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「れいわ新選組」報道を妨げる「数量公平」という呪縛──公正か、忖度はあるのか

ニューズウィーク日本版 2019年7月19日 19時0分

<テレビが「山本太郎現象」を報じないのは、政府当局への忖度だ――支持者はこう批判するが、果たして本当にそうなのか? 「表現や言論の自由」が専門の専修大学・山田健太教授(ジャーナリズム学)に聞いた>

7月21日に投開票が行われる参議院選挙を前に、山本太郎代表が率いる政治団体「れいわ新選組」がインターネットを中心に「台風の目」として注目を集めている。

しかし、雑誌やネットニュースがこぞって報じる一方で、選挙期間中はテレビや新聞での扱いは他党に比べて小さく、支持者からは「黙殺」「村八分」という批判の声さえ上がっている。

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ついには、支持者の1人がネット上でこんなページを作り署名活動を始めた。いわく、「山本太郎さんと彼の率いる『れいわ新選組』を、テレビに映してください。まるでいないかのように無視しないでください!」。

5日間で約1万6000人の署名を集め、宛先は「マスコミ各社」とある署名ページには、こうも書かれている。「巷やネットでは、社会現象になっているほど各地で旋風を巻き起こしている山本太郎さんと『れいわ新選組』ですが、テレビ局は、彼らがまるで存在しないかのように今も無視し続けています。これは、おそらく政府当局やスポンサーへの忖度と思われ、ジャーナリズムとして恥ずべき行為に思います。表現の自由、言論の自由、報道の自由に反するのではないでしょうか?」――。

テレビは本当に「忖度」しているのだろうか。共同通信社の世論調査によると、れいわ新選組を比例投票先と答えた人は全国で1.1%(東京新聞、7月14日)。政党要件を満たしていない「政治団体」であり、党首討論にも呼ばれない。選挙期間中、テレビや新聞が他の政党と同列に報じないのは、選挙報道における公正公平に配慮した結果なのではないのか。

7月17日、「表現や言論の自由」が専門で『放送法と権力』(田畑書店)などの著書がある専修大学の山田健太教授(ジャーナリズム学)に、本誌・小暮聡子が聞いた。

***


――今回の参院選報道をどう見ているか。

近年の日本のメディアの選挙報道は、基本的には情勢報道と政策の伝達報道と、選挙が終わってからの選挙速報に分かれている。世論調査に基づきどちらが優位かという情勢報道と、党首や候補者の政策をきちんと報じる、ということをやっている。

だが、どう「きちんと報じている」かというと、公職選挙法や放送法といった法的な規律の中で出来る限り「数量公平」を重んじることに徹している。

数量公平を図る上で一番簡単な方法は、放送であれば各候補者や各党について同じ長さで流すとか、新聞であれば同じ行数にすることだ。例えば選挙公示日の報道では、NHKは候補者について秒単位で完全に長さを一緒にしている。しかし公示日以外で毎回全員を同じ枠で報じるというのは無理があるので、数量公平という意味合いを少し変えて、自分たちでいくつかの要件を作っている。

要件の1つは、現在の議席数に応じて枠を決めるという方法。もう1つは、いわゆる「泡沫候補」と言われる当選可能性が少ない候補については無視して、基本的には主要な候補者、主要な政党を報じる方法。そうすることによって、文句が来るのを防ごうというか、恣意的だと言われることを防ごうとしている。その結果、支持者が指摘するような、れいわ新選組の報道が圧倒的に少なくなるという現象が起きている。



――テレビは放送法と公職選挙法、新聞は公職選挙法という、法的根拠に基づいて各党、各候補者について公平に報じようとしている、と。

公職選挙法は、放送についての条項と新聞・雑誌についての条項が別々にある。放送については第151条の3。新聞は第148条。放送法では、第4条で番組編集の基準として「政治的公平さ」を規定している。



【公職選挙法】
(選挙放送の番組編集の自由)
第百五十一条の三 この法律に定めるところの選挙運動の制限に関する規定(第百三十八条の三の規定を除く。)は、日本放送協会又は一般放送事業者が行なう選挙に関する報道又は評論について放送法の規定に従い放送番組を編集する自由を妨げるものではない。ただし、虚偽の事項を放送し又は事実をゆがめて放送する等表現の自由を濫用して選挙の公正を害してはならない。

(新聞紙、雑誌の報道及び評論等の自由)第百四十八条① この法律に定めるところの選挙運動の制限に関する規定(第百三十八条の三の規定を除く。)は、新聞紙(これに類する通信類を含む。以下同じ。)又は雑誌が、選挙に関し、報道及び評論を掲載するの自由を妨げるものではない。但し、虚偽の事項を記載し又は事実を歪曲して記載する等表現の自由を濫用して選挙の公正を害してはならない。


読めばわかるように、ここには「自由を妨げるものではない」と書かれており、公職選挙法は選挙報道の自由を定めている法律だ。「但し、......公正を害してはならない」と書いてあるが、条文は主として自由を定めている。

