していた。国で、そして世界で何が起ころうとしているのか、気付いていなかったわけではない。ケネディの掲げた目標はとても個人的なものになっていた。あくまでも私の見方だが。そうはいっても、1つの目標をみんなで共有していたのも間違いないと思う。





Illustration by Alex Fine

ソ連との競争の裏に国を超えた連帯感

ラッセル・シュウェイカート (月面着陸計画は)ソ連との競争という部分もあったが、私にとっては何より、人類の運命として間違いなく正しいことだった。人類が月に行かなければならないのは明白で、非常に論理的な一歩だった。実のところ私たち(少なくとも私たちのうち数人)は、ソ連が何らかの成果を上げたとしても喝采を送っただろう。上層部や管理職が多少なりともリスクを恐れなくなるきっかけになったはずだからだ。私たちは国の計画として月に行ったが、火星やその先に行くときは地球という惑星の代表になるだろうと、私はよく言っている。

マイケル・コリンズ 69年は冷戦中で、ソ連とアメリカの関係は友好的ではなかった。(同年の)パリ航空ショーは(双方が参加する)中立地帯だった。彼ら(ソ連からの参加者)から多少の敵意は向けられるものだと思っていたが、全くそんなことはなかった。私たちは互いに、背景にある政治的な差異よりも類似点があるという事実を大切にした。どちらも飛行機を飛ばし、一定時間を空で過ごした。(ソ連の宇宙飛行士)パベル(・ベリャーエフ)とはとても仲良くなった。少なくともその時点では、私たちは両国間に横たわる敵意を忘れた。

史上最も有名な写真「地球の出」の多大なる影響

アル・ウォーデン アポロ8号は当時のアメリカの人々の考え方をすっかり変えたと思う。「地球の出」として知られるこの写真(1968年のクリスマスイブに、宇宙飛行士ビル・アンダースが撮影)は、おそらく人類史上で最も有名な写真だろう。

私が思うに、アポロ計画で得られた最も重要なものは地球を捉えた写真ではないか。なぜなら人々は突然、ああ、地球は果てしないものではないんだ、と気付いたからだ。自分たちが把握できないほど大きなものではない、少し離れれば小さな惑星として見えるものなんだ、と。

当時と今ではアメリカはどう変わったか

アル・ウォーデン 60年代はあまり良い時代ではなかったが、私たちは目標に向かって突き進んでいた。

67年にはケープカナベラル(の宇宙センターで)火事が起き、計画を続行すべきかどうかずいぶん議論した。結果、継続することになった。その後の展開からすれば、正しい決断だった。

どんなテスト計画だろうと、事故は避けられない。負傷者も出るだろうが、それで止めるわけにはいかない。

私は政府と契約した民間企業と組むグループに入っていた。そこには官僚主義のかけらもなかった。誰もが黙々と問題解決に取り組む。思いは1つ。自分たちの仕事は月に人間を送り込むこと。誰もがそう思って頑張っていた。

今は違う。今のアメリカは当時ほど前向きではない。何と言えばいいのか、私たちはあまりにも分断されてしまった。とてつもなく分断されている。それがとても心配だ。

社会が分断されていると、何事も成し遂げられない。歩み寄りも協力もないからだ。そこが大きな違いだ。60〜70年代にはそういう問題はなかった。



チャーリー・デューク (私が乗り込んだアポロ16号が月面探査を行った)72年当時、明らかに(ベトナム)戦争がアメリカを引き裂いていたが、宇宙計画が人々の心を一つに結び付けた。

私は計画に参加した大勢の人々と共にアポロ(11号の月面着陸の映像)を見た。みんなとても興奮していた。(ソ連と)競争していたからだ。当時はまだ冷戦の最中で、アメリカはベトナムで「熱い戦争」(武力行使による戦争)もしていたが、冷戦ではアメリカが勝利しつつあると確信できた。

当時、全米各地を回って講演をすると、国が一つにまとまっていることを肌で感じたものだ。子供も大人も誰もが興奮していた。アメリカは人類史上前例のない偉業を成し遂げる──誰もがそんな思いを抱いていた。

今のアメリカは、ある面では当時より前向きではないが、別の面では当時より前向きだろう。今でも、宇宙に行くという目標は、わが国にとってとても建設的なものになり得る。

とはいえ、あまり感心できない動きも多くある。今のアメリカは常軌を失っているようだ。

マイケル・コリンズ 宇宙計画はもちろん重要だが、アメリカ社会を大きく変えたとか、アメリカ社会にとって大きな挑戦だったとは思わない。

(アポロの月面着陸は)社会全体にとってはそれほど重大な出来事ではなかった。(宇宙計画があろうと、なかろうと)国の歴史は続いていく。アメリカは当時も今も、そして将来も、世界最高の国だ。善きにつけ、悪しきにつけ、何らかの形で、宇宙計画が(インパクトを)与えることはなかった。

当時のアメリカがひどい状態だったとは思わないし、アポロ計画でそれが素晴らしく変わったとも思わない。歴史の中では宇宙計画はさほど大きな重要性を持たないし、当時のアメリカはひどい混乱状態ではなかった。

ラッセル・シュウェイカート (私が乗った)アポロ9号が打ち上げられたのはベトナム戦争の最中で、その少し前にはマーチン・ルーサー・キングとロバート・ケネディの暗殺事件が相次いで起きた。当時は暴動が多発し、歴史に刻まれるような出来事が次々に起きていたが、私たちはアポロ計画に没頭し、粛々と計画を進めていた。

