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「慰安婦」はいかに共通の記憶になったか、各国学生は何を知っているか

ニューズウィーク日本版 2019年8月6日 17時40分

<韓国、アメリカ、日本......米コロンビア大学の学生たちが一人ひとりの「戦争の記憶」を語る。私たちの知らなかった「慰安婦問題の背景」を、キャロル・グラック教授が学生たちとの対話を通してあぶり出した>

対話式の特別講義に、米コロンビア大学の学生11~14人が参加した。育った場所が日本、韓国、中国、インドネシア、カナダ、アメリカ各地と国際性に富んだ彼らが、一人ひとりの視点から「戦争の記憶」を語る。そこで浮かび上がるのは、各国それぞれ違う、戦争の記憶の「作られ方」だ。

日本近現代史を専門とするコロンビア大学のキャロル・グラック教授(歴史学)。新著『戦争の記憶 コロンビア大学特別講義―学生との対話―』(講談社現代新書)には、グラック教授が多様な学生たちと「戦争の記憶」について対話をした全4回の講義と、書きおろしコラムが収録されている。

本書の元となったのはニューズウィーク日本版の企画で、学生たちとの対話は2017年11月から2018年2月にかけ、ニューヨークの同大学にて行われた。本誌では「戦争の物語」「戦争の記憶」「『慰安婦』の記憶」そして「歴史への責任」と、全4回の特集として掲載し、大きな反響を呼んだ。

ここでは3回目の講義、「慰安婦の記憶」を、『戦争の記憶 コロンビア大学特別講義―学生との対話―』から3回にわたって全文掲載する(この記事は第1回)。

長く語られなかった慰安婦問題が、90年代にアジアで噴出したのはなぜなのか。グラック教授が学生たちとの対話を通してあぶり出す、私たちの知らなかった「慰安婦問題の背景」とは――。

※第2回はこちら:韓国政府が無視していた慰安婦問題を顕在化させたのは「記憶の活動家」たち
※第3回はこちら:韓国と日本で「慰安婦問題」への政府の対応が変化していった理由

◇ ◇ ◇

慰安婦問題が共通の記憶になるまで

グラック教授 前回は「記憶の作用」についてお話ししました。通常はあまり変わることのないある国の「戦争の記憶」が変化するとき、その変化をどのように理解したらよいのかについて考えましたね。「記憶の領域」や「記憶が変わる方向性」「政治の文脈」という視点から、「共通の記憶」がどのようにつくられて伝達されていくのか、どのように変化するのかについて議論しました。

3回目となる今日は、「共通の記憶」について「慰安婦」をケーススタディーとしながら、さらに考察してみようと思います。現在、慰安婦について知らない人は少ないかもしれませんが、以前からそうであったかというと違います。つまり、本日お話しするのは、「慰安婦が共通の記憶に取り込まれるプロセス」についてです。

まずはこの質問から始めたいと思います。慰安婦について初めて耳にしたのはいつでしたか。

トム 2014年頃、大学の学部時代に日本史の講義で初めて聞いたと思います。

グラック教授 その講義のテーマは、第二次世界大戦に関してでしたか。

トム 1600年から第二次世界大戦の終わりまでという幅広い内容でした。

グラック教授 2014年でしたら、現代日本史の講義で慰安婦の話が出てくる可能性は十分にありますね。この頃までには、慰安婦の問題は共通の記憶としてたびたび取り上げられていたからです。それより25年前に大学に通っていたとしたら、慰安婦については習わなかったでしょう。ほかには?

ジヒョン 1990年代半ばだったと記憶しています。名前は覚えていませんが週刊誌で読んだと思います。私は韓国出身なのですが、1994年にインドネシアに移住しました。インドネシアで、購読していた韓国の雑誌で読んだような気がします。

グラック教授 そのことについて誰かと話をしましたか。それとも、自分で読んだだけですか。

ジヒョン 自分で読んだだけです。インドネシアでは慰安婦について特に一緒に話す人はいなかったので......。



グラック教授 分かりました。ほかには?

ニック 大学の学部時代に日本史と中国史のコースを履修していましたが、そのときには慰安婦については習いませんでした。ただ、家族と一緒に2000年初頭に日本に移住して、ニュースの中で教科書問題について聞いた覚えがあります。この頃には、慰安婦よりも先に『ザ・レイプ・オブ・南京』(1997年、中国系アメリカ人作家アイリス・チャンによる南京事件に関する著作)や教科書問題のほうがメディアで論争を呼んでいたと思います。慰安婦問題は、それらに付随する形で出てきたような印象です。

グラック教授 2000年初頭に、メディアを通じて知ったのですね。アイリス・チャンの著作は1997年に発売されて、既に論争を呼んでいました。では他の人。慰安婦については、初めて聞いたのはいつでしたか。

ダイスケ いい答えではないかもしれませんが、いつどこでだったか覚えていません。

グラック教授 なるほど。ずっと前から知っていたということでしょうか。いつ聞いたのかを覚えていないということは、覚えていないほど前から知っていたという可能性もありますね。高校を卒業したのはいつですか。

