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民主主義が嫌悪と恐怖に脅かされる現代を、哲学で乗り越えよ

ニューズウィーク日本版 2019年8月1日 20時2分

<アメリカで注目の思想家マーサ・ヌスバウムが、恐れを読み解く哲学で提言する「嫌悪の時代」を生き抜く流儀>

イギリスのビアトリス王女、モデルのカーリー・クロス、実業家のデービッド・ロックフェラーJr.、ロバート・F・ケネディの娘ケリー・ケネディ──多くの著名人が昨年12月、ニューヨーク公共図書館に集った。

華やかなイベントの正体は第3回バーグルエン賞授賞式。その主役であり、「社会的・技術的・政治的・文化的・経済的変化によって急速に変容する世界において方向性や知恵を見いだす力となり、自己理解を促進させた思想家」に授与される同賞を受けたのは、エレガントな「哲学界のロックスター」、マーサ・ヌスバウムだった。

シカゴ大学の法学・倫理学教授である71歳のヌスバウムは正義、および正義の私的・政治的な影響に情熱的な関心を寄せる。とはいえ目を向けるのは理論にとどまらない。哲学を用いて、対話における表現をよりよいものにすることが彼女の使命だ。新著の『恐怖の君主制』では、怒りや嫌悪、嫉妬という感情は古代以来、人々の分断に利用されてきたという視点から現在の政治的危機を考察する。

学者は象牙の塔の住人で政治論争を遠ざけるという批判を、ヌスバウムは受け入れない。哲学の祖である先人らを模範とするからだろう。「古代の偉大な思想家は政治問題と距離を置かなかった。(古代ローマの哲学者)セネカはローマ皇帝ネロの指南役であり、悪行をさせまいとした。政治の現実から逃れる道はなかった」

ドナルド・トランプ大統領が誕生するずっと前から、アメリカの政治論議では「恐れ」が幅を利かせてきた。だがこの2年間、その規模と破壊度は増している。トランプ時代の今、いかに怒りを「純化」して希望を見いだすか、本誌ニーナ・バーリーが話を聞いた。

――『恐怖の君主制』では、トランプが次期米大統領に選ばれた夜に悟ったことについて書いている。

そのときは日本にいて、友人が近くにいなかった。彼らと話をし、抱き締めるという普段の方法で自分の動揺や恐れを表現できなかった。ニュースが入るたびに、ひどいパニックに陥った。有権者の間に分断が存在するのは分かっていたのに、どうして私はこんなに恐れているのか......。

そして誰もが同じことを感じていると気付いた。恐怖にはプラスになるものもある。だがこのときの恐怖とは、人々が団結して国家の問題の解決法を語り合うことを阻止するような、煮えくり返る感情だった。

――恐怖をどう定義するか。

最も原始的な感情。人間はこの厳しい世界に生まれたとき、最初の恐怖を感じる。成長すると、無力感を覚える際、恐れを理由に他人をスケープゴートにする。「全部奴らのせいだ。この国には女性や移民がはびこっている」と言う。意味のある抗議や建設的な解決策を探らずに、手近な標的に憤る。

人間はいつか死ぬという宿命、また己の動物性、つまり糞便や体液への直感的な「嫌悪」の背後にも恐怖がある。この事実はあらゆる社会に当てはまる。人は人種的・性的下位集団に「気持ち悪さ」を投影する。社会的従属や差別の大部分は、ほかの集団を極めて動物的と見なし、それをさらなる従属の根拠にすることの上に成り立つ。



月経があり、出産する性である女性はこうした文化の中で常に標的にされ、不快な肉体性を象徴する存在になっている。人種差別の場合でも、黒人は「より動物的」だと言われ、ユダヤ人はしばしば「虫」に例えられた。

嫌悪は無力感や恐怖から生じることもある。例えば、トランプはアフリカ諸国を「肥だめ」と呼び、移民の「蔓延」を語る。男性が女性に怒りを感じるのは、女性がすべきはずのことをしないから。つまり男性を支える役割を拒むからだ。女性たちは職場で権利を主張し、性暴力やセクシュアル・ハラスメントで訴えることもいとわない。

一方で時代は変化している。敬意を持って女性に接するとはどういうことか、理解している男性も大勢いる。

――左派は、恐怖の言説を拡散していると保守層を非難しがちだが。

無責任な言説は右派だけのものではなく、責任感のある保守派は数多い。(『恐怖の君主制』では)トランプを民主党の政治家ではなく、ジョージ・W・ブッシュと対比している。9.11テロ後、ブッシュは非常に注意深く、責任感を持って発言した。犯人は捕まえるが、ある宗教や集団全体を悪と見なすことはしないと語り、民衆の感情を責任ある形でコントロールした。