私は「今ここ」に集中するタイプだが、最も胸中深くにある重大な関心事は、そしてエネルギーを注いでいるのはずっと先の未来だ。長期的にこの国がどうなるかに、はるかに関心がある。

今は困難な時代だし、今後も困難な状況は続くだろうが、ある意味でそれは大海原の歴史、いや、もっと正確に言えば、歴史という大海原に浮かぶ泡のようなものだ。水面の泡は深い海底で起きていることにはほとんど影響を及ぼさない。

私たちの役割、果たすべき責任は人類の偉大な実験を進めていくことだ。私にとってはそれが重要で、アポロも有人月面着陸から50周年の祝賀もそのために大きな意味を持つ。月から地球を眺めて、自分たちが宇宙の片隅に生きていること、自分たちには責任があることに気付く。それが重要なのだ。

国内政治の騒々しい議論や罵り合いの最中でも、国の指導者たちは(宇宙探査に関して)より深い理解を持っていると思いたい。(宇宙探査は)ある意味で、私たちが未来の世代のために、数知れないほど多くの世代のために果たすべき責務なのだ。



司令船から2人の月面着陸を見守った幸せ

マイケル・コリンズ お分かりだろうが、私がアポロ11号で最高の席に座れたなどと言えば、嘘つきかまぬけだろう。でも私は絶対的な真実と冷静さをもって言える。自分が座った席に満足していると。

私はアポロ11 号に搭乗することを誇りに思っていた。人類を月に立たせるというジョン・F・ケネディ米大統領の夢を、私たちがアポロ11 号で成し遂げた。私はその欠くことのできない一員だった。ニール(・アームストロング)とバズ(・オルドリン)は私がいなければ帰還できなかった。あの席に座れて幸せだったよ。





SPACE X

イーロン・マスクと民間主導の宇宙探査への期待

ラッセル・シュウェイカート 今では宇宙探査の真の活力源は、民間主導による宇宙技術への参入だ。

NASAは宇宙探査に大きな責任があり、今後も宇宙計画と共に宇宙探査も継続していくはずだ。しかし、政府の宇宙計画は時間とともに硬直化し、リスクを回避する傾向がある。それとは対照的に、新規参入してくる企業は非常に革新的だ。互いに競い合い、ありとあらゆる素晴らしいアイデアを持っている。

それを体現するのがイーロン・マスクと、彼が設立したスペースXだ。同社が開発した2段式ロケットは第1段の着陸に成功し、再利用もされている。世界最強の大型ロケット「ファルコン・ヘビー」の第1段のサイドブースター2基の同時帰還・着陸も成功している。信じられない快挙だ。NASAや政府ではこうはいかなかっただろう。民間の宇宙探査は非常にエキサイティングだ。新規の宇宙開発が民間の独擅場となる日も遠くないだろう。

マスクの言葉に嘘はない。彼は人類が複数の惑星に住み、宇宙空間を行き来するようになると、本気で考えていて、それを私たちの前で言葉にする。マスク自身のアイデアではないが、勇敢にもはっきりと言葉にし、彼自身もそう信じている。彼も、私も、大勢の人々もこのテーマに関心がある──無意識にであっても、だ。

宇宙計画の資金とその未来はどこへ?

チャーリー・デューク 宇宙飛行士たちとアポロ計画が成し遂げたことに、アメリカ人は今でも敬意を抱いている。ただし、政治風土は確かに変わったと思う。

「なぜそんな大金を月に使うのか」と質問されて、私は次のように答えた。「月には一切使っていない。全部アメリカのために使った」

アポロ計画には最盛期で40万人が雇用されていた。大勢の人間がこの宇宙計画で開発された技術の恩恵を受けた。言ってみれば、多くの研究が示してきたように、これまでのアメリカの宇宙計画と宇宙開発競争に対する投資の利益率は非常に大きい。

マイケル・コリンズ アメリカ社会では、宇宙計画はどちらかといえばマイナーな要素だ。当時いかに重要だったか、現在いかに重要か、誇張したくはない。宇宙計画は重要だと心から信じてはいるが、図に乗って「世界平和や人種差別や女性の地位や、その他あらゆる問題を解決する」などと言うつもりはない。当時は偉業だった。それだけだ。誇張するつもりはない。

ラッセル・シュウェイカート アメリカの指導者たちは、国内政治や政争や激しい議論に明け暮れていても、(宇宙探査については)より深く理解していると思いたい。議会であれ政権であれ、願わくばその両方が、宇宙探査はもっと深いレベルの責務だと理解していてほしいと思う。

ある意味、それは私たちが未来の数多くの世代に対して負っている責務だ。それは生命が進化している未来であり、そうした深い認識から、NASAの年間予算や国際協力、独創的な深宇宙探査の拡大、もしくはそれらの探査への支援に対するコミットメントが生まれることを願っている。

今では毎日のように、新聞やツイッターなど至る所で、でたらめやたわ言や口論などを目にする。それでも私はやはり、根底には未来に対する自分たちの責任について深い理解があると思いたい。

<本誌2019年7月23日号掲載>


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JSC/NASA

ニーナ・バーリー(ジャーナリスト)

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