ダイスケ 2008年です。

慰安婦の「歴史」について知っていること

グラック教授 ありがとうございます。それぞれの答えから、皆さんが慰安婦について学校やメディアなどさまざまな文脈の中で耳にしてきたということが分かりました。では、慰安婦について皆さんが知っていることとは何ですか。これは「事実」に関する質問です。

クリス 慰安婦というのは朝鮮人女性に限った話ではなく、中国人女性もいた、ということ。慰安婦問題が政治化された後に、議論したり報道したり被害者を支援することに対して韓国政府が抑圧し、そのことが韓国における共通の記憶の形成に直接的な影響を及ぼしたということ。またそれが、何年も後になって被害者たちが証言する上でも影響したということです。

グラック教授 分かりました。ほかにはどうでしょうか。いま皆さんに投げ掛けているのは、「歴史」についての質問です。

スペンサー アジアのいろいろな場所に、日本軍のためのいわゆる「慰安所」というものが存在していたということです。強制性を伴う場合が多かったと......。

グラック教授 なるほど。ほかに、事実について知っている人?

トニー 私が知っているのは、慰安婦だった人たち自身はずいぶん後になるまで、それについて語ることができなかったということです。

クリス 長い時間がかかったということですよね。

ジヒョン 私が読んだ話では、1990年代初めの金泳三政権になって初めて声を上げ始めたと。

グラック教授 金泳三政権の少し前(1991年、盧泰愚政権の時代)でしたが、慰安婦を共通の記憶に盛り込もうとしたのは確かに1990年代初めでした。なぜこのときだったのかは後で話しましょう。ほかに知っている事実について話したい人はいませんか。

クリス タトゥーを「烙印」と見るのは、日本人男性が慰安婦の体にタトゥーを入れたからだと。私はいつもそのように聞かされていました。

グラック教授 誰があなたにそう言ったのですか。

クリス 母です。



グラック教授 あなたは韓国人ですか。

クリス そうです。

グラック教授 あなたのお母さんが、タトゥーの話を教えたのですね。

クリス はい。そのほかにも、コロンビア大学で韓国の女性とジェンダーについての講義を履修していたとき、1990年代末から2001年頃に作られたドキュメンタリー映画を見ました。それ以前にも、中学校のときに発声の先生が慰安婦についてのオペラの脚本を作っていました。

グラック教授 中学校はどこでしたか。

クリス メリーランド州ボルティモアです。

グラック教授 あなたのお母さんや発声の先生は、どこで慰安婦についての情報を得ていたのでしょう。

クリス 母は梨花女子大学校に通っていて(韓国初の女子大として名を馳せる名門大学)、発声の先生は韓国系アメリカ人でした。それなので......。

グラック教授 ああ、その答えで分かります。

一同 (笑)

グラック教授 その考えはどこからきたのかについて、理解しようとすることが必要ですからね。アメリカの中学校や発声の先生は慰安婦について教えませんが、梨花女子大学校に通っていたとか、韓国系アメリカ人、というので説明は成り立つでしょう。では今度はもっと個人的な質問をしてみましょう。あなたは、慰安婦についてどう思いますか。知っていることではなく、慰安婦についての皆さんの見解を教えてください。

韓国から見た「慰安婦問題」

ヒロミ(仮名) 私の意見では、それは事実――実際に起きたことだと思います。そして、それに対して日本人は謝罪をしました。ですが、韓国政府はこの問題を政治の道具として利用している。韓国政府が何をしたいのかは分かりませんが、この問題を持ち出して、何かの交渉に使おうとしていると思います。彼らはこの問題を政治の道具に使っている――これが私の見方です。

グラック教授 ヒロミの慰安婦についての見方は、この問題は政治的に利用されているということですね。

(ジヒョンが手を挙げる)

グラック教授 はい、どうぞ。

ジヒョン 一般的な見方と、私個人の意見と、二つあります。韓国人が一般的に思うこととして、韓国人が大前提として求めているのは誠意ある謝罪です。ですが、彼らが本音の部分で最も求めているのは、一貫性です。

グラック教授 一貫性というのは、何についてですか。

ジヒョン メッセージや態度です。

グラック教授 誰のメッセージや態度ですか。

クリス 日本人......。

ジヒョン 韓国人が日本人の謝罪を謝罪として受け入れない決定的な理由は、謝罪があった直後に、日本政府の誰かが違うことを言うからなんです。

グラック教授 つまり、日本人の態度に一貫性がないと言いたいのですね。

(ジヒョンがヒロミとコウヘイのほうに向き直って話し続ける)

ジヒョン 一貫性がないことが、韓国人をとても混乱させているのです。

ヒロミ 政府の役人も一貫性がないことを言っているのでしょうか。

ジヒョン 首相が言うこともあります。河野談話についても一貫性がありません。日本が慰安婦に補償したと言うのであれば、慰安婦問題が歴史的事実であると認める必要があります。ですが、多くの政治家がそれとは反対のことを言っています。



