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世界の紛争地で日本人フォトグラファーが見た「いのち」

ニューズウィーク日本版 2019年7月26日 15時0分

<日本の豊かさの陰で、年間1900万トン、7000万人が1年間生きられる量の食品が廃棄されている現実>

1992年、ソマリア。

1960年の独立以降、氏族(クラン)の単位で生活を行なっていた遊牧民族であるソマリア人の武装勢力が、権力争いや反政府活動を続けていた。そして、国外から流れ込んだ大量の武器によって国内は内乱状態に陥っていた。

そんな危険極まりないソマリアの実情を写真で記録した日本人フォトグラファーがいる。

フランスの『Sygma』(現、ゲッティ)を中心に外国の通信社を中心に、30年にわたって第一線で活躍している橋本昇氏だ。国内の被災地から、海外の内戦や難民などを取材し続け、歴史に刻まれた不条理な人類の苦しみを、命をかけて現場に赴き、カメラで切り取ってきた。

橋本氏は最近、自らの目で見てきた紛争地や戦場の現実をまとめた新書を上梓した。

『内戦の地に生きる フォトグラファーがみた「いのち」』(岩波ジュニア新書)には、ソマリアの首都モガディシオに橋本氏が2度に渡って取材した様子が描写されている。

「男の子が虚ろな眼でこちらを見た。カメラを構えて、男の子にレンズを向けシャッターを切った。男の子の目がレンズの先を追う。その間、ずっと体が震えているのを感じていた。ここまでの飢餓の現実を目の当たりにするのは初めてだった。どうして自分はここにいるのか?」

そう自問した橋本氏は、かき乱された感情の中で、真正面から自分に向き合う。「自分の健康な体を恥ずかしいとも感じた。写真を撮るということで正当化している自分の存在。何十年の人生まで問われているように心が揺れ、心の中で何かが激しく交差した」

フォトグラファーである前に、人間であることを突き付けられたフォトグラファーの葛藤がそこにあった。

内戦と干ばつで飢餓に陥ったソマリアのバルディラ。人々は食糧を求めてあても無くさまよう Noboru Hashimoto


仲間の殉教に「アッラーアクバル」と叫び、祈るハマス特別攻撃隊(パレスチナ自治区ガザ、2002年2月) Noboru Hashimoto


セルビア人スナイパーにより、狙撃された母親であり妻である女性の遺体を確認する父と息子(ボスニア・ヘルツェゴビナ、1994年2月) Noboru Hashimoto

ソマリアだけでなく、ボスニア・ヘルツェゴビナ、南アフリカ、ルワンダ、シエラレオネ、リベリア、アフガニスタン、パレスチナ、カンボジア、そして福島県飯館村。本著は、日本の日常がいかに恵まれた環境なのかを痛いほど再認識させる。

本著の中で、特に印象に残ったのは、2003年の南スーダンで、あちこちに行き倒れた遺体が転がっている状況を目の当たりにした現場での、著者の率直な言葉だ。「やはり、日本での生活が頭に浮かんだ。町中に所狭しと溢れる食べ物屋、24時間営業のコンビニ、毎日これでもかとグルメ情報が流れてくるテレビ」と、日本の現実を突きつけ、こう述べる。「その便利さ、豊かさの陰で1年間に1900万トンもの食品が棄てられているという現実。数字で実感するのは難しいが、これが世界の7000万人が1年間食べていける量だと聞くと、『えっ!』と絶句するしかない」

その上で、橋本氏はその状況をこう皮肉っている。「その時、3食満ち足りた日本のヒューマニストが言う『清貧』という言葉が『風に飛んで』いった」

飢餓で死亡した幼児の遺体を遺体収容トラックへ渡す。バルデラは死の町とよばれたバイドアと同じように毎日飢餓でばたばたと人が亡くなっていた(ソマリア・バルデラ、1992年) Noboru Hashimoto


命の灯が消えて行く。飢餓で死にゆく子供に水を与える母親(ソマリア・バイドア、1992年) Noboru Hashimoto


一粒一粒指先で米を拾い集める人々。その時、3食満ち足りた者(日本のヒューマリスト)が言う「清貧」という言葉が風に飛んでいった(南スーダン・アレク村、2003年) Noboru Hashimoto

日本という恵まれた環境で、日常に忙殺される日本人。橋本氏の見てきたような人類の苦難は、いまも世界各地で起きている。そんな現実に触れることで、生きることについて今一度、考えてみてもいいかもしれない。それは、人生観が揺さぶられる体験になることだろう。


山田敏弘(国際ジャーナリスト)

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