公職選挙法が規定している「公正さ」、つまり公正に報道しなさいというのは、あくまで「但し書き」だ。本則の条文には、選挙報道は自由ですよと書いてある。わざわざ選挙報道は自由です、ということを定めている条文にもかかわらず、なんとなく但し書きのほうの、公正さを担保しましょう、というほうがメインになってしまっている。但し書きと原則が逆転してしまっているという状況が、今の日本の選挙報道にあると思う。

では「公正な報道」とは何を指すのかというと、基本的には党派性によらない、恣意的にならない、という公正さだ。だが、党派的とか恣意的にならないというのは主観的な要素を免れない部分がある。そのため外部から、特に候補者から文句を言われたときに困らないようにと、外形的な平等さを守る、つまり数量公平を重んじるようになっている。

実際のところ、ここ数日のNHKは、夜のニュースの参院選特集の中で「密着・党首の選挙戦」と題して、各党について順番に報じている。きっちり秒数を測ったわけではないが、NHKはおおよそ議席数に配慮してやっていると思う。例えば自民党の安倍晋三党総裁と立憲民主党の枝野幸男代表が特集された回では、安倍氏の時間は長く、枝野氏は短かった。完全に議席数に基づいてやるならもっと差が開くのだろうが、それでも時間に相当差はつけている。

公職選挙法における公正さを気にするあまり但し書きを原則化してしまい、外形的な数量公平を図ろうと努力し、それが結果的に少数政党に不利になってしまっている。



――テレビと新聞を分けて聞きたいのだが、テレビが気にしているのは公職選挙法なのか、放送法なのか。

両方だ。しかし最近は、放送法を気にしている可能性があるかもしれない。放送法4条に違反すると、近年、総務省が放送局の所轄官庁として行う「行政指導」が行われる実態があるからだ。かつては政府も、放送法は倫理的な規範に過ぎないとしていたのが、最近は、行政処分の根拠になりうるし、しかもその違法判断は政府が行うと、法解釈を180度変更してしまっている。こうした状況がある中で、免許事業の放送局はどうしても総務省の顔色を気にせざるを得ない。本当は、政府の解釈が誤っているとして、きちんと白黒をつける必要があるのだが。

――2014年末の衆議院選挙に際し、自民党がNHKおよび民放各社に「選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保についてのお願い」と題した書面を出したことが話題になった。行政指導を気にしているというのは、NHKと民放の両方に言えることか。

言えるだろう。多くの放送局では、選挙期間になると責任者名で、扱いに注意しましょうといった内容のお触書が回る実態がある、と聞く。

――テレビ局の方たちと話すなかで、現場がどんどん「忖度」するようになっているという空気を感じるか。

選挙だから特に気にする、ということはないと思う。私が出演した番組で特別にそんなことを気にしていたとは全く思わない。それは思わないのだが、全体的に見ると放送局が息苦しくなっているというところはあると思う。息苦しさというのは、官邸を気にしているとか、行政指導を気にしているというよりも、文句がつくと面倒だ、ということだろう。

――文句というのは、政府から文句がつくということか。

政府はあまりないかもしれないが、自民党かもしれないし企業かもしれないし、視聴者・聴取者かもしれない。視聴者がある面では一番「面倒」かもしれない。メールや電話でクレームがくると、対応しなければならない。私の感覚では、ただでさえ人が少なくて忙しいなかそういうクレームを避けたいと考えているように思う。それよりも、本当に戦わなければいけないところで戦いましょう、と。

――テレビには、報道番組とワイドショーがある。選挙報道において2つですみわけはあるのか。ワイドショーであれば泡沫候補でも取り上げるが、報道番組では公平性に配慮する、など。

あると思う。報道番組と銘打っているところのほうが、より意識しているとは思う。外形的な公平さを守ろうという意識は、公職選挙法に基づいて報じようということだ。どこかに忖度しているというよりも、それが正しいと思っている、ということだろう。

文句うんぬんの話というより、メディアとしてのありようの話だ。これは今に始まったことではなく、日本のメディアは公平さが大事だと思っている。とりわけ選挙のときには党派性を帯びない、どこかの政党にくみしないという思いが強いため、できるだけ平等にやるのがいいことだと思っている。



――泡沫候補をどう報じるかについて、過去の判例はどう判断しているのか。

1986年2月12日に東京高裁で、ざっくり言えば、泡沫候補は無視してもいいという判決が出ている。一方で、これは「自由に報道していい」という判決だった。



(東京高判1986. 2. 12、判時1184. 70)
有力候補に焦点をあわせ、いわゆる泡沫候補を軽視する選挙レポートの是非が争われ、「選挙に関する報道又は評論について、政見放送や経済放送と同じレベルにおける形式的な平等取材を要求しているとは解し得ない」と判示した。(山田健太、『法とジャーナリズム 第3版』学陽書房、2014年)


――泡沫候補を無視してもいいし、取り上げてもいい、という判決だと。

もちろんそうだ。もっと言うと、放送で言うならば「放送倫理・番組向上機構(BPO)」が2017年に2016年の参議院比例代表選挙を振り返り、選挙報道については自由であるべきだと、わざわざ表明したくらいだ。

