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明治時代の日本では9割近くが兵役を免れた──日本における徴兵制(2)

ニューズウィーク日本版 2019年7月24日 12時0分

<明治6年(1873年)徴兵令の制定で、すべての成人男子が兵役を担う義務があるとされた。しかし、実際には日清戦争期でも全体の5%程度しか徴集されず、兵役逃れが問題となった。その背景と影響について、尾原宏之・甲南大学准教授が論じる。論壇誌「アステイオン」90号は「国家の再定義――立憲制130年」特集。同特集の論考「『兵制論』の歴史体験」を4回に分けて全文転載する>

※第1回:徴兵制:変わる韓国、復活するフランス、議論する日本──日本における徴兵制(1)

徴兵制はいかにして正当化されたか

明治六年一月一〇日、徴兵令が制定された。そのなかで、徴兵は次のように規定されている。「徴兵ハ国民ノ年甫はじメテ二十歳ニ至ル者ヲ徴シ、以テ海陸両軍ニ充タシムル者ナリ」。

徴兵令とは、つまるところ国家権力が二〇歳になった国民(男子)を徴発して兵員に充当する宣言である。維新後わずか数年にして徴兵令が制定されたのは、多分に実利的な理由に基づく。明治五年に起草された山縣有朋の意見書「論主一賦兵」は、徴兵制を導入すべき理由のひとつに、志願兵制はコストがかかることをあげている。志願兵は職業的兵士なので、給与や退職後の年金が必要になるからである。

一方、徴税と同じ感覚で国民を徴発できる仕組みを作れば、はるかに安上がりとなる。多くの研究者が指摘するように、気性が荒くプライドが高い士族兵の統制が著しく困難だったことも背景にはあるだろう。志願兵制を採った場合、応募者の大半が士族であることは、容易に想像できた。

だが、実際に徴集される民衆から見れば、徴兵制は単純に迷惑な制度である。徴兵制は「強迫兵制」「強迫法」とも呼ばれた。これは義務教育が「強迫教育」と呼ばれていたことに似ている。そして徴兵制と義務教育は、地租改正とともに民衆の激しい拒絶反応を引き起こし、血税一揆などとよばれる暴動の原因ともなった。

抵抗の大小はともかく、民衆の拒絶は予期されていたことに違いない。政府は徴兵令制定に先立って、制度を正当化する論理を用意していた。それらは、徴兵の詔みことのり、さらには趣旨説明書である徴兵告諭という文書に記されている。

徴兵の詔と徴兵告諭は、第一に、原則として成人男子がなんらかの兵役に服する形態こそが日本本来の兵制なのだ、という擬制を前面に出した。明治維新は「王政復古」であり、明治四年の廃藩置県は江戸の封建制の崩壊と古代の郡県制への回帰を意味する。兵制もまた「上古ノ制」に回帰するのが当然なのだ。そういう理屈である。

主たる根拠は律令兵制であった。たとえば養老律令は、一戸の正丁(二一歳〜六○歳の男子)三人につき一人を徴集すると定めている。明治憲法の公式注釈書といわれる伊藤博文の『憲法義解』(明治二二年)が兵役義務条項の具体的根拠として選んだのも、古代の律令兵制であった。ただし、この歴史的遡及はしばしば神武天皇の事績にまで延伸された。



第二の理屈は次のようなものである。明治維新は、軍事を独占的に担当していた武士階級の解体をもたらした。兵農分離状態が解消されたので、今後は武士以外の国民も軍事を担わなくてはならない。そこに、ヨーロッパの市民革命像が重ねられる。徴兵告諭は「世襲坐食ノ士ハ其禄ヲ減ジ刀剣ヲ脱スルヲ許シ、四民漸ク自由ノ権ヲ得セシメントス。是レ上下ヲ平均シ人権ヲ斉一ニスル道ニシテ、則チ兵農ヲ合一ニスル基ナリ」と説く。維新によってすべての国民が自由を得て、平等に人権を得た。これは同時に、すべての国民に国を守る義務が発生したことを意味する。

思想史家の宮村治雄は、かつて徴兵告諭を維新の「人権宣言」に位置づけた。そして、被差別部落民を「平民同様」とした明治四年の「解放令」にすら見られなかった自由、人権という言葉が、国民徴発宣言である徴兵令の制定に際して使われたことに、歴史の皮肉を見出した(『新訂 日本政治思想史』)。