――その点で特に優れた手腕を発揮した指導者の例を挙げてもらえるか。

フランクリン・ルーズベルト大統領は民衆の感情を導く上で、驚くほど慎重で責任感があった。アメリカ人の貧困層に対する見方を変えることが不可欠だと理解し、彼らは尊厳ある人間であり、怠惰ではなく社会的変動のせいで苦しんでいることを示そうとした。

そのための手段として、ニューディール政策を通じて芸術家も起用した。例えば(写真家の)ドロシア・ラングは、アメリカの貧困を極めて印象深く切り取った作品を残している。

私が手本とするのはマーチン・ルーサー・キングだ。民衆の感情の導き手としての彼の課題は、一般的な民衆ばかりでなく、自身の運動の内部でいかに感情を形作るかというものだった。怒りには、恐ろしい過ちに対して、同じことは二度と許さないと抗議する側面があると、彼は言っている。だがそこには報復の側面、自分を傷つけた相手を傷つけようとする意図もある。



怒りの純化を説いたマーチン・ルーサー・キング REG LANCASTERーDAILY EXPRESSーHULTON ARCHIVE/GETTY IMAGES


だから、彼は「運動に怒りを持ち込む人々がいたらどうするか」と問い掛けた。怒りを純化し別の感情に導く必要があると語った。希望や、正義は可能であるという信念、そして何よりも愛へと。アメリカが最も危険で困難な政治状況にあった時代に、彼は素晴らしいやり方で民衆の感情を形作った。

――あなたは民主主義が機能していると信じることの重要性を指摘している。

絶対君主制の君主は、人々にひたすら従属と服従を求める。そんな状況の下では、君主の意思と行動に依存するのも悪くないかもしれない。しかし、依存と信頼は違う。

信頼とはもっと大きな何か、あえて自分をさらけ出し、自分の夢と未来を誰かの手に委ねることを意味する。



民主主義とは、自分の希望と未来が見知らぬ人々の手の中にあることを前提としている。悪しき決定が下されることもあり、自分の意見が常に通るとは限らないが、結果は甘んじて受け入れる──ここに信頼がある。そのためには、反対側の人々への敬意が欠かせない。たとえ彼らは間違っていると思う場合でも。

しかし、信頼は敬意以上のものだ。信頼には、自分が脆弱な立場になるのを許容することも含まれる──例えば意に沿わない選挙結果を受け入れるというような。政治プロセスに対する一定の心構えを持つことは極めて難しい。そのプロセスへのトランプの攻撃に、私はとても心を痛めている。

トランプのメディア攻撃についても同様だ。私たちはニュース、少なくとも多くのニュースは真実だと信じる必要がある。政治プロセスが機能するためには、その前提が必要なのだ。

――希望は恐怖の「解毒剤」だという著書の指摘は、どういう意味か。

希望は通常、恐怖の対極にあると見なされる。ある意味では正しい。だが、哲学の伝統に従えば、この2つはとてもよく似ている。どちらも極めて不確実な結果が、自分にとって有意義で重要なものと見なすことを求めている。私と同じように、他者や祖国、自分でコントロールできないものを愛することが重要だと考える人間なら、恐怖と希望の両方を心に持つことになる。

――希望を持つための「実践的習慣」についても教えてほしい。

誰もが自分なりの方法を見つけなければならない。例えば芸術は素晴らしい希望の学校だ。どんな活動であれ、たとえぞっとするような作品でも、芸術家は人間の内面を探るきっかけを与えてくれる。嫌悪だけではないやり方、より深い理解に導く方法で。

哲学もそうだ。ソクラテス派の哲学は、討論のモデルを示してくれる。哲学の教室では、誰かを大声で罵ったりしない。理性的で敬意に満ちた討論の習慣を身に付けること、それが希望を実践するということだ。

――この困難な時代に、冷笑的態度や無関心を克服する方法は?

私たちは(古代ローマの政治家・哲学者)キケロのような、自らリスクを取り、進んで関与する意思を持ち、自分を過度に守ろうとしない人々を称賛すべきだと思う。政治には困難と痛みが伴う。その世界に身を投じ、潔さと喜びを持って行動する人々は、人間ができる最も重要なものの一つを実践している。



リスクを取る政治家で哲学者だったキケロの胸像 ARALDO DE LUCAーCORBIS/GETTY IMAGES


個人的には、冷笑的な反応には全く魅力を感じない。 私と同じように、自分の人生はこれ1度きりしかないと考える人間にとって、それが無価値だとしたら何に価値を見いだすのか。世界は素晴らしいもの、美しいものにあふれている──人々、自然、動物たち。特に若い人には、この星を維持するためにできることをやってほしい。そのためには多くの努力が必要だ。

<本誌2019年2月5日号掲載>


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ニーナ・バーリー

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