放送倫理検証委員会「2016年の選挙をめぐるテレビ放送についての意見」(2017年2月7日、BPO)の中で、BPOはこう書いている。



そもそも選挙に関する報道と評論の目的は、有権者が誰に投票するのか、どの政党に投票するのかを決める判断材料を提供するために、立候補者や政党の政策、政治家としての資質、選挙運動の状況などの情報を伝えることにある。そして、このような目的に照らせば、多数の立候補者の中から有力とみられる候補や、注目されるべき政策を掲げた候補など一部の立候補者を重点的に取り上げる番組を編集し放送することは、放送倫理として求められる政治的公平性を欠くことにはならない。 重要なのは、選挙に関する報道と評論にあたって放送局が複数の立候補者の中から特定の立候補者を重点的に取り上げる場合には、各放送局がそれぞれに定めた合理的基準に基づいて番組を制作・放送することである。


私は、これだけ山本太郎現象がニュースになってくればそのうち報道はすると思う。むしろ、その報道の仕方のほうが問題だ。山本太郎現象を「現象」だと言って面白おかしく取り上げるのか、きちんと彼の政策をまっとうな政策として取り上げるのか、その違いが重要だと思う。

――前回の米大統領選をニューヨーク支局で見ていたのだが、当時アメリカの主要メディアはひたすらドナルド・トランプを追いかけ、トランプのメディア露出は急激に増えた。後から振り返れば、トランプは金額に換算すると約56億ドル分のCM枠をタダで手に入れたようなものだったという(調査会社メディアクオントの推計)。この反省から、今年トランプが大統領選に出馬すると表明した際、CNNとMSNBCは生中継の演説を途中で打ち切った。例えばいま山本太郎現象が起きていたとして、日本のテレビが数量公平はさておき何か意味がありそうだとこぞって放送し始めたら、それ自体が「現象」を作ることになるかもしれない。テレビにはそれほどの影響力がある。報じるか、報じないかを、どういった「合理的基準」で測るのかが難しいところだと思う。何を基準に考えればいいのだろうか。

私は単純に、選挙期間中に限らず、日本の場合はテレビも新聞も、自由に報じればいいと思っている。特に新聞は放送法の制約もないわけだから、原則は好きに書けばいいと思う。自分の責任でいいと思ったことについて自由に書くのが一番いいというのが私の基本スタンスだ。



――報じる意義があると思ったら、書くべきだと。

そう思う。ただそのときに唯一気にしなければならないのは、全体として、媒体としてある特定の党派に対して偏っている報道をするかどうかはあると思う。例えば、一切自民党については報じないとか、一切れいわについて報じないというのは、私はある種、党派的な報道だと思う。

日本のテレビや新聞は党派性を帯びることを原則はしないと言っているので、それは守ったほうがいい。例えばアメリカの新聞が社説で政党への支持を明らかにするのとは違って、日本の場合は支持政党を明らかにしないという報道倫理を守ってきた。

それがいいかどうかは別として、日本の場合は党派性を帯びない前提で、テレビで政見放送をし、新聞に選挙広告を税金で載せることができる。日本のマスメディアは、党派的でないことを前提とした、ある種の社会制度になっている。仮に党派性をもってもいいことにするならば、政見放送や選挙広告の制度が成り立たなくなってしまうだろう。

――選挙報道の公平さとは何かについて、BPOは以下のように言っている。報道の「質」に関して、今後、求められる選挙報道とは。



選挙に関する報道と評論に「量的公平性(形式的公平性)」が求められれば、放送局にこれを編集する自由はなくなる。したがって、選挙に関する報道と評論に編集の自由が保障されている以上は、求められる「公平性」は「量的公平性(形式的公平性)」ではありえず、必然的に「質的公平性(実質的公平性)」となる。


まずは、せっかく公職選挙法によって、つまり憲法によって報道の自由が保障されているのだから、自分たちの立場は自由な報道をすることが大事なのだと肝に銘じることだ。その上で、とりわけ選挙中という短い期間での演説や政策のチェックは、リソースのある報道機関が担うべき役割だ。アメリカでは一般的になっているファクトチェックを日本の新聞も一部やり始めてはいるが、選挙報道に限って言えば、もっと積極的に行うべきだと思う。場合によってはそれが特定候補にとってダメージになったとしても、気にせずにやるべきだろう。

もう一つ、山本太郎現象については、もし今の与党にも野党にもない第三極を目指すというのであれば、単なるブームや現象ではなく第三極を目指す動きとしてそれなりに正当な評価をして政策判断をしたほうがいいと思う。単に演説が面白い、ということではなく。

――公職選挙法には新聞と雑誌が同列に規定されているが、選挙報道における雑誌の役割は。

今日現在で言うなら、新聞が数量公平に縛られがちなわけだから、それを無視して報道するということが一番では(笑)。せっかく法で、定期刊行物には自由な報道が保障されているのだから。


小暮聡子(本誌記者)

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