兵役義務と徴集の間

徴兵告諭は、すべての成年男子に兵役を担う義務があることを説いた。「国民皆兵」「挙国皆兵」「全国(皆)兵」といった言葉は、そのことを表現するスローガンとして流布していった。

だが、政府あるいは軍の側から見れば、徴兵制をめぐる問題は、いかに優良な下士官や兵を必要な数だけ調達するか、どの程度の予算を用意できるか、そして軍隊建設の際に生じる抵抗をいかに少なくするかという問題に結局のところ収斂する。

国民皆兵という言葉はさかんに使われるものの、徴兵令そのものは長らくザル法でしかなかった。成人男子を徴集することはどうしても「イエ」の存続と抵触するため、戸主と嗣子などは免役とされた。近代国家建設のために必要な人材を奪われては困るので、官員や学生も免役である。加えて、代人料(免役料)二七〇円の納付によっても免役となった。

現実の徴兵制は、国民皆兵どころではない不平等な制度だったのである。免役対象にならない次男以下は、分家や養子縁組、絶家再興、女戸主への入婿などの手段で戸主や嗣子になろうと狂奔した。その結果、明治一二年には二〇歳男子人口三二万一五九四人中、九〇%近い二八万七二二九人が免役該当となる。事由の約九六%が戸主・嗣子などの名義によるものだった。二〇歳男子の大半が一家の主人かその跡継ぎになったのである。実際に三年間の兵役を負担する者は「養子となることのできない貧農の二・三男」(藤村道生)が中心であった。



政府は徴兵令制定以降、法改正を通して分家や養子縁組を防ぐ対症療法を続けたが、戸籍操作による兵役逃れは、昭和以前の最後の徴兵令大改正といわれる明治二二年の改正が「廃疾」「不具」を除き免役・猶予条項を全廃し、徴集延期を家族の生計が維持できない場合などに限定するまで続いた。

だからといって、もちろん即全員が兵となったわけではない。政府の側から見ても、財政的制約などから見て大量の兵員を養えるわけではないし、またその必要性が希薄な場合もある。歴史学者の加藤陽子が指摘するように、明治期の日本では二〇歳男子人口に比して実際の徴集人員の割合は非常に少なく、日清戦争の明治二七年ですら五%にすぎなかった(『徴兵制と近代日本』)。根こそぎの動員が発生するのは昭和の戦争の時代に入ってからのことである。つまり、誰が兵役義務を持つのかという問題と、誰が実際に軍務を担うのかという問題は、クロスしつつも別個に存在していた。

立憲政体と徴兵制

兵役逃れが大きな問題として浮上していたころ、そもそも兵役義務や国のために戦う義務はどのようにして発生するのか、政府が国民にそれを押しつけることは可能なのかという疑問が、徐々に芽生えてきた。

その発信源のひとつが、自由民権運動である。高知の民権結社立志社は、明治一〇年の国会開設を求める建白書のなかで、徴兵制を導入して国民に「血税」負担を求めるからには専制政治をやめて「立憲ノ政体」を樹立すべきと説いた。

彼らによれば、本来、徴兵制は「良制」である。だが、それは「立憲ノ政体」で施行されるからであって、専制政府の下ではそうではない。専制政府は一方的かつ強圧的に国民に負担を押しつけるだけなので、国民にとって国事はしょせん他人事であり続ける。

だが「立憲ノ政体」では、参政権を持つ国民が議会を通して政府とともに国是の確定を行い、定められた租税を負担し、「護国ノ責」を自発的に負担することになる。みずからが参画して作り上げた国の幸福と安全を守るために国民は兵役義務を負うのであって、一方的な徴発は徴兵制の真の姿ではない。徴兵制を続けるのならば、国会の開設が必要だ。彼らはそう訴えた。



参政権と兵役義務を関連づけて捉える思考は、政府の近辺にも浸透していった。明治一二年の徴兵令改正は、政府の議法機関である元老院が政府原案の可否について審議し、修正を行った。そのなかで、国民徴発宣言にすぎない第一条の「徴兵ハ国民ノ年甫メテ二十歳ニ至ル者ヲ徴シ」という文言を根本的に改めて「徴兵ハ全国ノ男子護国ノ義務ヲ帯ル者ヲ徴集シ」とする動きが起こった。修正案の提出者は、津田出、山田顕義、佐野常民、細川潤次郎、中島信行といった面々である。