グラック教授 ヒロミとジヒョン、二つの立場がありますが、両方とも国際政治に絡んだ問題ですね。ジヒョン、もう一つの意見は何ですか。

ジヒョン これは私個人の意見で、一般的な見方ではないのですが......。もちろん、日本も韓国もこの問題を政治的手段として利用しているところがあります。でも、それはある意味当たり前だと思います。政治家というのは常にそうするものなのですから。 一方で、この問題がなぜ一向に解決しないのかを考えたとき、これは別の次元でも扱わなければならないことだと思いました。つまり、慰安婦というのは、女性に対する残虐行為についての話であると。歴史認識や外交問題というより、ジェンダーの議論であると思うようになりました。

似たような残虐行為は、韓国人男性からベトナム人女性に対しても行われましたし、日本政府も日本国民に対して残虐行為を行いましたよね。慰安婦の問題は、ジェンダーや人権という、より大きなスケールで考えるべきだと思います。

グラック教授 国際関係上、政治家たちがこの問題を道具として利用しているという側面と、女性に対する残虐行為という側面があるということですね。これはとても重要な点で、そう考えているのはあなただけではないですよ。ほかに、慰安婦についての見解はありますか。

ダイスケ 事実として、それは過去に起きたことだと私も思います。そういう認識の上で、これまでにさまざまな議論に触れてきました。例えば、韓国人もベトナム人に対して同じことをした、だから......という議論。あとは、慰安所のようなところに連れていかれたのは実際には何人だったのか、という数の議論があります。

グラック教授 慰安婦の議論について、重要なポイントを指摘してくれました。南京事件でも似たような議論が聞かれます。両方のケースで、誰が誰に何をしたのか、それはなぜなのか、そして数の議論が出てきます。ですが重要なのは、ダイスケが言ってくれたように、こうした議論こそが共通の記憶をつくるのだということです。

多数の国の軍隊が売春宿を持っていた

グラック教授 では慰安婦がどのようにして共通の記憶になったのか、というプロセスの話に戻りたいと思います。また質問してみましょう。1945年、もしくは終戦直後に、人々が慰安婦について知っていたのはどんなことだったでしょうか。想像してみてください。そこでいう「人々」というのは誰を指すのかについても教えてください。

ニック 慰安婦のようなことは日本軍だけではなくほかの国の軍隊でもありましたし、東ヨーロッパでもひどいことが起きていました。日本と中国と韓国の人々は、こうしたことが起きていたと知ってはいても、戦後復興や冷戦、朝鮮戦争の過程などでその記憶を脇に追いやっていたのではないでしょうか。

グラック教授 脇に追いやるという場合には、まずそれを問題視していることになりますが、当時はあえて無視していたというよりは公然の事実だったのでしょう。 慰安所について確実に知っていた人というのは誰でしょうか。

ニック 軍人たちです。



グラック教授 もちろんそうですね。慰安所というのは、あえて一般的に呼ぶならば、軍の売春宿のことです。当時、慰安所は軍にとっては珍しいものではなく、それぞれの国の軍隊が売春宿を持っていました。軍人たちは慰安所の存在をもちろん知っていましたし、それは戦争の一つの側面でした。では、軍人のほかにその存在を知っていたのは誰ですか。

マオ 歴史的には皮肉なことかもしれませんが、戦後、米軍が日本を占領していたときにも同じような施設があったと思います。もっと聞こえがいい名前に変えて......。

グラック教授 「余暇・娯楽協会」ですね(Recreation and Amusement Association。日本占領期、連合国軍による一般女性に対する性犯罪を防ぐために日本政府が設置した特殊慰安施設協会。「余暇・娯楽協会」の売春宿は設置から7ヵ月後にGHQによって廃止された)。

日本占領期の売春についても語れることは多くありますが、ここで重要なのは、軍のための売春宿は見慣れない存在ではなかったという点です。 戦後、慰安婦について知っていたのは、まずは慰安所を利用したことがある人間と、元慰安婦たち自身でした。しかしながら、彼らや彼女たちはそのことについてあまり語らないですね。なぜ語らないのでしょうか。

ニック 汚名を着せられるからでしょうか。

グラック教授 元慰安婦にとっては、汚名とトラウマが理由でしょうね。元慰安婦は家族の元に帰ったとしても、自分の身に起きたことについて語らない場合が多いです。ではなぜ、慰安婦の話は戦争の物語に組み込まれていなかったのか。戦争の物語では被害者の存在が重要視されるものです。原爆の被害者や国内で戦争を経験した人々の話は出てくるのに、なぜ慰安婦は登場しなかったのでしょうか。

※第2回に続く:韓国政府が無視していた慰安婦問題を顕在化させたのは「記憶の活動家」たち

※第3回はこちら:韓国と日本で「慰安婦問題」への政府の対応が変化していった理由


『戦争の記憶 コロンビア大学特別講義―学生との対話―』
 キャロル・グラック 著
 講談社現代新書




キャロル・グラック(米コロンビア大学教授)

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