それは次のような意図を持つ。第一に、徴兵は上からの一方的徴発ではなく国民の「護国ノ義務」に基づくものであり、忌避は許されないことを明らかにする。国民が兵役義務を持つことを周知徹底するというのは、山縣有朋の方針でもあった。

第二に、「護国ノ義務ヲ帯ル者」を徴集すると明記することで、義務を持たない者が存在することを明らかにする。現実に老人や子供、検査不合格者は兵役を免れており、徴兵令そのものがザル法であった。そのことを明示して「血税」におびえる国民を安心させようとしたのである。

ところが、この修正案は賛成九反対一〇の一票差で葬り去られてしまう。有力な反対意見は、河野敏鎌、柳原前光らによって唱えられた。それは「護国ノ義務」は憲法制定によってはじめて定まるので、憲法がない状態で徴兵令にそれを明記するのは不適当、というものである。

この場合の憲法とは、当時元老院が天皇から命じられて起草した憲法草案がイメージされている。元老院憲法草案には、国民から選ばれた「代議士院」の存在が明記されており、天皇と立法権を分有し、ともに憲法を遵守する約を結ぶ機関として位置づけられていた。ということは、元老院の河野や柳原にとって、憲法上の兵役義務は、国民から選ばれた「代議士院」があってはじめて具体化するということになる。当時の元老院には民権派系の書記官も在籍しており、河野、柳原は民権派に近い議官と目されていた。

このことは、立志社建白以来、民権派のなかにあった立憲政体と徴兵制、もしくは参政権と兵役義務の不可分性という問題意識を、現実の憲法起草や徴兵令改正に反映させようとする動きが微弱ながら存在していたことを意味する。



「代議士院」による憲法遵守の約を重視した元老院憲法草案は、いくつかの修正を経て、最終的に政権中枢によって却下された。また現実の明治憲法は欽定憲法であり、民権家たちの期待に反して国民から選ばれた者が制定に参画できなかった。明治二三年の帝国議会開設の際に衆議院議員でもあった中江兆民が訴えたように、衆議院で憲法条文を一条一条点検し修正を行うことで、欽定憲法を実質的に国民の憲法に転化しようとする試みも、実現しなかった。

明治二二年一月二二日の改正徴兵令は、次のような条文に改まる。「第一条 日本帝国臣民ニシテ満十七歳ヨリ満四十歳迄ノ男子ハ、総テ兵役ニ服スルノ義務アルモノトス」。徴兵令が制定されてから一五年が経って、兵役が義務であることが明文化された。これは、改正徴兵令から一月も経たない二月一一日に発布された明治憲法の第二〇条「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」に対応する。兵役はもはや一方的な徴発であることをやめて、憲法に基づく義務として再定義された。だがそれは、国民の同意のない義務であった。徴兵令改正の報に接した『朝野新聞』(一月二四日)は、「明年の帝国議会開場の時を待ち其議に付して国民多数の意見を問ふ」原則論を唱えたが、もはやどうすることもできなかった。

このように、兵役義務は国民の明示的合意なしに定まった。とはいえ、その後暗黙の承認がなかったとはいえないのも事実である。帝国議会が開設されて以降、徴兵令の細かな修正は審議の対象になっている。だから、兵役義務と徴兵制をめぐる問題を本格的に問いなおすことができないわけではなかった。それが行われなかったのは、徴兵制軍隊が日清・日露の両戦役における勝利という、容易に否定することのできない大実績を作ってしまったことにも関係するだろう。

だが、国民の参画がないまま兵役義務と徴兵制が定められ、大正デモクラシー期にいくつかの例外があるものの議論が継承されなかったことは、その後の歴史にも影を落としているように思われる。

※第3回:志願兵制と徴兵制はどちらが「自由」なのか?──日本における徴兵制(3)

尾原宏之(Hiroyuki Ohara)
1973年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、東京都立大学大学院社会科学研究科単位取得退学。博士(政治学)。NHK、首都大学東京助教などを経て、現職。専門は日本政治思想史。著書に『大正大震災』『娯楽番組を創った男』(ともに白水社)、『軍事と公論』(慶應義塾大学出版会)など。

当記事は「アステイオン90」からの転載記事です。



『アステイオン90』
 特集「国家の再定義――立憲制130年」
 公益財団法人サントリー文化財団
 アステイオン編集委員会 編
 CCCメディアハウス


尾原宏之(甲南大学法学部准教授) ※アステイオン90より転載

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